Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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『羅府ぎぎゅう音頭』の著者、佐藤健一先生を訪ねて - その2

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初めての佐藤先生とのインタビューが終わったあと、私は羅府に足を運びその内容を藤田さんに報告しました。藤田さんは、先生とのつながりをつくることが出来たことをとても喜び、LTRの撮影もかねディレクターの陳さんを伴って日本を訪問することを決めました。

藤田さんと陳さんは11月の下旬に日本を訪問しました。ふたりの第一の目的はもちろん、先生に会うことでした。私は急いで4日間のスケジュールを組み、あらためて先生から話を聞くことになりました。今回のわたしの役割は日程の調整や現地でのサポートが主で、インタビューを藤田さんが行い、その様子を陳さんが撮影するという形で行いました。

最初の2日間は、佐藤先生の経歴や生い立ち、加州毎日新聞社のことなど、先生の話を中心に質問をしました。そして、3日目に、わたしが藤田さんをヘルプするかたちで、先生の藤井氏に対する考えなどついてお話をうかがいました。

藤井整の魅力

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藤田さんが、どのような理由で藤井整に興味を持つようになったのかを伺うと、藤井氏の日系社会への多大な貢献のみならず、藤井氏の人柄そのものに惹かれたと佐藤先生はおっしゃっていました。

当時、藤井氏は日系社会におけるアイドル的な存在でもありました。彼が亡くなった直後に発行された『羅府新報』の記事によると、彼は日系社会における「元老」的な存在として評価されていました。それと同時に、藤井整は老若男女を惹きつける「特殊な魅力」の持ち主とありました。藤井氏は、素晴らしい外見を持っていただけでなく、弁がすこぶる立っていたことでも知られており、それが一般的に彼の魅力となっていたようです。

しかし、佐藤先生にとっての藤井氏の魅力は、それだけではありませんでした。藤井氏の日系社会における貢献とそれをなしとげた彼の姿勢に惹かれたそうです。排日土地法という当時の人種差別的アメリカ社会の法律に対して、頑固たる決意を持って挑み、アメリカの日系人たちのために戦ったその信念と姿勢に強く惹かれたとのことです。

先生はもちろんのこと、わたしや藤田さんも、調べれば調べるほど、藤井整氏のこのような魅力に取りつかれてしまったのです。現在のアメリカ社会における日系社会の不動たる地位は、藤井氏の多大なる貢献なくしては語れないとわたしは思います。

藤井整は日系社会の白洲次郎だ!

また、先生は、藤井整の人物像を語るにあたり、戦後のある日本人のエピソードについて語ってくれました。

その日本人は、GHQ占領下にある日本で、昭和天皇からのクリスマス・プレゼントをマッカーサー本人に直接手渡しにいきました。しかし、マッカーサーが天皇陛下からのプレゼントを丁寧に扱わなかったので、彼を「一蹴」したというのです。また、その彼は「日本は敗戦したが、アメリカやアメリカ人の奴隷になったわけではない」とマッカーサーを恫喝し、日本の立場を護った人物としても知られています。その人物は、白洲次郎という戦後の日本復興を支えた要人の一人です。

先生がこの話をしたのは、戦後の白洲次郎の行為に、困難な時代に日系社会のため、自らの尊厳を保ち戦った藤井整の姿を見たからです。上記の言葉がしめすように、白洲次郎は、敗戦直後という大変困難な状況においても、日本人の尊厳を忘れず国のために奔走した人です。一方、藤井整は、戦後まもなく、まだ日系人に対する激しい差別のあるアメリカで、外人土地法を葬るための法廷闘争をし、数年にわたる法廷闘争を経て、1952年、長年日系一世を苦しめてきた悪法を葬ることに成功しました。

