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ブラジルの日本人街

第13回 カンタレーラ街-消えた日本人街-

以前にも述べたように、サンパウロには、「日本人街」と呼ばれたいくつかのエリアがあった(本連載第5回ピニェイロス地区参 照)。戦前から戦中にかけては、「コンデ界隈」と呼ばれたエリアがもっとも規模が大きく、ついでピニェイロス地区、その次が市立中央市場(Mercado Municipal=メルカード・ムニシパル)の周辺で、通りの名を取って「カンタレーラ街」と呼ばれていた(地図5-1参照)。

カンタレーラ街には、かつてコチア産業組合など日系産業組合や個別の仲買商の販売所、各種日系商店、同仁会診療所、日系ペンソン(旅館・食堂を兼ね る下宿屋)などが集中していた。このエリアには、リベルダーデ地区やピニェイロス地区の日本人街のように核となる日系の教育機関があったわけでない。この エリアの特徴は、中央市場とそこで扱われる商品(主に野菜や生鮮食料品)にかかわる仕事に従事する日系人で賑わったことで、エスニック日系商業地区であっ たと言える。

ピニェイロス地区も現在、日本人街としての衰退がいちじるしいが、カンタレーラ街にいたっては、もはやその痕跡すらとどめていない。建物の建替えや 街路の名称変更もあり、すっかり様変わりしてしまっている。1950年代半ばにカンタレーラ街に住んでいたというI氏とともに、同エリアを歩いてみた。

地下鉄サン・ベント駅で降りて、ラデイラ・ポルト・ジェラルという急坂を下る。サンパウロの街はどうしてこうも坂が多いのかと思う。ヴィンチ・イ・ シンコ・デ・マルソ(3月25日)通りを横切り、イトビー通りを進むと、カンタレーラ通りとバロン・デ・デプラット通りの分岐点に出る(写真13-1)。 I氏によると、このあたりは50~60年代に、多くの日系商店やペンソンが営業していたところだという。氏が1954年に一時期住んだというペンソンは、 この分岐点近くに幸い当時の姿のままペイントを塗り替えただけで確認された。この分岐点から右手に延びるカンタレーラ通り沿いに、巨大な中央市場の建物が 顔をのぞかせている(写真13-2)。

このエリアの中心になるのは、何といっても1933年にオープンし、1960年代にCEASA(Centro Estadual de Abastecimento)1に その座をゆずるまでサンパウロの胃袋を満たしていたこの中央市場だ。この市場と日系住民とのつながりは、『移民四十年史』によると、1931年に沖縄出身 の田場ウシがこの市場の蔬菜部に出店したことからはじまる。同書によると、「これから次々と日本蔬菜業者の販売店が蔬菜市場に進展した」(香山, 1949, p.204)という。

『ブラジル日系紳士録』(1965)は、往時のカンタレーラ街を次のように描写する。

    日本人がこの区域に集まったのはいうまでもなく青物市場があるからである。サンパウロ市の野菜市場と、農業移民としてブラジルに渡って来た日本人との結び つきは至極当然のことであった。人口五百万といわれる大聖市の台所をまかなっている中央市場を覗いて見ると、その勢力の九十五%が日系人によって占められ ていることに一驚する。(中略)野菜市場に日本人が集まったのは、第二次世界大戦中、つまり、一九四三年七月にサントス周辺から立退きを命じられた日本人 たちが、取るものも取りあえず、サンパウロに逃避、職を求めてメルカードになだれ込むようになってからである。彼らの一群は、口に糊するために、青物市場 の周囲にバンカ(筆者注=陳列台)を据えつけ、キタンデイロ(筆者注=八百屋)相手に小さな商売をはじめた。この予想外の出来事によって、メルカードに日 本人が急増した。今のメルカード及び隣接区域は各産組の販売所や出荷団体、委託販売業者、仲買人、小売業者がひしめき合い、ものすごい程の活気を呈してい る。(中略)特に、バロン・デ・ヅプラト、イタプーラ・デ・ミランダ、ベンジャミン・デ・オリベイラ各街、アメリコ・ブラジリエンセ付近、パリー広場界隈 は日系商社が九○パーセントを占め、完全に日本人街を形成している。随って、午前二時のメルカード開場にはじまるこの地域は商人の出入りで混雑をきわめ、 さながら戦場である(p.20-21)。

また、『年表』には、「メルカード・ムニシパル新設:この年(筆者注=1935年)サンパウロ市立中央市場が開かれる。それまでジェネラル・カルネ イロとビンチ・シンコ・デ・マルソ街の角にあった旧メルカードがカンタレイラ街の新設市場の方へ移ったのである。この市場を中心にサンパウロ市における日 系人の一集団区<メルカード付近>が形成される」(p.81)と記されていて、やはりこのカンタレーラ街が日本人街として周知されていたことを示してい る。

