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二つの国の視点から

ローソン・フサオ・イナダ~収容所、ジャズ、マイノリティを詠ずる懐深き詩人-その1

1970年。日本で万博が開かれた年だが、この年を基準にアメリカのアジア系・日系文学をとらえてみたい。

ローソン・フサオ・イナダ 『what it means to be free』

この年、中国系アメリカ人作家のジェフリー・ポール・チャンが日系人作家、ジョン・オカダの『No-No Boy(ノー・ノー・ボーイ)』という本をサンフランシスコの日本町の本屋で見つけた。ノー・ノー・ボーイとは、戦時中、アメリカに対して忠誠を誓わなかった日本人及び日系人のことである。日系社会はアメリカへの同化意識が強かったため、1957年に出版されてから、この本はずっと日系社会から無視されてきた。13年経ったこの年、チャンがこの本を発見したことが、仲間であるローソン・フサオ・イナダ、フランク・チン、ショーン・ウォンら、文学青年の魂を揺さぶり、アジア系アメリカ人文学に対する関心を高めた。

翌1971年、ローソン・フサオ・イナダの詩集『Before the War』と、UCLAのアジア系アメリカ研究センターが編集したアジア系アメリカ文芸集『Roots』が出版される。とりわけイナダの詩集は東部の大手出版から出され、大きな反響を呼んだ。

1970年以前にも、オカダの本をはじめ、トシオ・モリの『カリフォルニア・ヨコハマ町』(1949年)やヒサエ・ヤマモトの『十七文字』(1949 年)などの作品があったが、アジア系・日系コミュニティとしての自覚を持って文学作品が語られ、出版されはじめたのは、1970年以降だった。

アジア系アメリカ文学に風穴をあける

イナダは、1938年生れの日系3世。祖父母の斉藤武助(ぶすけ)、良子(よしこ)夫妻は和歌山出身で、1912年にカリフォルニア州のフレズノに魚屋を開いた。娘のマサコが熊本出身の2世の歯科医、フサジ・イナダと結婚し、ローソンが生れた。『Roots』に「アジアの兄弟よ アジアの姉妹よ」というローソンの長編詩が掲載されているが、副題に「ヨシコ・サイトウへ」とある。祖母のために書かれた詩で、魚屋のことや祖母が亡くなる様子などが生き生きと描かれ、まさに自分のルーツを確認しているかのような作品だ。

『Asian-American Authors』

第二次世界大戦が始まると、ローソンは家族と共に、まずフレズノ仮集合所へ収容され、そこからアーカンソー州のジェローム収容所とコロラド州のアマチ収容所に抑留される。戦時中、西海岸に住む日本人及び日系人12万人が、「敵性外国人」として全米10ヶ所の収容所に送られたが、ローソン一家も例外ではなかった。そして戦後、郷里のフレズノに戻る。 

フレズノは鉄道を挟んで東側が白人地区、西側が黒人やヒスパニック系、アジア系、アルメニア系、ドイツ系、イタリア系など、多民族が生活する地区で、ローソンは西側で青春時代を過ごした。彼の両親はキリスト教徒だったので日系社会と関わりがなく、ローソンは自然と多文化社会の空気に馴染んでいた。『Asian-American Authors』(1972年)というアジア系アメリカ人文芸集に収録されている、彼のWest Side Songsという詩は、西側地区の様子が細かに綴られていて興味深い。また、『I told you so』(1974年)というローソンを取り上げたドキュメンタリーでは、この地区が映像で映し出されていて彼の育った環境をよく理解することができる。

『Before the War』

ハイスクールではジャズにのめりこみ、大学に入ってからピューリッツァー賞を受賞している詩人のフィリップ・レビンの影響で詩を書き始めた。収容所の体験と多民族社会で育った環境、そしてジャズ、この3つが詩人、イナダの文学の骨格を形成している。

1966年から南オレゴン州立大学の英文科で教鞭をとり、現在は同大学の名誉教授となっているイナダは、『Before the War』の後、『Legends from Camp』(1992年)『drawing the line』 (1997 年)の2冊の詩集を世に出し、さらに『Aiiieeeee!』(1974年)と『The Big Aiiieeeee!』(1991年)というユニークなタイトルのアジア系アメリカ人文芸集を仲間と一緒に編集した。

