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海を渡った日本の教育

第12回 日系実業学校

ブラジルには実にさまざまな日系教育機関が存在したが、1930年代に農業学校や商業学校などいくつかの実業学校が設立されたことが確認できる。以前紹介したものの中では、日伯実科女学校やサンパウロ裁縫女学院など(本連載第56回参照)のほかに、レジストロ補修学校(本連載第9回参照)がそれに当たる。同校は別名「農業補修学校」と呼ばれ、日本語、ブラジル地理などの一般教養とともに農業技術など実業科目があった。サンパウロ州内陸部では、1938年には、ソロカバナ鉄道沿線のプルジデンテ・プルデンテ日本人会が、従来の小学校に加えて、プルジデンテ・プルデンテ商業学校を設立している(日本移民80年史編纂委員会, 1991, p.119)。

ブラジル移民が国策化していく時期1930年代には、アマゾン地域でも日本人の入植がはじまる。1930年に上塚司によって東京で設立された国士舘高等拓植学校(1932年に神奈川県生田村に移転)は、アマゾン河中流域パリンチンスにあったアマゾニア研究所に学生を送っていた。崎山比佐衛が1918年に東京世田谷に設立した海外植民学校は、1932年に同じく中流域のマウエスに海外植民学校分校を創立した。これらはアマゾン地域の開拓実務を学ぶ実業学校として機能した。

サンパウロ市ガルヴォン・ブエノ通りにあった聖州義塾(本連載第4回参照)は剣道を正課としていたことで有名であったが、その剣道の相手チームとして、しばしば「エメボイ軍」というのが登場する。この「エメボイ軍」というのは、1931年9月にサンパウロ市近郊(現エンブー市)に創設された「エメボイ実習場」(正式名称は「サンパウロ農事実習場」、ブラジル名は “Instituto de Prática Agrícola de São Paulo”)の剣道部である。今回はこのユニークな機関について紹介してみたい。

増田秀一の労作『エメボイ実習農場史』(1981)によると、同実習場は「或る程度の知識と技能を備え、永住目的をもった青年をブラジルに送って、移民社会の中堅的、指導的人材たらしめよう」という目的から、日本政府(特に拓務省)によって設立された教育機関である(同書, p.4)。実習場設立に当っては、当時の海外興業株式会社(以下、海興)社長であった井上雅二(1876-1947)の強い意向がはたいていた。実習場長として現地で実習生たちの育成に当ったのは、井上に抜擢された松本圭一(1886-1976)である。

松本は東京帝国大学農科大学を卒業した農学士で、海老名弾正から洗礼を受けた熱心なキリスト教徒であった。大学卒業後、宮崎県児湯郡茶臼原にあった岡山孤児院農場学校の責任者として赴任、実地教育に当った。1921年にジュネーブで開かれた第3回国際労働者会議に日本代表として出席、1924年には大原農業研究所の客員研究員としてペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルなどを視察し、南米開発を研究した。1926年に家族や茶臼原農場学校時代の教え子ら10家族60名とともにブラジルに渡航。ブラ拓嘱託などを経て、エメボイ実習場設立とともに場長に就任している。戦後、「養鶏の松本さん」としてブラジルの養鶏指導に多大な貢献をなしたほか、果樹の品種改良で功績をあげ、1966年にはブラジル農畜産界の功労者に与えられる山本喜誉司賞を受賞している。

この実習場は、ポルトガル語やブラジル史を含む二年間の育英事業が目的の一つであり、「学校」という名が付かなくても教育機関に分類してよかろう。エメボイの町から8キロ、総面積104アルケール(約250町歩)の敷地内に、「美麗を尽せる」と形容されたレンガ造りの建物が並んでいた(写真12-1)。場内には、実習農場のほか、経済農場、養豚場、養鶏場、教室棟、指導員宿舎、寄宿舎(南廸寮)、倉庫、道場、付属小学校があり、場内発電が始まってからは洗濯機なども備えていた。前掲書に「一九三○年代の邦人社会には、エメボイ実習場以外に青年教育を施す機関がなかった。(中略)それで、向学心に燃えていた青年にとって、実習生は羨望の的であったと言えなくもない」(増田, 1981, p.93)と記されるように、堂々たる農業教育機関であった。また、1934年4月には、実習場内に私立小学校「エスコーラ・ミスタ・デ・レサッカ」が創立され、翌1935年2月には、エメボイ日本語小学校が開校しており、経営母体は異なるものの初代教師は実習農場の三期生である丸山昌彦が勤めた(増田, 1981, pp.92-93)。このことから、同実習場は複合的な教育機関であったといえる。

写真12-1: 実習場全景(増田, 1981, p.143より)

実習生は基本的に、日本国内で17~20歳位までの中等学校卒業程度の青年たちが募集されたが、不況のどん底にあった当時、日本全国から多くの応募者が集まり、36名が厳選された(うち32名が渡伯)。書類選考時の中で最も重要だったのが、「入学願」と「帰国ヲ要セザル証明書」であり(増田, 1981, p.55)、この実習場が永住者を対象としていたことがわかる。松本場長の意見で、ブラジル国内からも募集されたが、第5期の別科生をのぞいて入場許可されたのはわずかに第一期2名、第二期1名であった。その他篤志作業生という制度があった。

写真12-2: 実習場のシンボル、緋の場旗(増田, 1981, p.81より):「Cultivar a Terra, Aumentar a Riqueza…」(大地を耕し、富を増やせ)と書かれている。「K.K.K.」は「海外工業株式会社」の意であろう。