わたしはこの話を聞き、戦後という大変困難な時代に、日本人としての尊厳を護るために奔走した日本人がいたことと、アメリカ社会で日系社会の建て直しに奔走した人物がいたということは、「奇跡」に近いことかもしれないと、改めて藤井氏に尊敬の念をいだきました。同時に、佐藤先生のように、日系人の功績を残すためにたくさんのエネルギーを費やした日本人がいたことを、日系人の皆様にも知ってほしいと思いました。

藤井整の形見

そして最終日、朝食を食べ終わると、突然先生から電話がかかってきました。藤田さんに是非見せたいものがあると言うのです。まだ時間が少しあったので、わたしたちは近くのショッピングモールのレストランで先生と会うことにしました。

先生は使い古した綿で出来た袋を片手に、わたしたちの前にあらわれました。そして、「ここで見せると警察沙汰になるから、すぐにレストランに入ろう、そこでこれを見せるよ」と言うのです。

レストランでオーダーを済ませ、先生は袋にはいっていたものを取りだしました。なんとそれは、とても古いナイフでした。ナイフの柄の部分は鹿の角でできていました。おそらく、このようなナイフは、今では世界中どこでも作られていないと思います。

これは「藤井整の形見」で、丸谷さんから譲りうけたものだそうです。

先生は、その形見のナイフが藤井家でどのように使われていたか話してくれました。藤井家においては、藤井整の妻であったマツヨさんによってさまざまな料理がつくられていました。彼女は和洋中のさまざまな料理に精通していたので、「加州毎日」では料理に関する記事をたびたび投稿していました。「加州毎日」によって紹介されたさまざまな料理が彼女の手によって、そしてこのナイフによってつくられたのです。そのことをおもうと、このさびたナイフにも数十年つづいた加州毎日の「生き証人」のひとつになるのではとおもい、わたしは感慨深い気持ちを感じました。

わたしたちは、この藤井整の形見ともいうべき大事なナイフを、わざわざ持ってきて見せてくれた佐藤先生への感謝の気持ちでいっぱいになりました。3日間に及ぶインタビューで、私たちの藤井氏にたいする尊敬の念を、佐藤先生も感じてくださったのだと、わたしは思います。

* * *

藤井整の生涯を描いた映画『リトル・トーキョー・レポーター』の制作は、着々と進んでいるとのことです。皆様の支援のおかげで、今春には公開できるとのことです。30分ほどのショートドキュメンタリーですが、皆さんも是非ごらんになってください。

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『羅府ぎぎゅう音頭』の著者、佐藤健一先生を訪ねて - その1

一昨年秋より、わたしはリトル・トーキョー・レポーター(LTR)という、日系一世である藤井整の生涯を描いたドキュメンタリー映画の制作をお手伝いしています。(その経緯については『「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん』を参照ください。)今回はこの映画制作における「要」ともなった資料である『羅府ぎぎゅう音頭―排日土地法を葬った藤井整の記録』(1983年)を書いた佐藤健一先生を訪問したときのお話です。

『羅府ぎぎゅう音頭』は、藤井整の生涯を描いた作品であると同時に、彼を知ることのできる数少ない貴重な資料のひとつです。藤井氏がこの世を去ったのは1954年で、すでに彼の親族の多くもこの世を去っています。そのため、彼を直接知っている方を探すことはとても難しいことでした。ですから、藤井氏の経歴を細かく調べた佐藤先生から直接話をうかがうことは、LTRの制作において、とても重要なことでした。去年の7月、わたしは藤田さんに頼まれ、先生のインタビューをすることになりました。

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『羅府ぎぎゅう音頭』執筆のいきさつとそのプロセス

佐藤健一先生は、東京生まれの東京育ちです。慶應義塾大学の理工学部を卒業したのちに、山形県の公立高等学校の英語の教師になりました。先生が東京を離れ、山形で就職をした理由は、先生の両親が庄内地方の出身だったからだそうです。およそ25年にわたる教師生活をおくったのちに、先生が選んだ次の職業はジャーナリストでした。大学時代の知人の紹介で、アメリカの羅府へ移住、フルタイムの記者として加州毎日新聞社に入社しました。その後、羅府のさまざまな地域に足を運び、羅府で起きているニュースを日系社会の人々に日本語で発信しました。