2006年にはオレゴン州の桂冠詩人に選ばれた。自作の朗読も活発に行なっている。その場は公立学校、大学、教会、コミュニティの集会場、さらにはホワイトハウスに及んでいる。

収容所での体験を詩に託して

戦時中、日系人が抑留されていた収容所は、カリフォルニア、アリゾナ、アーカンソー、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの各州に点在していた。

『Legends from Camp』

『Legends from Camp(収容所の伝説)』に、Concentration Constellation(収容所の所在地)という詩が収録されている。Constellationの原意は星座。全米に星座のごとく配置された10ヶ所の収容所を線で結んでいくと、収容所に張り巡らされていた錆びた有刺鉄線のようだ、という面白い発想の詩である。

収容所は、彼の詩の中で最も重要な題材で、『収容所の伝説』だけでなく、1作目の『Before the War(戦前)』にも3作目の『Drawing the Line(線を引く)』でもしばしば取り上げられている。

『線を引く』のうち、タイトルになっている「線を引く」と「デンバー・ユニオン駅」をここで紹介したい。後者はイナダがLegends & Legacies (伝説と遺産)というCDと、What it means to be free(自由とは何か)というDVDの両方に収録している詩で、少し長いが、以下、全訳を掲載する。

「デンバー・ユニオン駅」

三日月 コロラドの空を クレッシェンドのように昇っていく 
あの特別な三日月を思い出す
私たちは特別列車で
アマチ収容所からデンバー・ユニオン駅に 向かっている
駅で私たちは
それぞれの家に乗り換えていく、、、
それは速度のゆっくりとした列車だった
真夜中の特別列車 アマチに残されたものが
積み込まれている
ゆっくりの列車だったが
フェンスよりは アマチよりは 早い
背後に残していった 残していった
アマチ、アマチ、アマチは 私たちをとらえようとしていた
ゆっくりとした列車
ゆっくりとした月
私たちは自分たちの道を進んでいた
私たちは自分たちの道をこっそり手に入れていた
コロラドを越えながら
夜が明ける 夜明けを切り裂く声
制服姿の男が 通路を歩いてくる
人を押し 掻き分け 踏み倒しながら 大声で叫ぶ
「デンバー・ユニオン駅」何度も繰り返す
「デンバー・ユニオン駅です 全員降りてください!」
皆 列車から降りる 降りる
人を掻き分け 走り
家に向かう方面に 乗り継ごうとする、、、
あの旅は何だったのだろう
特別なもの
重要なもの
特別で重要な旅
それはフレズノに着いてからも ずっと続いた
今でも続いている
毎日 起きると
そこはアマチではない アマチではない
実のところ
私たちはあの駅を出ていないのだ
なぜなら あれから何年も
祖父は私を居間に呼び
居間に呼んで
椅子の前に じっと 立っている
年老いた祖父は新聞を置いて
幼い孫に囁く
「ローソン 例のデンバーをやってくれよ デンバーを」
孫はじっとそこに立って
抑揚をつけて 何度も唱える
「デンバー・ユニオン駅! 
デンバー・ユニオン駅! 
デンバー・ユニオン駅!
全員 降りてください!」
その後 暫しの静寂
何もない こだまする駅の中で
(デンバー・ユニオン駅 全員 降りてください!)
年老いた祖父は幼い孫を見る
二人の目が合う
そして二人が微笑む
その微笑みは
(デンバー・ユニオン駅!)
あの旅の微笑み あの旅の
その微笑は
(デンバー・ユニオン駅!)
その微笑は 二人の微笑みで
そして 皆の 自由の 微笑み

ローソンと祖父のやりとりが目に浮かぶ。「デンバー・ユニオン駅 全員 降りてください!」とローソンが朗読するとき、デンバー・ユニオン駅の大きさや駅員の表情、日系人が列車を降りる慌しさまでがはっきりと想像できる。デンバー・ユニオン駅、という素朴なフレーズが、祖父にとって自由を、あるいは解放を意味していた。孫と遊びながらこのフレーズを繰り返し聞くことで、祖父は自分の存在と孫との関係を確認していたのだろう。見事な詩というほかない。

その2>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第4回目からの転載です。

© 2009 Association Press and Tatsuya Sudo

concentration camp Lawson Fusao Inada literature poet poetry

Sobre esta serie

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。