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https://www.discovernikkei.org/es/journal/2008/3/11/ncjar/

アメリカに正義を―NCJARの「討ち入り」

戦時中の日系アメリカ人の強制収容に対するレーガン大統領の公式な謝罪は、正義を求め続けた日系アメリカ人の長い戦いに区切りをつけました。

1975年、ササキ・ショウスケさんらによって、強制収容に対する賠償と補償を請求することを目的にSERC(シアトル強制収容賠償請求委員会)が 結成されました。発起人のひとりであるヘンリー・ミヤタケさんがシアトル計画を発案しました。シアトル計画とは、個人単位の一定額の賠償金と、強制収容さ れた期間に基づいて算出された補償金の獲得を目指すものです。SERCは早速、ロビー活動を開始しました。当時は多くの日系アメリカ人が賠償を勝ち取るこ とは叶わぬ夢だと考えていたため、地元シアトルでの支持を得ることさえままならぬ状況でしたが、まもなくシカゴの日系人社会がSERCの活動に興味を示し てきました。そして、シカゴで公民権運動に取り組むウィリアム・ミノル・ホーリさんを代表に、SERCはNCJAR(全米日系アメリカ人賠償および補償請 求委員会)に発展したのです。

NCJARは、シアトル計画を法制化するため、マイク・ローリー下院議員に法案化を依頼しました。しかし、新人議員だったローリー議員が議会内で影 響力を発揮できなかったため、廃案となりました。同時に日系の国会議員が、政府主導による公開の再調査によって賠償を勝ち取ることが最も有効な手段である と考えていたことも廃案に影響しました。

この結果、日系アメリカ人の正義を勝ち取る闘いは、日系の国会議員とJACL(全米日系アメリカ人市民連盟)が主導権を握ることになりました。

一方のNCJARは、ローリー法の廃案により、裁判によって国家賠償を勝ち取ろうと考えました。 ホーリさんら25人が原告となり、強制収容された 12万5千人の日系アメリカ人のために、27億ドルを請求することにしました。 このとき、ホーリさんたちは自分たちの裁判を忠臣蔵に見立て、「討ち入 り」と表現しました。 日系二世の政治活動家であったアイコ・ヨシナガ・ハージグさんと夫のジャック・ハージグさんが強制収容の史料をNCJARに提供、 弁護は辣腕として知られるエレン・カーソン・グッドベイさんらが担当しました。

1983年3月16日、ワシントンDC地裁のオバドーファー判事により、初審が開廷しました。NCJARは、最初に日系アメリカ人に対する人権侵害 に関わる22におよぶ事実を並べました。判事は、1949年に政府は強制収容に対する損害賠償に応じていることと、時効を理由に反論しましたが、 NCJARは国家の過ちに時効はないうえ、1949年の救済措置は精神的な損害に対して何ら有効でないと強い姿勢で訴えました。しかし、オバドーファー判 事は、NCJARの訴えを却下しました。27億ドルもの賠償金を支払うことは許容範囲を超えたリスクを負うことであり、それは政府への脅威を意味すると判 断したのです。その後、1987年の最高裁でNCJARの敗訴が確定しました。

NCJAR対アメリカ合衆国との闘いの裏では、政府主導による公開再調査と、JACL主導による賠償請求運動により、日系アメリカ人は政府からの公 式謝罪と賠償金の支給を勝ち取りました。さらに、政府はNCJARに対して賠償金の即時支払いを条件に賠償請求の取り下げを要求しましたが、NCJARは これを拒否、1989年に活動を停止して解散に至りました。政府の提案を受け入れることはNCJARにとって無条件降伏を意味したからです。

ホーリさんは後にNCJARの目的はアメリカに正義が存在することを証明するためであり、政府を脅かす意図はなかったと主張しました。JACLによ る日系アメリカ人救済を目的とした活動とは異なり、NCJARはアメリカが正義を尊重する国家であることを証明したかったのです。敗訴という結果に終わっ ても、アメリカがこの裁判を通じて正義の大切を学ぶ機会を得たことは確かです。また、NCJARの裁判が政府の公式謝罪と賠償金の支給の決定を早めさせた ものも事実です。政府は裁判に敗訴して大恥をかくことよりも、大統領の公式謝罪を行うことで面子を保つほうが有利だと判断したのです。

NCJARの「討ち入り」が成功したのか、失敗したのかは個々の歴史認識に委ねられます。しかし、NCJARが日系アメリカ人の歴史を素材として、アメリカ政府に正義の大切さを再確認させたことは確かだと言えるでしょう。

© 2008 Takamichi Go

Acerca del Autor

En la Universidad de Orange Coast, la Universidad Estatal de California en Fullerton y la Universidad de la ciudad de Yokohama, estudió la historia de la sociedad estadounidense y la sociedad estadounidense de Asia y Oceanía, incluida la historia de la sociedad estadounidense de origen japonés. Actualmente, aunque está afiliado a varias sociedades académicas, continúa investigando de forma independiente la historia de la comunidad Nikkei, particularmente para "conectar" la comunidad Nikkei y la sociedad japonesa. Además, desde la posición única de los japoneses con vínculos con países extranjeros, expreso activamente mis opiniones sobre la coexistencia multicultural en la sociedad japonesa, al tiempo que hago sonar la alarma sobre las tendencias introspectivas e incluso xenófobas en la sociedad japonesa actual.

(Actualizado en diciembre de 2016)

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