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アルゼンチンと日本の体験から

私は、首都ブエノスアイレス郊外のエスコバールという町で1962年に生まれた。この町は、アルゼンチンの日本人移民の中でも最も多くの日本人や日系人が住んでいるところである。香川県出身者も、私の両親を含め2、3世帯は現在もいると報告されている。多くの日本人たちは花卉栽培や観葉植物等に携わっており、ここ半世紀の政情や不安定な経済に悩まされながらも全体的に観て成功したと言える。エスコバールでは毎年中南米一の花祭りと花の品評会が行われており、多くの日本人や日系人が出展している。我々日系人たちも、地元の日本語学校や日本人会館"ベレン・クラブ"(文化交流のイベントや様々な集いを開催するところ)で幼い頃から正規のスペイン語学校に通いながらほぼフルタイムで日本語を学ぶ機会に恵まれたのである(国語、漢字、会話を月曜日から金曜日まで毎日半日の授業であったので、他の地域や移住地の日本語学校ではここまで充実した講義は行われなかったのである)。

しかし、こうした日本語学校も小学校までしかなく、ほとんどの日系二世や三世は、地元の中学や高校に進学するにつれ家庭内での限られた両親との会話以外は日本語を使う機会を失っていくのが実状である。また、その必要性も薄れ、地元に密着したラテン社会の習慣や価値観を主体にした生活を営むようになるのである。大学や大学院に進学し、日本とは何の関わりもない企業に就職した場合、または高卒後何からの事業をはじめた場合も、日本語の必要性は非常に少なくなる(むしろ今は英語やポルトガル語教育の方に重点が置かれている)。また世代が進むことによって多くの日系人は地元の非日系人との婚姻が多くなり(これは当然の流れであり、日系人も他のコミュニテイーとの交流が多いと言うことを意味し、社会全体が日系人に対して開放的であるということでもある)、現在は両親との日常会話さえもスペイン語になってしまっているケースもかなり多い。どこの国でも、日本人の子孫は一般的に日本や日本の文化等とのつながりを多少意識しつつも、三世から四世になっていくとかなり薄くなってしまうことは避けられない。

ここ20年ぐらいは、日本政府の文部省奨学金プログラムや各都道府県の留学制度、そして10年前ぐらいからはJICA(国際協力事業団)の日系研修員計画等によってほとんどの日系人が一度は日本に来て勉強する機会を得ているが、そうした知識や経験が本国又は日本で活かされているのはまだ限定的であると認識している。

私は、高校まではエスコバールの学校に通い、その後はブエノスアイレス大学の経済学部に入学したが、必修科目にあまりにも数学や統計、会計などのような科目が多かったため、1983年には当初から目標にしていた私立のサルバドール大学政治国際関係学部に転学した。きっかけは、82年のマルビーナス(英国はフォークランドと呼んでいる)戦争であった。

在学中、ほぼ7ヶ月間の兵役としての軍事訓練を終え大学に戻っていたのであるが、1982年4月突然アルゼンチン軍が以前から主権を主張していたマルビーナス諸島に上陸作戦が実施された。労働組合や市民から不満が高まって抗議活動が活発になっていた軍事政権であったが、この出来事を機に国をあげてこの戦争を支持することになったのである。筆者も訓練を受けていた者として呼び出し状を受ける前に当然の義務として所属の部隊に出頭したのである。上官と親しかったことや大学生であったということで、戦闘準備は必要ないと指示されたのであるが、一人の仲間が妻の出産とその後の生活を理由に駐屯地に留まりたいとお願いしていたので筆者は何の戸惑いもなく彼の荷物と自動小銃を手にして、任務に関わることになったのである。数時間後、空軍のパロマル基地から南部に向かって飛び立ち、ある場所を経由して、次の日(4月13日)の早朝には、マルビーナス島に到着していたのである。こうした輸送は完全に秘密にされ目的地に到着してから任務の説明を受けたのである。

それから、降伏まで72日間の過酷な"駐在及び戦闘"が始まったのである。南極の冷たい風が吹くだけではなく、雨もかなり頻繁に降るところなのでたき火を起こすにもかなり苦労した。また零下20度?25度には到底耐えることのできない衣類やブーツで毎日のように警備や通信の任務に当たったが、戦況がおもわしくない中(情報が統制されていたので、降伏の2週間前ぐらいまでは勝てると思っていた)、何とか6月14日まで耐えたのである。あと数時間戦いが続いていたら、私が所属していた小部隊もほぼ全滅だったかも知れない。敵が町を包囲し、我が軍が撤退し始めているのを肉眼でも視ることができるようになっていたので、後部はイギリス海軍の艦隊十数隻が姿を現していたのである。我々の存在は抵抗にもならないほど小さかったのである。その日(6月14日)、司令官命令によって降伏し4日後には、国際赤十字社の監視の下、病院船に乗せられてアルゼンチン本土に戻ることができたのである。捕虜期間も短く、多少自分の英語力を活かして仲間の力になったことがせめての救いであった。

帰還兵として我々はヒーロー扱いされ、日系社会をはじめみんなから歓迎された。国や自治体も我々を表彰し勲章まで与えてくれたが、負けた戦争であることには変わりはなく後味が悪かったことを今もはっきり記憶している。数ヶ月後には民政移管への暫定政権が発足し、総選挙が実施され83年には急進党のアルフォンシン大統領が就任した。

この新しい政治環境のもと大学も変え念願の政治国際関係の勉強をスタートしたのである。帰還兵ということで初年度の授業料は完全に免除してもらい、残りの4年間は高成績によって75%の免除を受けた。5年のコースをストレートで受講し(全科目の中間及び期末テストを一つも落とさず合格したことである)、上位の平均点数で卒業することができた。好きなことを勉強するということはこんなに楽しいのかということを実感した学生生活であった。とは言っても、はじめの2年間は正規の仕事を(当時の電話公社ENTelでサラリーマンとして8時間労働)をしながら勉強に励み、それ以降は半日のアルバイト的な職に就きながら、大学に通ったのである。アルゼンチンではそう珍しくないことであり、中には家庭も持ちながら通っていたのものもいる。講師陣も様々で、それまで軍政権に追放されていた政治学者や組合関係者、現役の若い将校、海外に亡命していた歴史学者等もいた。政策運営スタッフや外交官志望者を育成するこの学部では、政策決定過程のシミュレーションもよく行ったが、日本の大学と違って図書館さえまともに整備されていない状態であった。講師や同級生の熱意と情熱によって非常に有意義な講義と研究をすることができたが、最後の2年間は何人かの教授の助手にも任命された。両親たちも、こうした私を心から応援してくれ最後まで見守ってくれたのである。この場をお借りして心から感謝したい。

大学の4年目ぐらいからは、日本への留学を本格的に意識し始め準備に入ったのであるが、その難問を突破するには自分の努力だけではなく多くの方々にアドバイスしてもらい推薦状を書いてもらった。88年の12月に卒業したが、89年のプログラムには合格することができず、次の年1990年に日本国文部省奨学生として来日を果たすことができたのである。

* 本稿は、2002年3月アルゼンチン神奈川県人会35周年記念原稿としてかかれたものです。

© 2002 Alberto J. Matsumoto

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