先生が藤井整氏の伝記を書くきっかけとなったのは、当時の加州毎日新聞社のゼネラル・マネージャーであった、故丸谷潤子さんに依頼されたからです。

丸谷さんは、日本語と英語の堪能な帰米二世で、長年にわたり加州毎日新聞社の経営にたずさわってきた方です。戦後まもない頃に加州毎日新聞社に入社した彼女は、「ミスター・フジイ」の秘書を務めました。そして、藤井整がこの世を去ってから加州毎日新聞社が廃業するまでの数十年間は、ゼネラル・マネージャーとして会社の経営に深くたずさわりました。

丸谷さんは、藤井整の「生き証人」でもあり、いつの日か藤井氏の功績を後世に残そうと考えていました。先生のライティングスタイルが気に入っていたこともあり、先生であれば後世に残る素晴らしいものが出来ると、佐藤先生に藤井氏の伝記を書くことを依頼したそうです。

丸谷さんから藤井整の伝記を書くことを頼まれた先生は、彼女の依頼を喜んで引き受けることにしました。以来、先生は午前中に『加州毎日』向けの記事を書き、午後には藤井氏に関する調査を精力的におこなうようになりました。

藤井整の伝記執筆にあたり、まず『加州毎日』の過去の記事を読み返すことからはじめました。藤井氏に関する情報を、ひとつたりとも漏らさず集めたのです。そのなかには、藤井氏の残した手紙や、自筆のメモ、さらには裁判の記録などもふくまれていました。さらには、戦後、彼が外人土地法を葬るために購入した「土地」を見つけるために、羅府市内のさまざまなところを歩きまわりました。古い地図などを参考にして見つけたその土地は、今でもメキシコ系の人々の住む地域のなかにひっそりと存在しています。

しかしながら、佐藤先生は、藤井氏の伝記執筆のさなか、体調を崩してしまい、病気療養のため、やむなく日本に戻ることを決めました。その後、体調は少しづつ良くなったので、先生は日本に生活の拠点を戻したまま、加州毎日の客員記者として記事を書き、執筆作業を続けることにしたのです。先生は、定期的に羅府をおとずれては丸谷さんや藤井氏の関係者に会い、情報収集に努めました。

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遂に、およそ6年の歳月をかけて藤井整氏の伝記『羅府ぎぎゅう音頭』を完成させたのです。1983年(昭和58年)12月のことでした。先生のみならず、先生の仕事を精力的に支援しつづけた丸谷さんにとっても、非常に感慨深いものだったと、わたしは思います。


『羅府ぎぎゅう音頭』について、先生はこんな面白いエピソードも話してくださいました。

本が出版された頃、小東京で日系人の歴史に関わる重要なものを残そうと、「タイム・カプセル」つくるプロジェクトが始まったそうです。それを聞きつけた丸谷さんは、「ミスター・フジイ」の功績を後世の人々にも知ってもらいたいという思いから、『羅府ぎぎゅう音頭』をタイム・カプセルに納めたというのです。

この「タイム・カプセル」は、現在も小東京のどこかに埋められており、今からおよそ70年ほどしたら、掘り出されるとのことです。未来の日系社会を支える人々が、藤井整氏の功績についてどんな「想い」を寄せるのか、楽しみです。

その2 >>

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「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん その2

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藤田さんの「闘い」

藤田さんが、藤井整氏の生涯に強い興味を持つようになったきっかけのひとつは、彼女自身が、日系史のみならず、アジア太平洋系アメリカ人の歴史において、「重要な役割」を果たしたからです。そのような過程をへて彼女は、彼との「つながり」を意識するようになったとのことです。

