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フォーラム通じ「ウチナーンチュの交流」呼びかける

2008年3月1日、全米日系博物館のホールに二百名ほどの聴衆が集まった。お目当ては「沖縄出身者のグローバルネットワーク」と題された公開フォーラムだった。

沖縄からの海外移民の背景を説明したのは、琉球大学教授の金城宏幸さん。「経済が困窮していた沖縄に、少しでも多くの海外からの仕送りを得るため、 19世紀末から出稼ぎが目的の移民が促進された。第二次大戦敗戦後は、海外のウチナーンチュコミュニティがまさにライフラインだった。アメリカ、ペルー、アルゼンチンなど各地から、お金だけでなく食糧、衣服が送られた。彼ら、海外のウチナーンチュは自分たちの故郷再建のためにできるだけのことをした」

1990年に第1回の世界ウチナーンチュ大会が開催された。回を追うごとに参加者は右肩上がりで増加を続け、2006年の大会には5000人が集まった。参加者は必ずしも沖縄にルーツを持つ人ばかりではなく、沖縄出身者の子孫は7割という数字だった。会場に映し出された大会の映像からは、まさにお祭り騒ぎの賑やかな雰囲気が伝わってきた。国際通りを、国の民族衣装や国旗を手に練り歩く人々。アロハにレイの人々は明らかにハワイから駆けつけたのだろう。車椅子でパレードに参加している人もいた。手を握りあう人、満面の笑みを浮かべる人、それぞれが故郷への帰属意識を高揚感と共に強く感じているようだった。

北米沖縄県人会からの奨学金で沖縄に留学し、その後働きながら6年滞在した山内優子さんもウチナーンチュ大会の体験を披露した。

「子供の頃、父にブラジルやハワイに親戚がいるんだと聞かされた時は、うちの家族は旅行好きなのかな、くらいにしか思っていなかった。しかし、実際に見た沖縄では目から鱗の体験の連続だった。2001年のウチナーンチュ大会で三線(さんしん)を弾いた時のこと、会場に詰め掛けた数千人の聴衆の熱気はまさに衝撃的だった。世界中の沖縄移民の子孫たちと個人的にも知り合い、今ではメイルで連絡を取り合っている。とにかくウチナーンチュが何をしているか、それを知りたいという気持ちがそうさせている」。山内さん自身は幼い頃に父母と渡米してきた新一世だ。沖縄での留学と滞在経験が、彼女のウチナーンチュ魂 を目覚めさせる転機になったのだ。

ウチナーンチュ魂は、沖縄生まれの祖母から受け継いだと話すのは、サンフランシスコ州立大学でアジアアメリカ研究に携わっているウェスリー・上運天(うえうんてん)さん。ハワイ生まれの3世だ。

「子供の頃、祖母はことあるごとに『有り難い』と口にしていた。毎朝、オレンジを手に、『有り難い』と言いながら各部屋に1個ずつ置いて歩く。それを拾って歩くのが幼い僕の役目だった」

そして「ご先祖様への感謝の気持ち、心を沖縄の人は大切にする」と強調。「ウチナーンチュ大会でも、大それたイベントとしてではなく、大きなホールに皆が集合して互いに交流を深めるだけでも十分意義がある。外国語を習いたい沖縄の学生も参加するといい。言葉がすべてじゃない。コミュニケーションは心だ。『いちゃりばちょおでえ(会えば皆友達)の精神だ』

金城教授をはじめとする3名の琉球大学のプレゼンテイターの研究発表と、在米のウチナーンチュ新世代2名のスピーチを熱心に聞いていたのは、50代以上と思われる層の人々だった。彼らの主言語も既に英語である。

驚かされたのは、山内さんが「ウチナーンチュ大会に参加されたことのある方は?」との質問にかなりの人(恐らく2割ほど)が手を挙げたことだ。そして、ロサンゼルスの日系社会で活躍している元政治家、医者、実業家の姿も聴衆の中に多く見受けられた。親や祖父母の世代から引き継いだ彼らのウチナーンチュ魂が、故郷の再建に寄与しただろうことは想像に難くない。

俄然、2011年の世界ウチナーンチュ大会に参加したくなってきた。筆者は沖縄県人ではない。しかし、上運天さんも強調していたように「血のつながりよりも、むしろ心が大切」なのである。

© 2008 Keiko Fukuda

dn program janm OAA okinawa uchinanchu Uchinanchu Taikai University of Ryukyu