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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(3)

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出立のとき

27番目と28番目の質問に「イエス、イエス」と答え忠誠と認められた人々は、入隊、または仕事、学業で早く収容所を出て、アメリカ中西部や東部の町に移るよう奨励されました。学業半ばで立ち退きにあった二世の学生を大学に戻す手助けをするために、クエーカー教徒のアメリカン・フレンズ・サービス委員会が後押しをして、全国日系アメリカ人学生転住協議会をつくり、すぐに仕事にとりかかり、4,000人以上の学生を軍事制限地区以外にある6,000以上の大学へ送る手助けをしています。クエーカー教徒は、新しい都市に来た日系人の一時的な宿を提供するホステルも用意しました。トパーズのヨシコ・ウチダ、ミニドカのルイーズ・ツボイとシロー・カシノにも、それぞれ出立のときが来ました。


ヨシコ・ウチダ
———

私は全国日系アメリカ人学生転住協議会(ここの職員はすでに友だちのように思われた)にあてて何十通も手紙を書き、数え切れないくらいの書類に必要事項を記入し、たとえスミスカレッジへの奨学金が現実のものとならなかったとしても、必ずどこかに行くのだと決意した。姉も、自分の専門の仕事で空きがみつかることを願って、おびただしい申し込み用紙に記入をしていた。1

まずヨシコの姉、ケイコにマサチューセッツ州にあるマウント・ホリヨーク・カレッジの教育学部が運営する保育園で助手として働いて欲しいという、知らせが届きます。すぐに、ヨシコにもマサチューセッツ州のスミス・カレッジから奨学金付きの入学許可が届きました。5月24日、待ちに待った転住局からの出所許可書もおり、二人は長かった収容所生活に別れを告げます。

姉と私にとって、寒い暗い冬が終り、今、ようやく、春の手の中にいた。私たちのながかった荒野の捕囚も終わった。私たちは、ついに、一年以上も断ち切られていたあの世界へ戻る道をたどっていたのである。2

収容所を出て外の世界に向う日。両親と一緒に並んだ姉(向って右端)と私、トパーズ収容所、1943年。(「荒野に追われた人々–戦時下日系米人家族の記録」ヨシコ・ウチダ著 波多野和夫訳 岩波書店より、写真:ユリ・ブロケット)


ルイーズ・ツボイ———初夏

ルイーズはすでに高校を卒業していたので、アメリカに忠誠だと判断されるや否や、母親はルイーズにシカゴの4年制の大学で勉強するように勧めました。子どもたちにいい教育を受けさせたい、これがルイーズのお母さんの夢でした。ルイーズは六人兄弟の3番目。一番上の姉はニューヨークのジュリアード音楽院でピアノを、その下の兄はカリフォルニアで航空工学を勉強しています。お母さんの次の目標がルイーズでした。

シカゴ行きをすすめるだけでなく、初めて一人旅をする17歳のルイーズの不安をやわらげたいと考えていたお母さんは、仕事場の病院で、ある二世の看護婦さんと彼女のボーイフレンドの医師希望の若者が、収容所を出て学校に行くということを耳にすると、途中までルイーズも一緒に連れて行ってくれるよう二人に頼みます。三人は汽車に乗り込み、カンザスシティで一泊し、また汽車に乗り込みセントルイスまで。ここで三人はそれぞれの道をいくことになります。看護婦さんはセントルイスの看護学校に、若者はフィラデルフィアの医科大学に、ルイーズはシカゴではじめての自活生活。出発前、立ち退きの際に店を売ったお金だったのでしょう、お母さんは2,000ドルの小切手を、ルイーズの肌着に安全ピンでとめることも忘れませんでした。6月のことです。

当時ルイーズは、鉄条網の囲いを出た喜びよりも、知らない街で学校や住む所を自分で決めなくてはいけない不安の方が大きかったと言います。シカゴについたルイーズは一旦クエーカー教徒の運営する、アメリカン・フレンズ・ホステルに落ち着き、学校探しを始めました。いま両親がおかれている状況では資金がいつまで続くかわからないこともあって、4年制大学よりも1年間の専門学校に行くことにしました。最初にグレッグ速記学校に願書を出しましたが、日系人ということで断られ、シカゴ・コマーシャル・カレッジという、先生一人に生徒一人のような小さな学校に決めました。小さいからこそ、とてもいい教育が受けられたと言います。3


シロー・カシノ———初秋

一方、ルイーズのボーイフレンドのシローは、ミニドカで陸軍からの連絡を待っていました。すでに志願していたのです。ルイーズがシカゴに発って2、3ヶ月した頃、シローにも軍隊から決定通知書が届き、9月、訓練のためミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに向かいました。4


子どもにとっての忠誠心問題

ヒラ・リバーのジーン・オオイシ一家も兄のヨシローとゴローは軍隊に入り、アメリカ生まれで日本で教育をうけた、帰米二世の長男ニマシは忠誠心問題でキャンプ中大もめになっていた時、親日強硬派として逮捕された後、アリゾナ州のポストン収容所に移されています。姉婿も帰米二世で、ニマシと共に逮捕され、ポストン収容所に転住させられていたため、姉のヒロコは子どもを連れて、姉婿のいるポストンへ。ホシコはミネソタの大学に。ジーンはこう言っています。

ぼくは収容所内を荒れ狂っていた政治論争については、だいたいのところ分かっていた。けれども口出しはしなかった。子供はみんなそうだった。もちろん兄や姉など年上の者が、戦争について、強制収容について、政府の日系人への態度について、論争をたたかわせていることは知っていた。……

ぼくにとって忠誠心問題は病気と同じで、ぼくの家族に襲いかかっては、次々とその数を減らしていった。…… ぼくの家族はちりぢりになり、崩壊したといってもよい。いずれにせよ、その根底にあったのは忠誠心の問題だったが、ぼくは長らく原因と結果を別に扱い、関連づけるのを避けてきた。深入りしたくなかった。5

第四章(4)>>


注釈:

1. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々−−−戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

2. 前掲「荒野に追われた人々−−−戦時下日系米人家族の記録」

3. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington.

ルイーズのお父さん、カキチ・ツボイは小豆島出身。『二十四の瞳』の著者、壷井栄はおばさんにあたります。子どものころからアメリカで生活するのが夢で、船員としてアメリカに行き、そこで船から飛び降りる計画をたてました。一回目は失敗し、二回目に夜の闇にまぎれて船からロープを伝わって身をきられるように冷たい2月の海におり、泳いでシアトルに上陸。1913年のことです。その後、色々な仕事をし、5年後にはお嫁さんを探しに日本に一時帰国。おじさんの紹介で結婚することになったタミエもやはり小豆島出身。この時は合法的にアメリカに入国しています。二人は苦労のすえ、立ち退き前にはシアトル市内に二つのグローサリー・ストアを経営するまでになっていました。

4. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington.

5. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ−−−ある日系ジャーナリストの半生」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

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Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。