第1期生は1931年7月東京の海興本社に集合、井上社長の激励を受け、明治神宮参拝後に宮内省で宮内次官関屋貞三郎の訓話を聞き、外相幣原喜重郎の官邸茶話会、夜は招待晩餐会に出席するなど各地で歓迎を受けた。翌8日には東京駅で真新しい場旗(写真12-2)を受け取り夜行で神戸へ。移民収容所で検疫・予防接種・乗船準備に5日間を送った後、7月14日埠頭を埋めた群集に見送られ、はなばなしくブラジルへ向けて旅立った(増田, 1981, p.59)。ただ、このように鳴り物入りではじまった第1期に比べ、第2期以降は実習生数も減り、神戸から直接出航したりと先細りの感はいなめない。

では、実習場生たちの実生活はどうであったか。先の増田書には「五時起床。六時朝食。夕六時、十時半消燈。概して午前七時頃ヨリ学科。午后農場作業-午后五時頃迄」(p.122)と記されている。学科としては、ポルトガル語、ブラジル歴史。地理のほか、ブラジル農業一般、畜産学、遺伝学、肥料学、数学、物理学、化学、測量などが教授された。戦前期のブラジルで、日本人はよく「農業の神様」と呼ばれたが、こうした教育機関におけるたゆまぬ努力と後継者育成の結果ともいえる。農業実習を学ぶ場であるから、衣はドロで汚れていても、心は錦の気分であったろう。食住においては当時の日本の日常生活と比較して、むしろ恵まれていたといえる。

「山に囲まれた単調な雰囲気のなかで、若者たちの精力の捌け口は何んであったか。それはスポーツであり、文芸であり、音楽であり、読書であった」(増田, 1981, p.181)とされるように、同実習場では、剣道だけでなく、柔道、野球、陸上、水泳などスポーツや文芸活動がさかんであった(写真12-3)。柔道や野球ではしばしば遠征し、水泳では、「サンパウロ横断水泳大会」の写真などが残っている。日系コミュニティのスポーツ活動は、30年代にさかんになり、各地で競技会が開催されるようになる。内陸部開発と鉄道・道路など交通網の整備、何よりも資本蓄積により、ある程度の生活の余裕が生まれたのが理由であろうが、一世、二世を問わず、独身青年たちの鬱懐を無視するわけにいかない。

写真12-3: エメボイ軍剣道部の猛者たち(増田, 1981, p.190より)

戦前期の農村社会を生きた老移民に聞いた話であるが、奥地の孤立したコミュニティ内で交際の相手は限られており、性の問題は常に切実さをともなっていたという。ましてや実習場には、時々は場外者を招いてのダンスパーティーや場外実習などがあったものの、ふだんは職員の数家族をのぞいて男性ばかりの合宿所のような世界であり、性の問題は日夜彼らを苦しめたようだ。そんな彼らにとって、横溢する若いエネルギーの捌け口がスポーツに求められたことは何の不思議もない。ただ、そのようなエネルギーの方向転換には限界があり、実習場でも場長の「排斥運動」や実習生間の「鉄拳制裁」といった事件がときどき起ったようだ。

日本直来の実習生が苦労したのは、ポルトガル語であった。ポルトガル語の授業では、厳格であったという日本人の妹尾講師のほかに、会話講師としてエメボイ町の郵便局長の息子アンドロニッコ・ペレイラ・バルボーザらが招かれた。当時ブラジルの教育機関では定期的に視学官が訪問し教育実践について監察していたが、同実習場ではオルランド・ブラーガ視学官が終始有益な助言を行っていたことが知られる(増田, 1981, pp.89-90)日系教育の歴史を発掘する場合、しばしば日系人の教育熱心さや努力が強調されるが、非日系ブラジル人の関与や協力は無視できない。

このようにユニークな教育機関であったエメボイ実習場だが、海興の「財政窮乏」を理由に1936年8月をもって閉鎖されてしまう。わずか5年間の短い期間であったものの、4期にわたり171名の卒業生が送り出された。彼らの就職先・進路であるが、農業のエキスパートとして、サンパウロ州を中心に北はペルナンブコ州、南はリオ・グランデ・ド・スル州までブラジル各地へ雄飛して行った。卒業生の「就職」については、次のように伝えられている。

「就職」という点では一応“形”がついたのであるが、ブラジルからの入場者の多くは、いわゆる“郷里”に戻って家業に携わったのであり、当時の奥地邦人集団地では、猫の手も借りたい時代であったから、家族並の待遇をうけるという“カマラーダ”(筆者注:雇われ農夫)の口はいくらでもあったし、その多くは農事の余暇に日本語の先生を頼まれたのであった(増田, 1981, pp.253)。

卒業生が日系コミュニティのインテリとして、日本語教師職に就いた者が多くいたことが興味深い。卒業生の中には、先の増田秀一(作家・俳人、俳号恒河)、大河原正恭(スール・ブラジル農協アチバイヤ農事試験場長)、深谷清節(世界学生柔道選手権ブラジル代表監督)、橋本梧郎(ブラジル植物学の泰斗)、斉藤広志(社会学者)らをあげることができる。同実習場が短命ながらブラジル日系教育史の中で光彩を放っているのは、彼らのような戦後日系社会を牽引していく指導者たちを排出した点である。

参考文献

日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』サンパウロ、移民80年祭典委員会

増田秀一(1981)『エメボイ実習農場史』エメボイ研究所

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© 2010 Sachio Negawa

Brazil business school education

Sobre esta serie

ブラジリア大学の根川幸男氏によるディスカバー日系コラム第2弾。「日本文化」の海外展開、特に中南米での事例として、世界最大の日系社会を有するブラジルの戦前・戦中期 から現在にいたる日本的教育文化の流れと実態をレポート。