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アメリカに移住した被爆日本人女性の記録—カリフォルニア州マリナデルレイ在住の笹森恵子さん—その2

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アメリカ人養父、ノーマン・カズンズとの出会い

1945年8月6日に広島市内で被爆した笹森恵子(ささもりしげこ)さんは、奇跡的に父親と再会し、家へと戻る。顔から上半身の表にかけて、酷い火傷を負ってしまった恵子さんだったが、下半身は無傷だった。

「前の晩に空襲警報で起こされて、防空壕に行きました。その後、その時に履いていた新しいズボンのまま寝てしまったんです。翌朝、友達が家に迎えに来た時、そのズボンのままだと汚れてしまうと思ったけれど脱ぐのも面倒だったから、さらにその上に古いズボンを履いて出かけました。真夏にズボンを2枚も重ねて履くなんてこと、本当だったらしませんよね。でも、私は偶然重ねていたから、下半身を焼かずに済んだのです。これも奇跡の一つです

その後、家での療養生活が始まった。恵子さんの側で看病を続けた母は、座り続けた末に膝を悪くしてしまった。

病床の恵子さんは、母と近所の人たちとのやり取りをおぼろげに覚えている。重傷だった恵子さんがすぐにでも死ぬと思っていた近所の人たちは、時々やって来て「しげちゃんは?」と聞き、「まだ息をしていますよ」と母は答えていた。また、建物に下敷きになってしまったために、生きながら焼かれた娘のことを、母に泣きながら語る知り合いの女性の話も記憶に残っている。

やっと外に出ると、町はクリスマスの季節を迎えていた。それが1945年のクリスマスだったのか、翌年だったのかはよくわからない。

「原爆で戦争が終結したわけですから、気づいた時はすでに戦後でした。広島の町では、アメリカの兵隊さんが子供たちにチューインガムやお菓子を配っていました」

家には、母の気遣いから一切鏡が置かれていなかった。「ある時、庭に鏡の破片が落ちていました。それをじっと見ていたら、自分の顔じゃない顔が、鏡の中に見えました。肌がはがれたピンク色で、しかも鼻の所には、肉がついていない骨が突き出ていました。唇の回りもケロイドだらけでめくれた状態。人間の顔のようには見えなかった。鬼のようでした。でも、その目はまぎれもなく私の目だったのです。それが自分の顔だとわかった時のショックと言ったら…」

恵子さんの中では、1945年の8月6日で時の流れが止まっていた。火傷で折れ曲がってしまった指で、電車やバスに乗って通学するのは危険だと父が心配した結果、学校に戻ることもなかった。

そして十代の終わりを迎えた頃、恵子さんは偶然、教会の前を通りかかった。聞こえてきた音楽に誘われるように中に入り、一番後ろの席に腰を下ろした。「キリスト教について何の知識もなかったのですが、教会に座っている間、とにかく気分が良かったのです。結局、礼拝の最後までいて、帰る時に牧師さんにご挨拶をしました。それが流川教会の谷本清先生でした。先生に『どうぞ、またいらっしゃいね』と笑顔で言っていただいたことで、私は楽しみに教会に通い始めました」

やがて、恵子さんのように被爆した若い女性のグループが集まり、谷本牧師を囲んで聖書の会が開かれるようになった。そして、23歳になった時、恵子さんは後の養父となるノーマン・カズンズさんと出会うのだ。

カズンズさんは、評論誌「サタデーレビュー」の編集長を務めた後に、戦後の広島の惨状を目にし、原爆孤児400人に年額20ドルずつアメリカから寄付金を送る「精神養子」運動を立ち上げたアメリカ人ジャーナリストだ。彼は、ケロイドを負った若い被爆女性のための寄付金プロジェクトにも着手。25名の女性がニューヨークで手術を受けられるだけの費用を、アメリカ全土に呼びかけて集めた。

カズンズさんに初めて会った頃の恵子さんは、既に東京大学の付属病院で手の手術を受けていた。そして、口の回りから首にかけて残ったケロイドについても、時間が経つにつれて自然に治っていくのだろうとまだ希望を捨てずにいたのだった。

そんな時、谷本牧師によってカズンズ夫妻に引き合わされた25人の被爆女性たちは、岩国の米軍基地から、将校専用の飛行機でアメリカに向かうことになった。実はその飛行機がアメリカ本土を飛び立つ前、将校は、飛行機を被爆女性たちの搬送用に使用してはならないという上層部からの電報を受け取っていた。しかし、彼はその電報を開かずに、「早く迎えに行け」と飛行機を送り出したのだそうだ。

ニューヨークまでの旅費も無料なら、マウントサイナイ病院の関係者とカズンズさんが親しかった関係で、事情を知った医者も看護士も、皆がボランティアを申し出た。恵子さんたちが交替で入退院を繰り返したベッドも、無償で提供された。そして、ケロイドでつながっていた恵子さんの喉と首は手術の成功で綺麗に切り離された。

「私たちのためにお金を出してくれたのはアメリカの政府ではありません。アメリカの市民一人ひとりが、費用と労力を提供してくださったのです。私たちの今があるのも、アメリカ人の善意のお陰なのです」

恵子さんは手術から50年以上経った今も,感謝の気持ちを忘れていない。

その3>>

恵子さんの自宅リビングに飾られている、ノーマン・カズンズ夫妻の肖像画の前で

© 2009 Keiko Fukuda

hibakusha sobrevivientes de la bomba atómica
Acerca del Autor

Keiko Fukuda: Oriunda de la prefectura de Oita, egresada de la Universidad Internacional Cristina. Trabajó para una editorial de revista informativa en Tokio. En 1992 viajó a los Estados Unidos y trabajó como jefe de edición en una revista dedicada a la comunidad japonesa durante 11 años. Es freelance desde 2003 y actualmente escribe artículos para revistas focalizándose en entrevistas a personalidades. Publicó junto a otros escritores “Nihon ni Umarete” (nacido en Japón), Editorial Hankyu Communications. Sitio web: https://angeleno.net

Última actualización Julio de 2020

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