サンパウロ州境のカンバラからはじまった日系移民の北パラナへの入植は、同地方の開発とともに1930年代に広がりを見せ、日系教育もそれにしたがって拡大していった。ブラジル日系教育の統括機関であるサンパウロ日本人学校父兄会が1936年にブラジル日本人教育普及会改組され、会長に元外交官の古谷重綱が就任した。この普及会は、ブラジル国内に第1から第6支部を創設したが、第3支部に北パラナのカンバラ区、ロンドリーナ区、トレス・バラス区が入っている(ブラジル日本人教育普及會, 1937, p.47)。
周知のように、ブラジルは世界最大の日系コミュニティを有し、その人口は約150万人とされる。日系人口はいくつかの地域に集中しているが、もっとも人口が多いのはサンパウロ州で、それに次ぐのが南隣のパラナ州である1 。同州内でも「北パラナ」と呼ばれる北西部に、日系人口が集中している。現在、ブラジルの「日本文化」プレゼンスで、もっとも熱いと言われるのが、この北パラナであり、ロンドリーナ(Londrina 人口約50万)、マリンガ(Maringá 人口約35万)という中核都市(地図1参照)を中心に、強力なインテグレーションを持った日系コミュニティが存在する(「ブラジルの日本人街」第10回 参照)。
サンパウロ州レジストロは、サンパウロ市から南西に約200キロ。パラナ州の州都クリチバに向かう国道116号線の半ばに位置する。大西洋に注ぐリベイラ川が大きく湾曲する地点で、川岸から西に向かって市街地が広がっている。
サンパウロ市在住のYT氏(1933年生まれ)は、日系二世の建築家で、筆者の大切な友人の一人だ。外国語教育が禁止された時期に幼少期を送った人だが、日伯両語のバイリンガルで、氏とお話する時はいつも日本語である。そんな氏とある日、戦中期の教育の話をしていて、ふと「Yさんは教育勅語なんて習ったんですか?」と聞いてみたところ、「全部言ってみましょうか」と言って、「チンオモウフニ、ワガコウソコウソウ、クニヲハジムルコトコウエンニ、トクヲタツルコト、シンコウナリ…」とやりはじめた。今でも教育勅語を全部そらで言えるという。
バイリンガル教育の効能が喧伝される昨今、思い至るのは1930年代のブラジル日系児童・生徒たちの言語生活である。当時の多くの日系の子どもたちは、午前中はポルトガル語でブラジル正課の授業を受け、午後からは日本人学校に通う(あるいはその逆)というバイリンガル生活を送っていた。同じ校舎で、半日はポルトガル語、あとの半日は日本語という学校も少なくなかった(写真7-1)。
前回は、戦前のブラジルにおける日系女子教育の開花について述べた(本連載第5回参照)。こうした女子教育機関の教育内容として特筆されるのは、知識・教養の教授とともに、日系女子としてのしつけ、礼儀作法の教育が重視された点であろう(写真6-1)。日伯実科女学校の創立者郷原ますえもサンパウロ女学院創立者の赤間みちへも、ブラジルで発行されたいくつかの著書があり、礼儀作法についてそれぞれ健筆をふるっている。
戦前から戦後にかけて、ブラジルの日系コミュニティには、「花嫁学校」と呼ばれる女子教育機関が存在した。それらは、移民の子女に裁縫や料理などの 技能を教授し、日本人女性らしい良妻賢母型のしつけを施す学校施設であったが、後には日本の女学校課程に準ずる高等女学部やポルトガル語部を併設し、総合 学園的な教育機関として発展したものもあった。
吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉の慶応義塾、弘前の東奥義塾などの例を引くまでもなく、日本の歴史は連綿たる私塾教育の伝統を持っている。大阪大学医 学部の前身が緒方洪庵の適塾ということを考えると、官立学校もまた私塾の伝統の上に創られてきたことは否定できない。彼らこそ、日本的教育文化の一つの源 と言ってよいであろう。実際、ほぼすべてのブラジル日系教育機関も小規模な私立学校、すなわち私塾として出発した。
大正小学校をはじめ、戦前のブラジル日系教育機関の最盛期は1930年代である。コンデの坂下からサン・ジョアキン通りに移転した大正小学校は、次第に学校としての機能を充実させていった。
坂の多いサンパウロの中心部に、ブラジルの日本人にとって特別な坂がある。