彼女は藤井氏と同じく、南加大学を卒業しました。薬学博士(Doctor of Pharmacy)の学位を取得したのちに、加州大学付属ハーバー病院(UCLA Harbor Hospital)にて、薬剤師として活躍するようになりました。数年後、彼女は病院の薬剤部におけるスーパーヴァイザーのポジションを得ましたが、その後さらなる活躍の場を求めるため、薬剤部長(Pharmacist Director)への昇進を申請しました。

しかしながら、彼女の申請は正当な理由のないまま、却下されてしまいました。その当時、医療機関などにおける薬剤部長のような要職は、白人の男性によって占められており、藤田さんが薬剤部長への昇進に意欲をみせていることは、彼らにとっては悩みの種だったのです。

その最中、最悪の事態が彼女を襲いました。藤田さんは上司から暴行を受け、7ヶ月という長期にわたる休職を余儀なくされたのです。そこで、彼女はロサンゼルス郡人事委員会(Los Angeles County Civil Service Commission)に、この件に関する徹底的な調査を求めました。

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一方、彼女の昇進を実現するために日系社会においては、「藤田さんを応援する会(Friends of Carole Fujita)」が結成されました。アイリーン・イノウエ‐ヒラノさん(Irene Inouye-Hirano)など、日系社会における指導者的立場をになう人々が、彼女の支援にまわりました。

そして1980年、ロサンゼルス郡人事委員会は加州大学付属ハーバー病院において、彼女にたいする人種差別と性差別が存在したことを認めました。その後、病院側は彼女の昇進の申請を受け入れ、彼女の昇進が決まりました。「薬剤部長、藤田キャロル文子」が誕生しました。こうして藤田さんは、日系人のみならず、アジア太平洋系アメリカ人、そして、アメリカ社会に生きる一般の女性たちに、雇用面における「門戸」を広げることに成功したのです。その後およそ20年にわたり、彼女は薬剤部長という「大役」を務めました。

藤田さんは2001年に薬剤師を引退し、その後はビル・ワタナベさん(Bill Wantanabe)らとともに、小東京歴史協会(Little Tokyo Historical Society)をたちあげました。そして、彼女にとっての「先輩」である、日系一世の医療従事者たちと、戦前の日本人病院の歴史にかんする調査をしたことで、藤井整氏の生涯に強い興味を覚えるようになりました。それからというもの、いつかは、彼の生涯を描いた映画を制作したいと考えるようになったといいます。

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制作費の問題に直面

私は昨秋、藤田さんと会ってから数日後に、LTRの制作監督を担当するジェフリー・ジー・陳さん(Jeffery Gee Chin 日本語では、“陳立文 ちん・たつふみ”)にも会いました。LTRは、彼にとってはデビュー作品とのことです。

わたしは、藤田さんの自宅でLTRの制作に必要な史料などに目を通してみたのですが、史料の中には、日本語のものもあったので、それらを英語に訳したりもしました。また、藤井整氏に関する書物―『羅府ぎぎゅう音頭―排日土地法を葬った藤井整の記録』(1983年、善本社刊)―の著者であり、加州毎日で記者を務めていた佐藤健一さんにも、日本でインタビューをしました。

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その後LTRの制作作業が始まり、現在も着々と進んでいます。作品の完成は2012年の春を見込んでいます。出演者は、主役である藤井整氏を日系のベテラン俳優クリス・タシマさんが演じています。彼にとっては、一世の役を演じることが、ひとつの大きな夢であったとのことです。タシマさんのほかに、ハワイ出身の女優ケイコ・アゲナさん、2010年の二世週日本祭女王ラニ・クメ・ニシヤマさん、そして日本の若手俳優である尾崎英二郎さんらが作品に出演しています。現在のところ、20~30分程度の、ナレーション形式のドキュメンタリー作品を目指しているそうですが、これが完成した後には、本格的な映画作品の制作を始めたいとのことでした。

