Elija un idioma principal para aprovechar al máximo nuestras páginas de la sección Artículos:
English 日本語 Español Português

Hemos realizado muchas mejoras en las páginas de la sección Artículos. ¡Por favor, envíe sus comentarios a editor@DiscoverNikkei.org!

war

ja

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (4)

第一章(3)を読む >>

4. 立ち退き令 <1942年春> 

いよいよ、西海岸に定められた軍事地域からの日系人の撤退が始まります。自主的に軍事地域から移動した家族もいましたが、11万人以上の大移動です。恒久的な内陸部の収容所建設が間に合わず、臨時の「集合所」へと旅立ちました。立ち退きは、軍事にもっとも差し障りのある地域から始まりました。

1942年4月1日にサンフランシスコに張り出された立ち退き命令のポスター。
(写真:アメリカ国立公文書記録管理局所蔵 )

近くに海軍基地のあるベインブリッジ島には、3月24日、いち早く立ち退き令が貼られました。ベインブリッジ島はシアトルから西へフェリーで30分の所にあり、当時約250名の日系人が主に農業や漁業にたずさわって暮らしていました。持って行けるものは自分で持てるだけのもの。寝具、洗面用品、衣服、食事用のナイフ、フォーク、スプーン、お椀とコップを持っていくように指示がありました。短波ラジオやカメラは禁制品です。出発は3月30日月曜日、午前11時となっていましたから、準備の時間は一週間もありません。

農地、トラックター、農具、家、家具、衣服、台所道具などを、売るなり貸すなり預けるなり、準備が始まりました。準備期間は所によって違いましたが、長くて数週間でした。一番短かったのは、2月25日に立ち退き令がでたカリフォルニアのターミナル島です。与えられた時間は48時間。そう2日だけです。

ターミナル島に居あわせたのが、ジャンヌ・ワカツキの家族でした。家族は父親が連邦捜査官に連れて行かれた後、兄弟のいるターミナル島に移ってきていました。「数週間まえから、中古品を扱う商人たちが、狼のようにあたりをうろつきまわって、遅かれ早かれ、わたしたちが売りに出さないわけにはいかなくなる家具や品物をひどい安値で買いたたいていた」と著書「マンザナールよさらば – 強制収容された日系少女の心の記録」(権 寧訳)に書いています。ジャンヌのお母さんが大切にしていた「ほとんど透明な、青と白の古いすばらしい磁器のセット」をどうしても持っていけなくなった出発の朝のことを、当時7才だったジャンヌは鮮明に覚えています。

ひとりの商人がそれに15ドルの値をつけた。ママはそれは12個揃いのセットで,少なくとも200ドルはするはずだといった。男は15ドルがつけられる最高の値段だという。ママは身震いしはじめ、男をにらみつけた。わたしたちがなぜまた引っ越すのか、なぜ忙しそうに立ち働いているのかを理解できない祖母をなだめながら、一晩中かかって荷造りをおえたママは、ヒステリー状態になっていた。いまや、海軍のジープが通りをパトロールしていた。ママはそれ以上なにもいわずに、男をにらみつけているばかりだった。怒りとやるせなさが、ママの眼から男へと伝わっていった。

男はしばらくママを見つめていたが、17.5ドル以上は絶対に出せないといった。するとママは赤いビロードの箱のなかに手を入れて、お皿を一枚とりだすと、男の足もとに投げつけた。

男は跳びさがって叫んだ。

「おい、おい、そんなことはやめてくれ! 値打ちのある皿じゃないか!」

ママは、身動きもせず、口を結んだままただ身を震わし、あとずさりする男をにらみつけながら、またお皿をとりだして、一枚、また一枚と床に投げつけた。その頬には涙がながれていた。…… 商人が立ち去ってからも、ママはそこに立ったまま、湯呑みや鉢や大皿を砕き割りつづけた。そしてついには、磁器のセットすべてが、床のうえに青と白の破片となって散らばった。1

ヘンリーのお父さんの食料雑貨店は、前の年に冷蔵庫やキャビネットなどを9千ドルかけて新しくしたばかりだったのですが、お店と在庫とあわせて、いくらだったとおもいますか?全部で、たったの400ドル。2

仏教会や教会が荷物を預かってくれた所もあります。ブリードの家も広くはなかったのですが、子どもたちの大切なものを預かりました。テツゾウはなにを預けたと思いますか?

