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書評 - 『かむろ 復刻版』

山口県の瀬戸内海に周防大島という島がある。穏やかな気候でみかんが特産品のこの島はかつて多くの移民を輩出し、島内にある「日本ハワイ移民資料 館」でその歴史を辿ることができる。周防大島の近くに浮かぶ小さな島、沖家室島(おきかむろじま)からも多くの人々が地平線の向こうへと渡っていった。周 囲がわずか「4里」(約16㎞)という小さな島だが、かつては瀬戸内海航路の中継地として、また漁業基地として大いに栄えた時期もあり、明治期には日本一 の人口密度があったといわれる。

『かむろ』は沖家室島を出て新天地で新しい生活を切り開いた人々と島に残って漁業などに従事した人々との間で読まれた雑誌である。1914(大正 3)年9月5日に創刊し、1940(昭和15)年3月15日の158号まで27年間にわたって30~50ページの雑誌として発行された。創刊号によれば、 『かむろ』創刊の目的は、「在郷会員と、他郷にある会員との、円満なる団結」(原文は旧漢字、以下、引用文はすべて同様)であり、「内外会員の結束を固く し、親睦を増進し、相携えて本会の隆盛、本島の発展に資」すことだったようだ。ここでいう他郷とは、出稼ぎあるいは移住目的で島を出て向かった先で、国内 はもちろんのこと、台湾や朝鮮半島などのアジア、さらにはハワイ諸島やアメリカ、カナダなどである。

35ページからなる創刊号では、発刊の挨拶の後、「君も来給へ僕も行く」というコーナーに3人による投稿文が掲載されている。いずれもペンネームに よるものである。「他郷にある人に」と題された文には、学校、宮、寺、青年会、軍人団、救済会、漁業組合に関する島のニュースが伝えられている。次の「僕 は家室の人の行を見て、びったり冷汗をかくことがあるよ」で始まる「家室の青年諸君に」では、「愛郷の精神」ゆえの青年達への苦言が並べられている。筆者 は家室の人の心が狭いことを嘆き、改善を促している。さらに、「弟や妹のある人に」という投稿文では、字が読めない筆者が若者に勉強の大切さを訴えてい る。「悪いことはいわぬ。今から先の子供は、家室にばかりは居らぬ。どこへでも飛び出して一もうけとくる。家を出たら一も字二も字だ。(略)」小さな島と いえども、島民の目は遠い海の向こうに向けられており、若者はそうした外界に合った教育や良識を身につけるよう奨励されている。

こうした投稿文に続いては、「消息」と題されたコーナーが雑誌全体の3分の2を占め、沖家室在住者と「他郷」にある島出身者、合計459名の近況が それぞれ1、2行で紹介されている。リストの前に、「見よ!!! 本島が、如何に多くの海外奮闘者を有するかを。 見よ!!! 本島人が、如何に海外に発 展しつつあるかを。」という力強い言葉が書かれている。リストにはハワイ諸島在住者が多く、続いて台湾、朝鮮半島のほか、県内や国内他県に混じって島の在 住者も見られる。職業としてはハワイ在住者が「北川商店」や「柳原商店」などといった名前を連絡先としている人が多い。のちの第3号によれば、「北川商 店」も「柳原商店」も同島出身者の経営する商店で、どちらも漁船を所有していることから、漁業とそれにまつわる商売とを手広く行っていたのかもしれない。 海外を目指す若者はそうした島の成功者を頼って海を渡り、多くの同郷の若者たちが一緒に働いた様子が伺える。台湾や朝鮮の在住者は商業のほか、漁業や農業 従事者も見られる。

雑誌の後半に「葉書通信」という欄があり、個人的な伝言板の役目を果たしている。「布哇にある柳原良一君に問ふ、最愛の細君は健全なりや、郵便局時 代はいかに(良夫)」といった安否を尋ねるものから「三国一殿君の笑顔を思ひだすよ(ヒロヨリ)」といった遠くの友への呼びかけまでどれも個人から個人に 宛てたものが掲載されている。最初に「本欄は之れを全部会員諸君の葉書代に供じます」と書かれているように、この欄に記事を載せることによって葉書に書く 手間や郵送代が省かれたのであろう。こうした個人宛のものが「葉書」程度の短文では書ききれない場合には、後の号では長い手紙の形で掲載されている。

創刊号の最後には、愛読規定、投稿心得、支部の所在が書かれている。支部はホノルル、ヒロ、ククイ浦、ラハイナ、バンクーバーなどのほか、台湾の基 隆や朝鮮半島の仁川、平壌、国内では松山がある。これらの地に多くの家室出身者が暮らしていたのであろう。購読会員となるには、会費(1年40銭、半年 20銭)を沖家室の本部か支部に支払うことが義務付けられ、会員になれば投稿することもできる。

第2号は約4ヵ月後の大正4(1915)年1月25日に発行された。文芸欄が新設され、俳句や詩などが載せられている。また、「通信」のコーナーが 充実し、「家室通信」だけでなく、「基隆通信」、「開城通信」など支部発信のニュースもある。会員名簿も地域別に分類されている。

第3号(1915年5月5日発行)になると、「布哇島の概況」と題した現地からの報告が掲載されている。ハワイの地理から始まって、砂糖産業の動 向、さらには漁業の現状などが詳しく説明されている。漁船の値段や実際に誰がどんな漁船を所有しているかなどの具体的な情報は、海外に住む身内や友人の生 活ぶりを知りたい人やこれから渡航を考える人にはよい参考になったことだろう。また、ハワイ生まれの二世にとっては、「かむろ」は両親の故郷を知る手がか りになったという感想もある。第3号から始まった「かむろ日誌」には、島の日々の出来事が記されているが、家室を離れて久しい人々にとっては故郷を思い出 す機会になったに違いない。

その後、「かむろ」は1940(昭和15)年までの27年間に通巻158号が発行された。廃刊後、太平洋戦争を経て島で保管されていたこの雑誌が近 年、復刻されたおかげで、私たちは貴重な史料を目にすることができるようになった。第1巻巻末の解説には、大正3年のこの時期にこうした「今日でいうタウ ン誌」をもった社会は他にはなかったのではないかと書かれている。現在のように電子メールやチャットはおろか、飛行機もなく、島には電話もなかった時代、 ハワイやアメリカは私たちの想像以上に遠く未知の存在であったに違いない。「かむろ」は情報交換の場としての「タウン誌」だけでなく、ふるさとの潮の香り までも運ぶ役割を果たしていたのかもしれない。そして、「かむろ」に掲載された本島と他郷での暮らしぶりは、そのまま日系人の祖先の生活に共通するもので あろう。

『かむろ 復刻版』(泊清寺編、みずのわ出版発行、2001, 2002, 2004)
第1巻:第1号‐第8号 (1914年9月‐1916年7月)
第2巻:第9号‐第16号 (1916年11月‐1918年6月)
第3巻:第17号‐第24号 (1918年7月‐1919年5月)

* 本稿は、移民研究会(ディスカバー・ニッケイの協賛団体)が協賛団体の活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2008 Carolina Yamaguchi