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俳句の「真実」を生きて-一恵クリストフォロさん-

移民が米国で生きていくとき、祖国から携えてきた文化が大きな心の支えとなることが往々にしてあります。第二次大戦中に強制収容された日本人の中に俳句を始めた人が少なくなかったのですが、それは、強制収容という状況を乗り切るための力を、俳句に求めたためでした。その傾向は戦後もしばらく続きました。

バイオレット・カズエ・デ・クリストフォロ(左)キャピタル・ヒルでの授賞式にて(2008年)。(写真:ウィキピディア)

しかし、日系人の場合は状況が多少異なっていたようです。その多くは戦後、どちらかと言うと、日本文化から身を遠ざけるように生きてきたのです。それは「適性外人」ではないことの証明のためだったと言えるでしょう。そんな中でも勿論、日本文化にかかわり続けた日系人も大勢いました。カリフォルニア州サリナスに住んでいたバイオレット・カズエ・デ・クリストフォロさん(以後、日本名の「一恵さん」とします)も、そうした一人でした。俳句とともに波乱に満ちた人生を生き切ることで、米国政府の「ナショナル・エンドウメント・フォー・ジ・アーツ(米国芸術基金)」から「ナショナル・ヘリテージ・フェローシップ賞」を受賞するという栄誉にも浴したのです。昨年九月に首都ワシントンで開かれた同賞授賞式典に参加。しかし、それからわずか二週間後の10月3日、90歳で死去しました。米国で俳句の金字塔を打ち立て、米国史にくっきりと足跡を残した一恵さん。その生きざまは私たちに、文化とは何なのかという問を突き付け続けます。

1917年、ハワイ州生まれ。両親は広島からの移民でしたが、24年に一家は広島に戻り、一恵さんは十代半ばまでそこで過ごしました。その後、米国の教育を受けさせたいという両親の希望で、カリフォルニア州中部のフレスノへ。高校卒業後に、松田茂さんと結婚しました。茂さんは「碧沙明(へきさめい)」という俳号を持つ自由律俳句「海紅」の米国のグループのメンバーで、一恵さんも夫とともに俳句を作り始めます。

河東碧梧桐と中塚一碧楼によって創設された「海紅」は、米国では1918年にカリフォルニア州ストックトンで組織された「デルタ吟社」に端を発します。その後、同州のフレスノにも「バレー吟社」が作られました。

一恵さん夫妻はフレスノで本屋を営んでいました。一恵さんが三人目の子供を身ごもっていた時に戦争勃発。まず厩舎を急改造した臨時の収容所に収容され、二週間後にアーカンソー州ジェロームに作られた強制収容所に送られました。そこでも仲間とともに俳句を作り続けました。

日米開戦で西部沿岸諸州に住んでいた日系人12万人が「敵性外人」として十カ所の強制収容所に収容されたのですが、ジェロームの収容所もその一つでした。一恵さん一家はそこからカリフォルニア州北部のツールレーク収容所へ移されます。米国への忠誠を拒否した夫は、さらに他の収容所に移され、その後、日本に送還。一恵さんも子供たちとともに1946年3月に送還されました。しかし、そこでは、強制収容以上に苛酷な状況が一恵さんを待ち受けていたのです。

「郷里」の広島は原爆で破壊されていました。両親も原爆の犠牲に。その上、夫は別の女性と結婚していました。生きるため、三つの仕事に明け暮れる日々が続きます。しかしその後、日本に駐留していた米兵と再婚して1956年、米国に戻りました。カリフォルニア州モントレーにある出版社で働く一方、日本の「海紅」にも投句を続けました。また、強制収容への保障を米国政府に求める運動に積極的に協力。公聴会で証言したり、収容所跡地を歴史的な教訓として保存するのにも大きく貢献しました。

ナショナル・ヘリテージ・フェローシップ賞は1982年に創設されたものですが、俳句関係者では一恵さんが初の受賞となりました。戦前、戦中、戦後と一貫して俳句にかかわる一方で、収容所時代に作られた俳句のアンソロジーも出すという、俳句を「伴侶」とした生涯が評価されたものです。アンソロジーは米国の「海紅」のメンバーらが強制収容所内で詠んだ作品を紹介するもので、「メイ・スカイ(五月の空)」と題して、ロサンゼルスの出版社から1997年に刊行されました。本文は英語で、それぞれの日本語の俳句には一恵さんによる翻訳を添えました。

授賞式では一恵さん本人が作品をいくつか読み上げる予定になっていましたが、すでに体が弱っていたためかなわず、代わりにノーマン・ミネタ元運輸長官が読み上げたそうです。1993年に地元紙のインタビュ-に答え、「俳句は私の人生をずっと支えてくれた」と語っていた一恵さん。「海紅」には1998年の11月まで投句を続けました。遺族によると、今回の受賞を「人生最高の喜び」と喜んでいたそうです。

一恵さんが残した作品を二つ引いておきます。

三ツ葉の花咲きし日々たしかに生きん (ツールレーク強制収容所で)
逝きし人に咲き続ける朝顔紫の真実 (「海紅」 1998年11月号)

この二つの俳句の間に横たわる50年の歳月に、くっきりと文化の「真実」が流れているのを読み取ることができるような気がしています。

*本稿は『TV Fan』 (2008年4月号)からの転載です。

© 2008 Yukikazu Nagashima

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