かつて南米最大の産業組合であったコチア組合のジャガイモ販売所も、1935年にタマンドゥアテイ川を渡って西に隣接するサンタ・ローザ街に開設さ れている。サンタ・ローザ街は、農産物仲買商が軒をつらねた場所で、「ツバロン(筆者注=人喰い鮫)の街」と呼ばれ、毎日はげしい攻防が行われていた。 「1920年代になると、商才があり、多少の資金力も有する農業移民の中から農産物仲買いを始めるものが出てくる。扱う商品は、米、コーヒー、少し下って は棉が主なところで、最初は日本人移民の生産物を集めて精選工場に運ぶ、小規模な仲介業者として出発している」(80年史, p.356)と描写されているように、農産物仲買商は、戦前の農業移民の都市化へのステップアップであった。前々回取り上げた田中義数も、シネ・ニテロイをはじめる前は、農産物仲買商として巨万の富を築いたといわれている。

さて、カンタレーラ街を日本人街としてとらえた場合のもう一つの核は、同仁会診療所である。在ブラジル日本人同仁会は、1924年に主として移住者 を対象に保健・衛生面を担当する目的で外務省が設立し、1928年にブラジルの社団法人として認可を受けた日系医療衛生機関である。第二次大戦時に解散さ された後も、カンタレーラ通り404番にコンスルトリオ・メディコ・ドージンカイ(同仁会診療所)として個人名義で診療所を開いていた。1940年代中頃 の同診療所の繁盛ぶりは、当時レントゲン技師として同診療所に勤めていた清水(1995)によって、次のように描写されている。

      細江先生

2

    が釈放された後は、大変順調に診療所は発展し、全盛時代には患者のフィーラ(筆者注=列)が二階にあった診療所から階下迄続き、カンタレーラ街の歩道迄延びるのは毎朝でした(p.280)。

この診療所に地方から来る患者や家族のため日系旅館やペンソンができるほどであったという。この他に、I氏がサンパウロに来た50年代、イトビー通 りとエスタード大通りの角には、日系社交クラブで演芸会やダンス・パーティーがさかんに行なわれたという桜倶楽部があり、多くの日系青年たちで賑わってい たという。

70年代の邦字新聞や『ブラジルの日系企業』(1970)を見ると、この付近にあった日系商店として、蜂谷商会、竹中商会、花城商会、森田商事、 林・田苗商会、ヤビク旅行社の名が見える。また、当時の日系住民にとって、日本食材の次に欲しかったのが日本書籍といわれるが、書籍店だけでも沖永書店、 宮本書店、太陽堂書店などがあった。夜毎派手な宴会が行われていたのは料亭新常盤である。「新常盤では、月給取りのわれわれを尻目に、バタタ(ジャガイ モ)で当てた仲買いの連中が馬鹿騒ぎをしていました」とI氏は述懐する。

中央市場も1960年代には、市の郊外にオープンした巨大市場CEASAにその座をゆずることになった。しかし、上記のように、1970年頃までは、日系商店の賑わいを確認することができる。

現在、中央市場の建物はリフォームされ、二階にはしゃれたBARや軽食堂、すしカウンターまでがオープンし、市の新観光スポットに変身している(写 真13-3)。すぐ南のサン・ベント広場をはさんでセントロに向かって延びるヴィンチ・イ・シンコ・デ・マルソ通りは、ニューカマーの中国系商店が入った ビジネスビルが多く、一風かわったミニ・チャイナタウンという様相を示している。日系と中国系という二つのエスニック・グループの新陳代謝を見るようで、 すこぶる興味深い。

注釈
1. 州立供給センター。1969年にサンパウロ市郊外に設立された巨大マーケット。サンパウロのものは、特にCEAGESPと呼ばれるが、通称はCEASAである。

2. 細江静男(1901-1975)医師、岐阜県出身。慶応義塾大学医学部卒。外務省留学医として1930年渡伯。サンパウロ州バストス移住地で 医療活動を行なう。サンパウロ医科大学留学時代から、日系医療保健機関同仁会で保健衛生技師として活躍。戦前からカンポス結核療養所設立に関わり、戦後、 日本移民援護協会保健衛生専門理事、日本語普及協会理事などを歴任。ブラジル日系社会の医療・保健・教育面での啓蒙・充実に貢献する。

参考文献
香山六郎編(1949)『移民四十年史』

サンパウロ人文科学研究所編(1996)『ブラジル日本移民・日系社会史年表-半田知雄編著改訂増補版-』サンパウロ人文科学研究所

清水尚久(1995)「故細江静男先生とカンポス・ド・ジョルドン-同仁会結核療養所の思い出-」『細江静男先生とその遺業』細江静男先生とその遺業刊行委員会pp.252-284

平尾健(1995)「日本人同仁会」『細江静男先生とその遺業』細江静男先生とその遺業刊行委員会pp.32-59

宮城松成(1965)『ブラジル日系紳士録』

A Historia:Mercado Municipal Paulistano

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© 2008 Sachio Negawa

Sobre esta serie

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。