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民博特展 「多みんぞくニホン」 - ミュージアム展示にみる日本人の海外移住

近代における日本人の海外渡航は幕末からはじまった。移住を目的とする渡航について言えば、出稼ぎから定住へとおおきく推移していった。いまでこそ デカセギといえば南米の日系人が日本に来てはたらくことをもっぱら指しているが、かつては冬のあいだ雪国から都会に出て労働に従事することや、海外で一旗 揚げることが、出稼ぎの部類に属していた。そして海外では出稼ぎのつもりがいつのまにか定住にかわってしまうこともめずらしくなかった。最近では、デカセ ギの日系人が日本での定住ないし長期滞在をかれらの人生設計に組み込むようにすらなっている。

では、日本人の海外移住の歴史とはどのようなものであったか。ここでは歴史記述の書物を紐解くのではなく、展示にことよせて、世界各地のミュージア ムでそれをどのように展示しているのか比較してみることにしよう。とりあげるのは国内では山口県大島町の日本ハワイ移民資料館、JICA横浜国際センター 海外移住資料館(Japanese Overseas Migration Museum)、海外ではホノルルの日本文化センター歴史展示場(Historical Gallery, Japanese Cultural Center of Hawaii)、ロサンゼルスの全米日系人博物館(Japanese American National Museum)、サンパウロのブラジル日本移民史料館(Museu da Imigração Japonesa no Brasil)、リマのペルー日本人移住史料館(Museo Conmemorativo de la Inmigración Japonesa en el Perú)である。このほかにも日本人移民に関する展示施設は国内では広島市、和歌山県御坊市、沖縄県南風原町、海外ではハワイ、ヴァンクーバー、フロリ ダ州デルレイ・ビーチ、ボリビアのサンフアン移住地、ブラジルにはサンパウロ州バストス、同州レジストロ、パラナ州ローランジア、パラー州トメアスーなど にある。

ハワイにはじまる海外移住

日本人の海外出稼ぎ移住はハワイの契約労働からはじまった。かれらはサトウキビ耕地の労働者として海外生活の第一歩をしるしたのである。通説では明 治元(1868)年に横浜からわたった150余名の日本人、すなわち後年「元年者」と呼ばれる人びとが移民の嚆矢とされている。しかし、わたしも実行委員 の一人としてかかわったJICA海外移住資料館(以下、JOMM)の展示では「元年者」をそのようには見なしていない。なぜなら、歴史展示を担当した阪田 安雄氏(大阪学院大学教授)によると、「元年者」は外国人居留地にいたアメリカ人ヴァン・リードが明治政府の許可なしにハワイに送り込んだ労働者たちだっ たからである。それは明治維新の混乱時に不平等条約下の開港場でひきおこされた事件ではあっても、政府が認可した渡航ではなかったという見解にもとづき、 「元年者」のあつかいはきわめてちいさくなっている。むしろ、海外渡航という観点からは、幕府が1886年にだした「御免の印章」(パスポート)のレプリ カ展示に光が当てられ、鎖国から開国への政策転換が強調されている。

JOMMの歴史展示は「はじまり」を目安として5期に分けられている。その第Ⅰ期は「海外渡航のはじまり 1853-1844」と名づけられ、それを象徴する資料のひとつとして「御免の印章」がえらばれたのである。第Ⅱ期は「海外出稼ぎのはじまり 1885-1907」である。明治新政府は中国人の苦力(クーリー)貿易の轍をふまないように日本人の海外集団渡航には慎重な態度をとった。ようやく 1885年、ハワイ王国政府との交渉が成立し、「ハワイ官約移民」の渡航が開始される。官約移民は9年間にわたり3万人近くを数えた。その出身地は当初、 山口県と広島県に集中し、福岡県や熊本県がそれにつづいた。山口県周防大島の日本ハワイ移民資料館には「海外渡航一件録」など送出側の貴重な資料が展示さ れている。注目に値するのは官約移民募集時の倍率の高さと選定のきびしさである。それを見ると、移民は食い詰めて海外にわたったというステレオタイプの見 方がくつがえされる。

他方、移住先のハワイではどのような展示がなされているのだろうか。一例としてハワイ日本文化センターの歴史展示場をとりあげてみよう。そこでは全 体テーマとして「おかげさまで―ハワイの日本人物語」がかかげられ、入口には12本の石柱がならんでいる。石柱には日本語の文字が刻まれ、壁面のパネルに アルファベットで読み方と英訳が記されている。その文字とは「義理」「名誉」「恥、誇り」「責任」「忠義」「感謝」「仕方がない」「頑張り」「我慢」 「恩」そして「孝行」である。これは一世からまなんだ価値観をあらわし、石柱は「価値マーカー(value markers)」とよばれている。恩、恥、義理、忠義などいかにも官約移民の時代から日本人がハワイに持ち込んだところの価値観がストレートに表現され ている。そのような価値観に裏づけられた生活をおくったからこそ今日の日系人社会があるという自己認識、それが「おかげさまで」という感謝の気持を込めた 展示につながっている。

