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父の日記(2) 横山家の思い出

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81歳で他界した父は、神戸港を1933年2月に出航したありぞな丸で、移民として19歳の時、一人で来伯した。その父の古い日記帳をめくっていたら「船中思い出」と言う題で、1940年11月23日に書かれたページに目が止まった。従ってこの日記は、父が来伯後7年目に書いたものだった。以下はその日記帳から抜粋した内容である。

Meu pai ficou sabendo da realidade chocante. A tragédia ocorrida sete anos antes, com a família Yokoyama na Amazônia. Meu pai (à direita) em foto da época, em 1940.

ある日、アマゾーナスで働いていたその人が、歯の治療のため、私を尋ねてきた。当然、アリゾナ丸の船中知り合って、あの地域へ行った方たちの行方について聞いてみた。聞かされたことは私を呆然とさせ、気が遠くなるような意外なことであった。

横山氏。その人の話によれば、彼氏の奥様は、アマゾーナスのあの強烈なマラリアに襲われて、日本から現地に来て、三ヵ月目に空しく御他界されたとの事。あの優しかった奥様。船中にての奥様の一言一句が、懐かしい思い出としてよみがえる。故人の霊に、安らかにあれと祈るのみである。

奥様の死亡後、横山氏は痛苦と精神的苦悩をまぎらす為にか、毎日毎日、あの強いピンガを一リットル以上も飲んで正体の無いほどだったとの事。そして、彼氏も、アマゾーナス入耕後、六ヵ月目には、亡き人と成ってしまわれたとの事。

後に残った可哀相な静ちゃん、龍ちゃん、武ちゃんはどんなに嘆き悲しんだ事だろうか。当時、静ちゃんが十四歳、龍ちゃんが十三歳、武ちゃんが十二歳だったと思う。

ああ、可哀相な彼ら三人、どうしているだろう。彼らもあの有名なアマゾーナスのマラリアに襲われ、悲しい事になったのではないだろうか、自分はいつも過ぎし日の事を思い、同航海の人達と会うたびによく語ったものだった。

静ちゃんのお母様は、インテリで優しい、涙弱い奥様だった。船中、よくブラジルに行ってからの事を話して、不安がっておられた。「もし御縁があったなら自分の娘、静江をもらってください、あなたと親子になって、ブラジルで奮闘出来たらどんなに嬉しいでしょう」等と、夫婦でよく語られたものだ。静ちゃんは子供心に何と感じた事だろう。ただ嬉しそうに飛び回っていた。可愛い娘だった。

神戸の収容所での待機中と船中では、ピンポンやボール投げをして良く遊んだものだ。ダーバンで下船した時の野球は楽しかった。航海中は横山さん、西崎さん、中の目君と良くトランプなどして遊んだ。

Meu pai veio ao Brasil em 1934 como imigrante no Arizona-maru

リオの港では、アマゾーナス行きの人達が、船を乗り換えなければならなかった。リオの別れはつらかった。中の目君が、感無量の思いでグット手をにぎったのが、今更思い出せる。然し、何処か淋しい彼君の後ろ姿だった。横山さん、西崎さんも別れを惜しまれた。

静ちゃんのお母様が、静ちゃん、龍君、武君を連れてきて、涙を流して別れを惜しまれた。自分にも胸に熱いものが沸いてきて悲しくなった。「可愛い天使達よ、元気で暮らされよ」と心の中で念じた。

静ちゃんは淋しそうな悲しそうな表情の眼差しで、じっと目にいっぱい涙を溜めて僕の顔をいつまでも見ていた。そして、あの娘は無言のまま別れた。龍君と武君は水兵服に鳥打帽子と言う雄々しい服装で「宮村さん、さようなら」と元気で別れて行った。

ああ、思い出の人達よ……横山氏一家を思うと同情に堪えない。

ベレンの領事館から聖市の領事館にも何度も聞いてみたが不明だ。ただ、横山氏夫妻の死とその後の子供たちは人手にわたっているとの事。思い出の彼達ももはや二十歳、十八歳、十六歳となっているだろう。何処でどうしているだろう。会いたいものだ。さぞ苦労している事だろう。心から思って、想い出に悩まされる。

この日記を書いたとき、父は26歳であった。彼は一人、独身、孤独でさぞ淋しくこの項を綴ったことであろう。多分、この不運を心の底から同情し、この世に神はいないのだろうかと思ったかもしれない。この日記を読んで、どうもそんな気がしてならなかった。

この日記に登場する方達の御子孫と連絡が取れたら、是非お逢いして亡きお身内の方々の思い出を語り合いたいと思う。

 

* 本稿は、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に掲載された(2004年3月30日)ものを加筆修正したものです。

© 2005 Hidemitsu MIyamura

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Sobre esta serie

En 1934, a los 19 años, emigraron solos a Brasil y, a partir del diario escrito por su padre, fallecido en Brasil a los 81 años, y de las vivencias de la familia de su abuelo, se describe el viaje que emprendieron. en la columna del periódico de São Paulo “Sala del Lector”” (abril de 2003 a agosto de 2005). Compiló las columnas y las publicó en 2005 como "Un encuentro que fue infinitamente distante". En esta serie, presentaremos algunos de los episodios.

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Acerca del Autor

Nacido el 1 de enero de 1944 en Paraguasu Paulista, hijo mayor de Suemitsu Miyamura y Toshiko. Durante su infancia estudió japonés en la ciudad de Apukarana, norte de Paraná. Egresado de la Facultad de Ingeniería de la Universidad Nacional de Paraná en 1967. Se incorporó a NEC Brasil Corporation en 1968 y se jubiló en 2001. Este año se independizó y desarrolló una nueva industria del reciclaje. Tiene un hijo (Hidehiro Douglas) y una hija (Hiromi Erica) con su esposa Kayoko Alise. En 2005 publicó una colección de ensayos titulada "Encuentros infinitamente distantes". Publicado en el periódico de Sao Paulo, etc. Mi hobby es leer historia.


(Actualizado en enero de 2013)

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