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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (1)

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…… 集合所の暮しがどうなるか明確なことはわかりません、ましてやその後に行く所については。でも、わたしたちは国際家畜展示場を改造したポートランド・キャンプに入所する4,000人のオレゴン日系人のなかの一人になります。(収容所内では)できる仕事も限られているので、多くの人が退屈にただ時間を過ごすことになりそうです。こんなに込み合った環境での親の一番の心配は、子どもたちのことです。どうすれば子どもたちを有害な影響から守れるか、どうすれば子どもたちを創造的で建設的な生活に導けるか……1

これは、仮収容所に入る直前に、アンドリュー・クロダが友達にあてた手紙です。日系人たちにとって、一番気にかかったのは、やはり子どもたちのことでした。コートの襟の折り返しの所と持ち物に、家族の登録番号をつけて、有刺鉄線の張り巡らされている仮収容所の入口をくぐった瞬間に、一人一人の名前は番号に変わり、自由と尊厳とを失いました。

* * * * *

集合所の地図(筆者作成)

内陸部の強制収容所2の完成を待つ間、日系人は「集合所」に集められます。カリフォルニア州に13ヶ所、その他オレゴン州ポートランド、ワシントン州ピュアラップ、アリゾナ州メイヤーと併せて16ヶ所所。主に競馬場、家畜展示場、ステート・フェア会場3が間に合わせの住居になり、日系人は、平均して100日間、この仮収容所ですごしたことになります。米国陸軍と戦時民間人管理局 (WCCA) が管理にあたりましたが、収容所内の活動は日系人に任せることに。そこで、日系アメリカ人市民同盟 (JACL) が管理局と収容者間の仲介的役割を担いました。4

下水道なし、天井からぶら下がっている裸電球が一つ、部屋の真ん中に置かれたストーブが一つとコンセントが一つ。これが軍の用意した各部屋のしつらえで、どこの収容所も同じです。備品は、軍隊用簡易ベット、軍隊用毛布とマットレス用布袋。その袋に自分でわらをつめてマットレスを作ります。隣室との壁は天井のないバラックの屋根まで届いていないので、話し声は筒抜けです。食堂、洗濯場、トイレ、シャワーも全て共同で、トイレ、シャワーには仕切りもドアもありません。慎ましい人は、人の少ない夜遅くにと思うのですが、いざ行ってみると、他にも同じように考える人がいて。ささやかなプライバシーもない生活が始まりました。 

なにしろ、急ごしらえの仮収容所、日系人が到着した時には、バラック建設も下水道の準備も何もかもが中途半端。こんな混沌たる状況で、どのように自分たちの生活とコミュニティを築き上げていったのか、どうして「子どもたちを創造的で建設的な生活に導いた」のか­——子どもたちの目を通して探っていくにつれて、収容所の中からも、外からも、自分の責任で自分の出来ることで、手をさしのべてくれた人の存在が見えてきます。 


1. 子どもたちの「集合所」

収容されてすぐに、子どもたちは、手紙を出しはじめます。まずは、ピュアラップ仮収容所からワシントン・ミドルスクールのエヴァンソン先生とクラスにあてた手紙です。

……自分達用の椅子やテーブル、それにベッドのマットレスもわらを入れて自分で作らなきゃならないんです。(ひどくないですか?)…… 追伸、どうかお手紙を下さい。クラスのみんなも。ここは寂しいです。先生のお写真もいただけませんか?5  
                          メアリー

サンディエゴのサンタフェ駅でクララ・ブリードに見送られた子どもたちが着いた所が、カリフォルニア州のサンタ・アニタ仮収容所です。ベーブ・カサハラが、これから住む部屋に初めて入った時のことです。

……馬小屋に住んだんですよ。アスファルトの割れ目には乾いた馬糞のかすがあったんです。母は目に涙を浮かべて、こんなところに入らない、と言いました。…… 父はFBIに連れて行かれたため一緒ではありませんでした。父はニューメキシコ州のサンタフェに5ヶ月拘留されていて、ぼくたちがサンディエゴを立ち退きになると聞いた時、日記に「誰もが立ち退きを心配している。涙があふれてしょうがない。この自由の国でそんなことが起こるなんて信じられない!」と書いています。

幸い、隣のロサンゼルス出身の人がほうきとバケツを貸してくれましたので、アスファルトに水をかけ、ほうきでこすってきれいにしました。それで母も中に入ると言いました。ただあのひどい臭いはその後もずーっと残りました。壁をスプレーで塗布してあるのですが、馬糞のついた藁も一緒に塗り込んであったのでしょう。6

ターミナル島のジャンヌ・ワカツキは、ロサンゼルスから約330キロ内陸に入った海抜1200メートルの高地にあるマンザナー仮収容所に到着。シエラネバダ山脈から吹き下ろす冷たい風が、砂漠の砂を巻き上げて砂嵐を巻き起こす所です。この砂嵐にはジャンヌもびっくりしました。

強制収容所で袋に藁をつめて自分たちのマットレスを作る日系人(マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.2])  

わたしたちは一日中バスに揺られた。目的地に着いたときには、シェードはあげられていた。午後ももう遅かった。わたしが最初に目にしたのは、赤い夕日をぼんやりとかすませる黄色い渦巻きだった。バスは激しく降りしきる雨に叩かれているような音を立てていたが、それは雨ではなかった。やがてまもなく馴染みとなるそれを、わたしはそのときはじめて見たのだ。それはオーエンス峡谷から吹きつける砂嵐だったのである。……