ぼくは数学、科学、語学等の大学受験用参考書や種々の手引書、その他の本を小さなリンゴ箱に入れ、自分の小さな図書館としていましたが、持って行けなかったので、ブリードさんがその「図書館」を管理してくれました。封をした箱を、ぼくがサンディエゴに戻ってくるまで取っておいてくれました。3

ヘンリーの学校では強制収容所行きの話はしないように言われていました。でも、新しい友達は知っていたようです。ホームルームの時間に、先生が「この中の何人かにとっては、明日が最後の日です」と言った時、彼は急に立ち上がり、「僕がアメリカにやって来たのは、決してこんなことが起こるのを見るためじゃない。何が起こっているのかわからないけど、こんなことのために来たのではない」と話はじめました。4

ヘンリーと同じ中学校のエヴァンソン先生のクラスでは、日系の子どもたちがサイン帖にその時の気持ちを書き残しています。

 ……友だちにも、先生にも、わたしの学校にも会えなくなるし、シアトルを離れたくない。でも、わたしにも、(わたしたちにも、)誰にも、どうする事もできないのです。…… 
                          アイ5

 ……シアトルから立ち退かなくちゃいけなくなった時でも、僕はここで生まれたので、そうすぐには行けません。でも、僕の通っていた小学校とワシントン・ミドルスクールの先生の事は忘れません。みんなとても親切で、たくさんの事を教わりました。これからも、シアトルの先生のような、いい先生に出会えるように願っています。僕はアメリカ人です。
                          ハルオ 6

……立ち退きは悲しいです。勉強出来なくなるし、先生方、ともだち、それにシアーズ校長先生にも会えなくなるので寂しいです。政府が言っているように、収容所に行く方がいいのかもしれません。でも勉強を続けられるように、学校があるといいなと思います。先生もご存知のように、シアトルはわたしの故郷なので、離れるのは悲しいです。戦争が早く終わってほしいです。そうすれば、ここに帰ってこられて、大好きなワシントン・ミドルスクールに通う事ができるから。…… 
                          カズコ7


5. 行き先の分からない旅立ち<1942年春から初夏にかけて>

ベインブリッジ島フェリー桟橋

桟橋には楽しかった試合の思い出を胸にした六人の選手もいました。立ち退きの4日前におこなわれた野球試合についてメアリー・ウッドワードはこう回想します。

ベインブリッジの日系人は、3月30日までに全員島から撤去すべし、との立ち退き令が届いたのが24日でしたから、あれは26日だったと思います。強敵でライバルでもある、となり町の北キットサップ高校とベインブリッジ高校との野球試合がありました。シーズンオープニングの大切な試合でした。チームには負けん気の強いアール・ハンセン選手もいましたが、みんなにミラー父ちゃんと呼ばれているコーチのウオルター・ミラーは、すべての日系の選手をフィールドにだし、試合中選手交替は一度もしませんでした。六名でしたね、中にはいつもベンチに座ってばかりの選手もいましたが。

結果ですって。それはもう15対0ぐらいのさんざんなものでしたけど。8

メアリーの父親で、新聞記者のウオルト・ウッドワード9も試合に来ていました。ウオルトの言葉です。

試合の後、失意のキャチャーが、まだ重い用具をつけたままトボトボとロッカールームへの廊下を歩いている時、どこからかブロンドの女子学生が現れ、彼に追いつくなり、しずかに彼の汗臭い用具の上から両手をまわしてキスをし、泣きながら走りさったのを、たまたま目にして、悲しいのは日系人だけじゃないのを知りました。10