排日移民法を機に南米へ

さて、JOMMの歴史展示の第Ⅲ期は「定住移民(移殖民)のはじまり 1908-1944」となっている。しかし、内容的には移民に対して「門戸を閉じるアメリカ合衆国」と「南米へ向かう国策移民」に分かれるので、担当者の 頭をもっとも悩ますコーナーとなった。アメリカでは増加する日本人に対して排日感情が高まり、日本政府はついに1908年、呼び寄せの親族を除き労働を目 的とする渡航者には旅券を発給しない措置をとった。しかし、「写真花嫁」「二重国籍」「外人土地法」などの問題がくすぶり、1924年にはいわゆる「排日 移民法」が成立し、日本人移民の入国は全面的に禁止されることとなる。

その間、移住先は北米から南米へとおおきくシフトした。ペルーへの移住は1899年にはじまるが、定住をめざす移住となると1908年の笠戸丸移民 がその先駆けである。笠戸丸は781人の移民を乗せて4月28日神戸港を出航し、6月18日にブラジルのサントス港に到着した。移民たちの多くは家族を構 成していて、家族ごとにサンパウロ州各地のコーヒー農園に配耕されていった。しかし日本人移民はコロノとよばれる契約労働者にあまんずることなく、独立農 をめざしていった。そして1924年にアメリカの門戸が閉ざされると、ブラジルへの渡航はますます加速し、サンパウロ州のみならずアマゾンにもおよび、 1941年の日米開戦までに約19万人をかぞえた。

リマのペルー日本人移住史料館の展示では、移民のペルー到着に先立つ歴史を展示している。日本人とペルーの先住民はモンゴロイドとして共通のとおい 先祖をもち、日本とペルーはそれぞれの文明のながれに身をゆだねたが、ふたたび移民をとおして再会したという物語である。他方、サンパウロのブラジル日本 移民史料館では入口ちかくに笠戸丸の模型をおき、奥には入植初期の開拓小屋を復元し、日本人が新世界に移住してあたらしい生活をひらいたことを印象づけて いる。さらに、農業分野を中心に産業開発への参加と貢献を強調する展示をおこなっている。

この二つの史料館はそれぞれペルーが移住80周年(1979)、ブラジルは移住70周年(1978)とほぼ同時期に設立されたが、展示のコンセプト に上記のような視点の相違がみられ関心をひく。そうなった理由は、おそらく展示に顧問格でかかわった二人の研究者のちがいによるところがおおきい。すなわ ち、前者にはラテンアメリカのエスノヒストリー(民族史学)を専門とする増田義郎氏(東京大学名誉教授)が関与し、後者には比較文明学の立場から日本人移 民の文明史的意義を問い「われら日本人、新世界に参加す」というキャッチフレーズをテーゼとして打ち出した梅棹忠夫氏(国立民族学博物館顧問)が協力して いるからである。

出稼ぎの逆流現象

ふたたび、JOMMの歴史区分にもどろう。第Ⅳ期は「移住の中断1941-1945」である。この時期は移住が中断しただけでなく、日本人とその子 弟は敵性外国人と見なされ、行動の自由をうばわれたり、僻遠の地に強制移住されたりした。アメリカでは約11万人、カナダでは約1万人が強制収容の対象と なり、精神的・経済的に想像を絶する打撃を受けた。ペルーからも160人あまりの日本人が検挙され、アメリカの強制収容所に抑留させられた。特筆すべきは アメリカに忠誠を誓い志願兵となった二世たちの100大隊や442部隊の存在とその軍功である。そのおかげで日系人は「一級市民」としての地位を獲得した とかんがえられている。

全米日系人博物館ではハートマウンテン収容所にのこされたバラックの一部を移築し、展示の中核としている。戦時中の強制収容については1988年に 補償問題の解決をみているが、全米日系人博物館はその悲惨な体験をアメリカ市民をはじめとする来館者と共有することを主目的としてつくられた。したがっ て、展示では強制収容というようなことが二度とおきないようにとのメッセージが強く込められている。

ブラジルでは戦後にむしろ深刻な問題が発生した。というのは、日本が戦争に勝ったか負けたかで日系人社会が分裂してしまったからである。いわゆる 「勝ち組」「負け組」の問題は殺傷事件にまで発展したが、1950年代になってようやく沈静化した。1952年には南米への「国策移住」が再開され、日本 の高度成長期まで送出事業は活気を帯びていた。アメリカでは1953年に新移民法が制定され日本人も帰化ができるようになった。くわえてララ物資などによ る敗戦国日本に対する復興支援活動などが特記される。これらの事柄がJOMM展示では第Ⅴ期「戦後移住のはじまり1946-」の初期をいろどっている。
第Ⅴ期は現在進行中だが、1960年代初頭をピークに「国策」の海外移住は下降線をたどり、移民船による移住は1973年に終止符を打った。逆に、 1990年代には南米日系人やその家族による日本へのデカセギが本格化するようになった。出稼ぎの逆流は20年前には予期することのできなかった現象であ る。

最後にひとこと付け加えたい。1960年代以降、日本人移民に関する資料の収集と展示が世界各地で精力的になされるようになったが、それが移民とその子孫と日本にとって、あかるい未来をきりひらくものであってほしいと切にねがっている。

 

*国立民族学博物館 『多みんぞくニホン-在日外国人のくらし』 (2004年)より転載。

© 2004 Hirochika Nakamaki