Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

identity ja

ある日系人との出会いから ―その1/2

日本人にとって日系人は、遠くて近い存在なのでしょうか?確かに、日本人と日系人の関係は、日本がはじめた日米戦争によって、亀裂ができてしまったとされています。そのため、多くの日本人にとって、日系人について、その多くを理解するための機会が限られています。しかしながら、わたしは、これまで出会った多くの日系人との交流や、親しくしてくださるFさんやHさんのことを考えると、どうやら、日本人と日系人の関係は、お互いをよく理解しあう人々によって、しっかりと保たれてきたと思うのです。 日本語話さぬ補助教員 わたしは先日、中学生の頃のあるエピソードを思い返していました。わたしは中学生を相手に英語や社会を教える仕事をしていますので、中学生の視点や、中学校の事情を理解するため、わたし自身が中学校に通っていたときのことを思いかえすのです。ただ、台湾にルーツをもつ日本人であるわたしにとって、日本の学校での思い出には、思いだしたくないものが色々とあります。思い出してしまうと、気分が悪くなってしまうものもあるのですが、これから書く内容は、忘れることのない良い思い出のひとつです。 わたしが中学1年生のときのことでした。日本の中学校では、英語を母国語とする人々を、補助教員として教壇に立たせることがあり、そのときに、わたしのクラスにやってきた補助教員の先生が、日系人だったのです。彼女は、タカキさんという女性の方で…

Read more

community ja

マンザナーへ、そしてマンザナーから

第6回 (後編) 東カリフォルニア博物館へ

前編>>東カリフォルニア博物館の日系史にかんする展示において、特筆すべき点は、博物館のなかにおいて一番に訪問者の目をひく、バラックの内部を再現した展示です。 このバラックの床には、ところどころに、ブリキ缶の側面を平べったくしたものが、床に打ちつけられていました。これらは、当時のバラックが、粗悪な材木と、タールを塗りつけた紙だけで造られていた為に、すきま風や、すきま風とともに入ってくる砂を、防ぐためのものでした。 今でこそ、全米日系人博物館をはじめ、各地の博物館などにおいて、収容施設の内部を再現する展示が見られるようになりましたが、東カリフォルニア博物館は、バラックの内部を展示として活用した、最初の博物館のひとつなのです。 また、実際に当時の人々が使った家具や、野球のための用具などが、数多く展示されていることも、私にとっては、とても印象的でした。 なかでも、最も日系人らしいと、私が思ったものは、収容された日系人によって作られた机です。戦争が終わって、まもなく70年が経とうとしていますが、その机の保存状態はとてもよく、まるで新品のようだったからです。この机を通して、日系人の手先の器用さという、“ジャパニーズ・エスニシティ”(日本、日本人の民族性)において大切なことを見い出すことが出来るからです。 また、展示されていた、手製の杖にも、“ジャパニーズ・…

Read more

community ja

マンザナーへ、そしてマンザナーから

第6回 (前編) 東カリフォルニア博物館へ

マンザナーでの実習は、3日目を迎えました。私はキャリーさんと一緒に、東カリフォルニア博物館(Eastern California Museum)を訪れました。 東カリフォルニア博物館は、マンザナーをふくめた、インヨー郡(Inyo County)の歴史に焦点をあてた博物館です。マンザナーからは、車で約15分ほど北上したところにあって、インディペンデンスの街の中心にあります。今回、マンザナー以外に、東カリフォルニア博物館に足を運んだのは、私のマンザナーでの実習における、プロジェクトを決めるためです。 博物館へ到着すると、私は博物館の責任者でもある、ベス・ポーターさんに会いました。そして、30分ほどかけて、博物館のなかの展示に目を通しました。 東カリフォルニア博物館の展示は、大きく3つに分けることができます。初めに、ネイティヴ・アメリカン。次に、インヨー郡に入植した、白人の開拓者。そして、マンザナーと日系人です。3つの展示を通して、私はカリフォルニア州の歴史の一幕を学び、さらには、インヨー郡の歴史をたどることで、日系人の収容施設が、マンザナーのような場所に建設された理由を学びました。 インヨー郡のあゆみ インヨー郡には、数世紀にわたって、パイウート(Piute)とよばれる、ネイティブ・アメリカンの人々が、生活を営んでいました。しかし、19世紀を迎えて、ゴールド・ラッシュの時代に突入する…

Read more

community ja

マンザナーへ、そしてマンザナーから

第5回 マンザナー二日目

マンザナーにきて二日目、わたしは寒くて朝早くに目が覚めてしまいました。時計を見るとまだ6時でした。寒くて目が覚めてしまった経験は、実に数年ぶりでした。 わたしは熱いシャワーを浴びたあと、果物の缶詰を2個ほど開けて、急いで朝食を済ませました。ガスヒーターを点けましたが、部屋は一向に暖まりません。さらに、わたしは外を見てびっくりしてしまいました。なんと、霜が車全体を覆っていたのです。わたしは急いでお湯を沸かし、車全体を覆っている霜をとかし始めました。まもなくして霜をとることはできましたが、案の定、すぐにはエンジンがかかりません。何とかしてエンジンをかけ、エンジンが温まった頃には、すでに7時半になろうとしていました。わたしは、8時の出勤時間には間に合うようにと、エンジンが温かくなったのを確認し、資料館にむけて車を走らせました。 資料館に着いたとき、時計は7時50分を指していました。キャリーさんとポタシンさんはすでに出勤していました。 午前-マンザナー史跡めぐり その日の午前中、キャリーさんはマンザナー史跡のなかを案内してくれました。最初に紹介してくれたのが、ブロックのなかにあった男女別の便所兼シャワー場、洗濯場、そしてアイロン場の跡でした。 [inline:manzanar1.jpg] [inline:manzanar2.jpg] 便所兼シャワー場で、キャリーさんは、パイ…

Read more

community ja

ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その5

>>その4父親として、日系社会の一員として1944年に結婚したハワードさんとアンさんには、1948年に長女のジョイスさん、1952年に次女のスーザンさんが生まれました。ハワードさんは、公の場では多くの歯科医師にとって「素晴らしき父親」でしたが、私生活においても二児の素晴らしき父親でした。ジョイスさんは残念なことに1990年にがんで他界しましたが、スーザンさんは現在も、日本でいうところの特別支援学校の先生をしています。 さらには、ハワードさんは日系社会のために活動をする人でもありました。日系人の相互扶助・友好促進団体である、JAO(Japanese American Optimist Club)の活動に長年かかわってきました。1972年から1973年にかけて、ハワードさんはJAOの会長をつとめました。また、ハワードさんはジョギングを毎日の日課としていました。朝の4時に起きては、自宅周辺を走っていました。 2007年の4月に、わたしはハワードさんとアンさんに会いました。そこではじめて、千代子さんとハワードさんのオーラル・ヒストリーをやりました。今日ここで書いた内容もふくめて、大変貴重なお話をふたりはわたしにしてくれました。 それからまもなく、ハワードさんとアンさんは、永松先生のすすめもあって、千代子さんの住んでいる、スタッフ付きの年長者向けの住宅に移りました。ロサンゼルス市内に住んで…

Read more