立ち退きのバスを待つ少女 
(写真:ドロシア・ラング・アメリカ国立公文書記録管理局、Densho ID: denshopd-i37-00436)

サンタフェ駅

4月7日、強制送還される日系人でごったがえす構内に図書館に来ていた子どもたちを探すサンデエゴ市立図書館児童室担当司書、クララ・ブリードの姿がみえます。子どもたち一人一人に、1セントの切手を貼り自分の住所を書いた葉書を渡しながら「私に手紙を書いて。キャンプのようすを知らせて。本をおくるわ」と、これからどこに行くのかも、どの位で帰って来られるのかも分からない子どもたちを励まし続けました。11

第二章 >>

 

注釈:

1. ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストン+ジェイムズ・D・ヒューストン著、権 寧訳「マンザナールよさらば———強制収容された日系少女の心の記録」現在史出版社 1975

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

3. 前掲「親愛なるブリードさま」

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, March 26, 1998, Densho Visual History Collection, Densho. 

5. Scrapbook Entry, dated April 17, 1942. Ella C. Evanson Scrapbook. University of Washington Libraries Special Collections.

Pak, Yoon K. Wherever I go, I will always be a loyal American: Schooling Seattle’s Japanese Americans during World War II. New York: RoutledgeFalmer, 2002

6. Scrapbook Entry, dated March 25, 1942. Ella C. Evanson Scrapbook. University of Washington Libraries Special Collections.

Pak, Yoon K. Wherever I go, I will always be a loyal American: Schooling Seattle’s Japanese Americans during World War II. New York: RoutledgeFalmer, 2002

7. Scrapbook Entry, dated March 23, 1942. Ella C. Evanson Scrapbook. University of Washington Libraries Special Collections.

8. Mary Woodward, interview by Debra Grindeland, August 3, 2007, Densho Visual History Collection, Densho.

Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP, Inc., 2006.

ベインブリッジ高校生だったポール・オオタキは「コーチ・ミラーはあの試合は日系の選手がベインブリッジ高校最後の試合に出て、楽しんでくれればいいと思って、スコアには拘っていませんでした。僕たちは一五-二で負けたけど、ミラー父ちゃんのやさしさはいつまでもわすれられません」と語っています。

9. ウォルトと妻のミリー・ウッドワードはベインブリッジ島で「ベインブリッジ・レビュー紙」を発行していました。他の新聞が世論に迎合するか、排日の嵐に油をそそぐ記事を書き続けた中で、常に公平な視点をつらぬいた数少ない新聞です。In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment に島に立ち退き令が貼られた時の怒りの社説の記載があります。「12月7日以降の日系人の品行方正な行動にもかかわらず、彼らの認められている市民としての権利にもかかわらず……アメリカ人のもっている正義感にもかかわらず、こんなに高飛車でこんなに短い立ち退き令なんて、弁解の余地はない。」後に、こうも言っています。「何回も何回も何回もこれは憲法違反だと訴え続けてきました。冒涜です……権利の章典で守られている人権への……。(わたしたちがこういう社説を書き続けたのは)別に日系人のかたをもっていたからじゃなく、日系人に対してこのようなことがおこりうるんだったら、ドイツ系アメリカ人にも、中国系アメリカ人にも、太っちょのアメリカ人にも、ロータリークラブに入っているアメリカ人にも、そう、どんなアメリカ人にも、だれにでも、おこりうることなんだ。」

10. 前掲 In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment.

11. 前掲「親愛なるブリードさま」

子どもたちからクララ・ブリードへの手紙は全米日系人博物館のオンラインでも見ることができます。
http://www.janm.org/collections/clara-breed-collection/

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

bainbridge island camps children Clara Breed EO9066 librarian World War II

Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。