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アンデスを超えたニッポン人

リベラルタのニッポン人 (1) -近野 房江-

ボリビアのリベラルタ移民について調べるにつれ、リベラルタにかけられた希望やそれを叶える為の途方もない苦労が、涙ながらにお話を聞かせて下さった一世の方々からも窺えました。上手く文章に出来なかったのがもどかしいですが、リベラルタ移民が残した辛苦の足跡が紛れも無くボリビア日本人移住の歴史の道に繋がっている事をより多くの方に知って頂ければ幸いです。

* * *

84歳。熊本県出身。

1936年、祖父の呼び寄せによりリベラルタへ。
父(一男)、母(ハツヨ)、姉、フサエさんを含め4人姉妹で入る。当時9歳。

ブラジルで6ヶ月を過ごし、列車でカチュエラエスペランサへ。
そこから船でリベラルタにはいる。ブラジル滞在中マラリアにかかるが一命は取り留める。
牧場の経営が出来ると聞いて来たのに、騙されたと思った。

着いた当時、「街はどこか」と尋ねたら、「バカな事を言うな」と怒られた。そこが既に街だった。
荒地で牛、馬が放されていて夜は危なくて出られず、昼間も気をつけなければならなかった。
虫もたくさんいた。マリウイ、ブト、エヘネ、ハプタモスなど。今でも跡が残るほどひどかった。
刈りたての草には沢山居て、目に見えない小さいものはそのまま肌に留まり続けるので赤く大きく腫れた。

日本人は当時沢山いた。
ヨコイ、ハノ、グシ等。
こちらに着いて兄弟が2人増えた(マコト、ミサオ)。

当時スペイン語は話せなかったが、日本人がいたのでそれほど困らなかった。
日常会話は日本語だった。

父親が山に行って畑を開墾していった。手には豆がいつもあった。
その後、腸チフスにかかり、15歳の時に父が他界。
その前に当時11歳だった弟も1ヶ月前に他界したばかりだった。
借金もあったので母親と兄弟のみの生活はとても厳しいものだった。
朝6時に起床し、パンを作って売った。
フィデオやチチャも作った。
当時が今までで一番辛かった。

その後母が再婚した。21歳の頃母がお産によって他界。日常会話で日本語を使わなくなっていく。
その後ラパスへ。アキジさんと結婚。4年後再びリベラルタへ。
生地屋(服の仕立て)を始める。

昔に比べてオートバイが増えた。昔は徒歩か自転車で移動していた。ラパスから日本のHONDAが入ってきて徐々に増えていった。

今までに2回日本に帰国。
出身地熊本には帰っていないものの、東京、京都、相模原などを観光した。
現在息子は日本に。

昨年、ご主人(アキジさん)が他界。
ボリビアには妹(ヨシエさん)がコチャバンバに居る。
コチャバンバは過ごしやすい。

もう歳だし、リベラルタが一番暑くて砂埃が多いけど、娘と家族と一緒に暮らせて幸せです。

*JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」からの転載。

 

© 2010 Shoko Hibino

Bolivia immigrants issei Riberalta

Sobre esta serie

歩いてアンデス山脈を超え、アマゾン源流をカヌーで下りボリビアに入国。寒さと暑さの両極端による病気やジャングルの猛獣に怯えながらの地獄の旅であり、この旅をした人々は後に「ペルー下り」と呼ばれた。100人ほどの「ペルー下り」が、ボリビアのリベラルタに漂着した当時、その人口は3000人に満たなかった。それから100年が経過したいま、10万人を超える街になった。

このコラムでは、JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」に紹介されたリベラルタの日系人の話を紹介します。

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