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ボリビア・サンタクルスの「慰霊祭」

南アメリカの地図を開いてみて、ボリビア国が大陸の真ん中に位置することがお分かりいただけるかと思う。南米地図をさらに最北端と最南端を縦線でつ なぎ、ボリビア国を通過するように東西の横線を引いて十字架を作っていただきたい。接点となるところが、南アメリカの心臓部Santa Cruz(聖なる十字架)平原で、ボリビア国内ではサンタクルス県を形成する。県の総面積37万平方キロは日本の国土とほぼ同等で、県都サンタクルス市に はボリビア国の日系社会を総括するボリビア日系協会連合会と、在住日系の親睦団体サンタクルス中央日本人会が存在する。

ボリビアに於ける日本人移住は、1899年、ペルー移住者の一部がボリビアに渡ったのを機にはじまり、その多くはアマゾン地帯のゴム採集に従事し た。19世紀から20世紀初頭にかけてのゴム景気は人々を呼び寄せ、サンタクルス県の北部に位置するベニー県の町リベラルタは移住者によって創設され、最 盛期には日本のみならず、ヨーロッパ各地からの人々で賑わっていた。

リベラルタの日本人移住者達がさらなる新天地を目指して南下し、サンタクルスを通過または滞在した形跡があるものの、南アメリカの中心地へ定住した 記録は1912年から1914年の間である。ドイツ移住誌には、1920年初頭の国勢調査で18人の日本人が滞在していたと記録されている。ある著名な郷 土史家は、1933年にサンタクルスを訪れて調査を行なった日本国外交官として、横山 信一氏の名前を記録している。

20世紀初頭から第二次世界大戦終結時まで、サンタクルス市の人口は2万人から5万人程度に増加、そのうち日本人の数は50人を数えたようである。 移住者の職種として、主に野菜の栽培、サービス業としてカフェ経営、反物等の輸入販売、その他に理髪業、運送業などがあげられる。日本から妻を呼び寄せた 移住者もいるが、大半が「単身移住者」で、当地で妻を娶り家族を築いている。第2次大戦終結以前のサンタクルスにおける日本人移住及び社会はこのような状 態であった。

戦後移民は、1954年の琉球政府第一次計画移住によるオキナワ移住地と、1955年の西川移民によるサンファン移住地の「家族単位」による入植で 新たに始まった。戦後移住は、ボリビア国と日本国との間で結ばれた国際協定をもとに始まった計画移住で、ボリビア国土の農業開発を目的としていた。

年を追うごとに増していく計画移住者に、サンタクルス市在住の戦前移住者を中心に、「同胞の相互扶助、二世の日本語教育、移住者への援助」を設立目的とし て1956年に「サンタクルス日系人協会(現サンタクルス中央日本人会)」が創立された。創立当初には独自の会館がなく、各会員の自宅で会合を行なってい た。会館建設を計画する前に求められたのが共同墓地の建設である。戦前移住者は30年から40年の年月をサンタクルスで過ごし、高齢化が進む中、共に永眠 できる日本人墓所を切に願ったのである。墓地はサンタクルス在住者や各移住地へ出向いて得た資金協力を持って、移住者自らレンガを積んで建設が行なわれ、 1961年にサンタクルス中央墓地内の一角に日本人墓地が完成している。日本人会の土地と会館は1966年に購入されて、教育や文化徳育が開始される。し かし、サンタクルス市の日本人移住者が最初に計画し、実行に移したのが「日本人墓地」の建設であることがサンタクルス中央日本人会の特色であり、日本人と しての気持ちの表れであろうか。日本人墓地は47年余りの月日を経て、その役割は継続されている。

サンタクルス中央日本人会は60年代後半から活動が活発になる。サンタクルス市に設置された日本国領事事務所の初代領事として前述の横山氏が赴任し た。横山夫妻はサンタクルス在住日本人社会の活動を支えられ、貢献された。この時期に設立された婦人会のメンバーをもとに、敬老会、母の日、成人式、その 他の行事を行い、これらは恒例行事として現在まで持続されている。

日本人会の創立から15年、30年、40年、50年と節目の年には記念慰霊祭が挙行されてきているが、毎年の慰霊祭はカトリック教の祭日にあたる 11月2日のトードス・サントス(死者を偲ぶ日)に日本人墓地で行なわれている。70年代までは夜間に行なった形跡があるが、80年代から現在まで午前 10時から11時の間に行なわれている。当日はお墓参りに訪れる家族や故人を偲ぶ人々で日本人墓地内は埋め尽くされ、カトリックのミサ、弔辞、焼香と和洋 折衷の式次第で行なわれる。

80年代から20年以上にわたり御ミサを司る倉橋ファン神父は、例年ミサの前に「ご参列いただいている皆さんはさまざまな宗教を信仰されておりま す。本日の慰霊祭は私がカトリックのミサを執り行いますが、学生時代に習った言葉を紹介したく思います。それは富士山を例えた和歌“ワケノボル フモトノ ミチハ オオケレド オナジタカネノ ツキヲミルカナ”です。先駆者の方々は勤勉・正直・親切・思いやりといった日本人特有の美徳をこのボリビアの地に残 されました。後に続く私達日本人、日系人も国籍や宗教は違っていても、お互いに理解し合い、助け合い、真の友情の絆を結び、富士山の頂を目指すように私達 の社会を発展していくために励みましょう」と、慰霊祭の心を代弁される。参列者はこの素朴な気持ちを受けとめ、慰霊祭は毎年厳かに開催されている。

 

カトリック教が主なボリビアにおいて、故人へ花やろうそくを捧げるのが当地の習慣であるものの、日系社会は自然な形で慰霊祭をとらえている。焼香を 行なった後に十字をきるなど宗教が混合される場面があるが、故人を偲ぶ思いにちがいはない。ただ三世、四世と世代が変わる中で、二世の役割は慰霊祭の意味 合いを薄れさせずに伝えていく義務を有する。

戦前の先駆移住者たちは70年後半から80年前半に天寿を全うされ、多くが日本人墓地に葬られている。先駆者で70年代に亡くなられた方の逸話がある。二世の息子が語ってくれた話だ。

「父の最期は家族全員が見守っていた。なにか言葉を発するかと見守っていたが、父は家族に囲まれていることを知ってか知らずか、故郷の子守唄を歌い ながら亡くなった。あの時、なぜ子守唄を唄いながら旅立って逝ったのか不思議に思っていた。しかし後年、父の生まれ故郷広島を訪れた時にその気持ちが分か る思いがした。父の魂は故郷へと戻っていたのだという思いにあふれた。毎年慰霊祭に参列する時、日本語や日本文化とは皆無の生活を送っているものの、父の 思いそして日本人の気持ちが自分達にも伝えられていることを改めて感じる時である」。

慰霊祭に対して、さまざまな想いがあろうが、この逸話のとおり日本人、日系人たる思いを募らせる気持ちが大切ではなかろうか。

サンタクルス市は近年、百万人の大都市へ成長した。都会化とともにいろいろなサービス業が現れ、その中には私営霊園などがあるが、日本人日系人社会 の高齢者は日本人墓地の長屋(納棺堂が長屋のように並んでいる為この名称がある)で一緒に永眠したいという気持ちが一般的である。

* 本稿は、ボリビア日系協会連合会 (ディスカバー・ニッケイの協賛団体)が協賛団体の活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2009 Takashi Aniya

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