翌朝早く、寒さに震えながら起きたわたしたちは、ふし穴やドアのすきまから吹きつけてくる砂塵にまみれていた。夜のあいだに、ママは衣類をすっかりひっぱりだして、あたたかく眠れるようにと、わたしたちのベッドの上に積みあげてくれていた。わたしたちの部屋は、まるでクリーニング屋の大きな袋がはち切れて、飛び散った衣類のうえにこまかい砂埃を吹きつけたようだった。床はうすい砂の層に覆われていた。わたしはママの肩越しに、ふかふかのマットレスの端で、ジーンズやオーバーやセーターにうずまったキヨを眺めた。

キヨの眉は白かった。そのキヨがくすくす笑いだした。わたしの白い眉と髪を見ていたのだ。わたしたちはすぐに、ふたりしてくすくすと笑いあった。わたしはママもキヨをおかしいと思っているのではないかと、ママの顔を注目したが、ママはわたしのとなりでじっと横たわっていた。その眼はむきだしの垂木、壁、ほこりをかぶった子どもたち、ありとあらゆるものに、ゆっくりと注がれていった。ちょうどそのとき、ウーディが壁越しに声を掛けなかったら、ママの凍りついた顔が崩れて泣き出したろう。7

ワカツキ一家では、父親がFBIに連れていかれた後、24歳の兄ウーディが、必死で父親役を勤めていました。ウーディは、どこからか缶詰の空き蓋と釘を調達してきて、それを節穴や木の割れ目に打ち付けて穴をふさぎます。その頃、ワシントンからアリゾナまでの仮収容所では、いたるところで釘を打つ音が響いていました。バラックを建てた後に残った廃材とその辺にちらばっている釘を拾い集めて、テーブルや椅子や棚をつくっていたのです。

集合所の状況:1942年


図書館ごっこ
 

子どもたちは、愛してくれる家族と友だちがいれば、どこででも生きていける力をもっています。遊びもつくりだせます。ブリードと子どもたちの文通は続き、出版社から送られてくる複数の書評用の本や図書館で廃棄処分される本と手紙に、キャンディ、風船ガムなど、ちょっとしたものを添えて、子どもたちに送り続けます。さわやかな風がヤシの葉を揺らす春の日、サンタ・アニタ仮収容所のエリザベスは、妹のアンナや近くの友だちと、図書館ごっこを始めるために、手製の図書カードを作っていました。ブリードのいたサンディエゴの図書館を思い出して。エリザベスの4月25日付けの手紙から———

お手紙と本をありがとうございます。とても嬉しかったです。昨日、10冊の本を集めて図書館を作りました。本は『オズの魔法つかい』、『ゴールドコーストのカルメン』、『母のいのり』、『聖書物語』、『レベッカ』、『嵐が丘』、『幼児キリスト』、それに送っていただいた3冊の本です。図書館は月曜日に開きます。一冊の本にカードを2枚ずつ作りました。一枚は封筒に、もう一枚は本のカバーにつけます。図書館遊びはとても楽しいです。まもなく、ここにも大きな図書館ができるはずです。わたしがいただいた本はもう読み終えていますが、もう一度読みます。友だちと図書館の規則を作りました。8

第二章(2) >>

 

注釈:

1. Letter by Andrew Kuroda , May 6, 1942, Folder 16, Box 4, Gov. Sprague Records, OSA.  

2. 歪曲表現について:  長期強制収容所の出来るまでの間、日系人が強制連行された所を、政府と陸軍は「集合所」(Assembly Center) と呼びました。マンザナーは「レセプション・センター」と呼ばれました。集合所やレセプション・センターと聞いて、どういうところを思い浮かべますか? ピュアラップ「集合所」には、陸軍の宣伝部がキャンプ・ハーモニーという呼び名まで用意していました。キャンプ・ハーモニーって、夏に子どもたちが寝袋を持って遊びに行く所のような楽しさがありませんか? これらは、政府と陸軍が付けた、事実を歪曲する表現です。実際は、ジーンの言うように、「誰が見ても捕虜収容所そのものとしか思えない」ものでした。そこで、当時のことを書いたり、話したりする時に、その当時実際に使われていた用語を使うのか、そこで行われていたことをより正しく表す用語を使うのかが問題になります。本文では、歪曲用語にはかぎかっこを付けて使用します。二世の方たちは、「集合所」にも「転住所」にもキャンプという言葉をよく使います。

3. 州民のために年に一回行われるステート・フェアは農産物品評会として始まったのですが、20世紀にはいり、遊園地にあるような遊具やコンサート会場も完備して、カーニバルの要素が加えられました。戦時中、軍が目をつけたのは、ステート・フェア会場は比較的大きな場所でインフラが整っているので、仮収容所を建てるのに便利だという点です。そこで、ピュアラップではローラーコースターの側にバラックが並ぶことになりました。

4. しかし、JACLは強制立ち退きの前から一貫して、「政府の言うことに全面的に従うのが、日系人のアメリカに対する忠誠を示すことになる」との姿勢をつらぬいていたため、後に一世、帰米二世の反発をかうことになります。

5. Letter by Mary Hashimoto, May 10, 1942. Ella C. Evanson Scrapbook. University of Washington Libraries Special Collections.

6. ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳「親愛なるブリードさま」柏書房 2008

7. ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストン+ジェイムス・D・ヒューストン著、権 寧訳「マンザナールよ さらば———強制収容された日系少女の心の記録」現代史出版社 一九七五

8. 前掲「親愛なるブリードさま」 

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第134号(2013年7月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

assembly center camps children Clara Breed librarian library World War II

Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。