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私のカナダ物語 - 『朝日軍』選手 ケイ上西(かみにし)さん-

第2次世界大戦前の27年間、カナダ西海岸を熱狂させ、人種差別に苦しんだ日系社会に勇気と誇りを与えた伝説の野球チーム『朝日軍』。元選手のケイ上西功一さん(88)がカムループスで元気に暮らしている。週2回バドミントンに通い、昨年はBC州大会80歳部門で銀メダルを取るなど、現役顔負けで活躍中だ。

日系野球チーム「朝日軍」

1900年初頭、人種差別と過酷な低賃金労働に耐えながらも、独自のコミュニティーの中で暮らしていた日本人先駆者たち。「英語は話せなくても野球なら出来る」と宮崎松次郎(初代監督)が15歳前後の日系2世の少年9人を選び抜いて猛特訓を開始。1914年(大正3)日系人アマチュア野球チーム『バンクーバー朝日軍』が誕生した。

監督は、「大和魂と武士道精神を忘れるな」と語り、選手にラフプレーや審判への抗議を一切禁じた。少年たちはめきめきと腕を上げ、1918年にバンクーバー・シニアリーグに進出。カナダ西海岸における強豪チームに次々と圧勝した。1921年には日本遠征に出て、夏の甲子園(当時は全国中等学校野球大会)の覇者、旧制和歌山中学と対戦。1926年にはターミナルリーグ戦でアジア系カナダ人チームとして初めて優勝した。当時、朝日軍の活躍は日系人に大きな誇りをもたらすだけでなく、フェアプレイと独自の野球スタイルで多くのファンの心をつかんだ。

1939年の朝日軍。後列左から2番目が上西さん (写真提供:ケイ上西さん)

憧れの野球チーム

ケイ上西さんは1922年にバンクーバーで生まれ、日本の教育を受けるために両親の故郷、広島で育った。11歳のとき、父親の死を機に帰加。旅館を経営する母とパウエル街に住み、バンクーバー日本語学校に通った。食堂や旅館、銭湯もあったジャパンタウン。上西さんはまさにその日系人街で暮らし、貴重な経験を持つ日系2世である。

日本で初めてプロ野球リーグの始まる前年の1935年、朝日軍は日本から遠征してきた大日本東京野球倶楽部(巨人軍)と対戦した。戦前の日系新聞『大陸日報』には朝日軍の対戦成績が毎週掲載され、注目の的であった。上西さんは多くの少年がそうしたように、朝日軍に憧れを抱いて野球を始めた。仏教会の青年リーグ、日本人リーグを経て、オールスターチームだった朝日に認められて入部が決まったときは17歳。「うれしくて眠れませんでした」と話す。1939から2年間、内野手として活躍した。

戦争により解散を強いられ

1941年、親類を訪ねて母と日本に滞在していた上西さんは宮島観光の際、灰色に塗られた貨物船が何十隻も沖に停泊しているのを見た。「異様な光景でした。もうすぐ戦争になることはわかっていましたね」。このまま日本にいれば兵隊に取られると心配した母はバンクーバーに戻る準備をした。ところが何の便もなく待っていたところ、ようやく10月出港の氷川丸にバンクーバー日本語学校の佐藤伝先生夫妻らと乗船。これがカナダに寄港する最後の船となった。

1941年12月、朝日軍がパシフィック・ノースウエスト・リーグで5連覇を遂げた直後、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃。カナダ政府は日系人排斥政策を開始し、BC州内陸部に散らばったメンバーたちが、再びそのユニフォームを着ることはなかった。

2005年、カナダ日系博物館での『朝日軍遺産展覧会』の際ユニフォームを寄付。カナダ野球殿堂から受け取ったジャケットを着た上西さん (写真提供:ケイ上西さん)

収容地区でソフトボール

自由移動を申請した上西親子は、ウィスラーの北東130キロのリルエットからさらに東に入ったイースト・リルエットの日系人収容地区で暮らした。70軒ほどの掘っ立て小屋に日系人が300人以上。水も電気もない生活。マイナス20度から30度になる冬には家の中にも氷が張り、“アイスハウス”と呼んだ。外では凍った木の枝が破裂する音が聞こえた。フレーザー河からバケツで水を汲んできて、家の中に置いた大樽に砂と炭を入れ、濁った水をこして飲んだ。「最初の2年くらいはとても苦労しました」と話す。

そのうちみんなで百姓仕事を始めるとトマトがよく出来た。近くの缶詰工場で1時間25セントで働きながら、まわりの青年らに声をかけソフトボールチームを結成。日系人収容区域から町に出るのは許されず、毎月巡査が1世を調べに来ていたが、たまたまこの巡査がソフトボール好きだったことから、町のチームと試合をするようになった。「ソフトボールがきっかけで“壁”が割れたんです。この巡査の計らいで町に行くことも出来るようになりました」。

戦後の1947年、野球したさでカムループスに移住。カトリックの青年チームに入った。25歳のときだった。

スポーツのお蔭

オカナガンに住んでいた同じ日系2世のフローレンス直子さんと結婚し、一男一女をもうけた。モーテルや国営のリカーショップを経営しリタイアしたが、この間にバドミントンを始めた。「スポーツでは排斥もなくルールが同じ。お蔭で知り合いも増え、いい仕事にも就けました」と話す。

現在は週2回バドミントンに通い、昨年はBC州大会80歳以上の部門のダブルスで銀メダルに輝いた。今までにメダルは何十個も獲得した。

カムループス日系シニアグループ『百年クラブ』の会長を歴任し、週に一度、日系人会館でするカーペット・ボーリングも楽しみのひとつだ。仏教会での奉仕のほか、アバディーン・ライオンズクラブの役員として55年間奉仕活動を続け、多忙な毎日を過ごしている。

ドキュメンタリー放映

1992年、『Asahi, A Legend in Baseball』(パット・アダチ著)が出版され、朝日軍は再び注目された。2003年にカナダ野球殿堂入りし、2005年にはブリティッシュ・コロンビア・スポーツ殿堂入りも果たした。

今年の3月にはフジテレビで、朝日軍のドキュメンタリー番組が放送された。パウエル街からイースト・リルエット、サーモンアームなどを4日間ロケ隊と一緒に回り、番組に出演した上西さん。収容地区時代に親友になった巡査のダウリングさんは、リタイア後サーモンアームに住み魚釣りを楽しんだ。その彼が眠る湖のほとりに花を供え、冥福を祈った。

「朝日軍で残っているのは、トロントのミッキー前川さんとデルタのジム福井さんと私の3人になりました。前川さんが98歳くらい、福井さんが94歳くらいでしょうか。88歳の私が一番若いですね」と笑う。

朝日軍の存在は日本ではあまり知られていなかったが、名ピッチャー、テディ古本を父に持つテッドY.フルモトさんが2008年、その活躍を日系人の歴史とともに綴った本『バンクーバー朝日軍』を出版し注目を集めている。戦前、日本に帰国した大先輩の古本投手は、上西さんにとっては雲の上の英雄だった。この本を涙しながら何度も読んだ上西さんは、英語訳が出版されたら、子どもや孫や多くの人に読んでもらいたい、と楽しみにしている。

『朝日軍』OBのケイ上西功一さん(88)と妻のフローレンス直子さん(86) (写真提供:ケイ上西さん)

*本稿は、『バンクーバー新報』 (2010年3月25日第13号)からの転載です。

© 2010 Vancouver Shinpo

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