ただ、動きだしたばかりのこのプロジェクト、現在、制作費の調達という大きな問題に直面しています。現在までに、撮影と編集の費用は調達できたのですが、その後の活動にかかる費用を工面することが、今の大きな課題だそうです。日系社会の歴史は一世紀以上も続いていますが、藤井整氏という人物がいなかったら、現在のような繁栄を築くことはできなかったでしょう。私は、LTRの制作にあたってできるだけの協力を藤田さんや陳さんに約束しました。この一文を日本から書いたのも、そのためです。一人でも多くの人々に、このドキュメンタリーの制作を支援していただきたいと思っています。関心のある方は、わたし、郷崇倫までご連絡ください。

日系一世の権利を打ち立てた、藤井整氏の生涯を描く映画制作への、皆様のご支援をお願いしています!
郷崇倫: tgo@jalivinglegacy.org

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「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん その1

「藤井整氏のドキュメンタリーをつくろうと思っているのだけど、なにかアドバイスしてくれないでしょうか」

昨年の秋のことでした。わたしは半年ぶりに、藤田キャロル文子さんと会ったとき、彼女からそのように言われ、とても驚いてしまいました。

現在、彼女は「リトル・トーキョー・リポーター(Little Tokyo Reporter)」(以下「LTR」とします)という、日系一世である藤井整の生涯を描いた映画で、自らがエグゼキュティヴ・プロデューサーとして、制作の陣頭指揮をとっているというのです。

わたしが藤田さんに初めて会ったのは、今から4年前の秋でした。JAリビングレガシーの代表である山城(長行事)ナターリアさんを通して、日本を訪問中の彼女に会いました。その時、彼女と彼女のいとこである橋村春海さんに、お互いの交流などについてインタビューをしたのがきっかけです。

それ以後、わたしはロサンゼルスを訪れる時には必ず彼女に会いに行き、また彼女が日本を訪問するときは、必ず彼女に会うようにしてきました。そうするうちに、彼女は、わたしにとって尊敬できる先生であり、非常に親しい友人のような存在になって行きました。そんな彼女に、突然、映画をつくるので手伝ってほしいと、頼まれたのですから、驚かずに入られませんでした。

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藤井整氏の「闘い」

LTRは、加州毎日新聞社(California Daily Newspaper)の創業者である藤井整氏の生涯を描くものです。

藤井整氏は、日系人の加州における経済活動を著しく制限した1913年の加州外人土地法(いわゆる、排日土地法 California Alien Land Law)を、白人の弁護士の協力を得て、葬り去った人です。それは、1952年のことでした。

彼は、現在の山口県岩国市出身で、旧制山口高等学校に通ったのち1903年に加州に渡り、南加大学(University of Southern California)で法律を学びました。将来は加州認定の弁護士となり、日系社会の人々が直面していた不正義に、正々堂々と立ちむかうヴィジョンを描いていました。しかし、日系一世という身分―「帰化不能の外人」―であったために、彼が加州において弁護士になるという夢は絶たれてしまいます。そのため彼は、大学時代の学友であり、加州認定の弁護士である白人のJ・マリオン・ライト氏(J. Marion Wright)とともに弁護士としての活動を始めました。

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排日土地法の裁判以外の、彼の日系社会における貢献には、日本人病院の設立を阻まれた日系一世の田代規矩雄医師の裁判―ジョーダン対田代(Jordan v. Tashiro)―においてライト氏とともに、田代医師の弁護も担当したことが知られています。1928年、彼とライト氏はワシントンDCの連邦最高裁判所において、「田代医師には病院を設立する権利が保障されている」という判決を勝ち取りました。

1931年には、加州毎日新聞社を創業、社長として自ら記事や社説を書き、日系社会に向けての情報発信という、重要な役割を担うようになりました。

日系一世の権利を勝ち取るための「闘い」や、加州毎日新聞社の経営を通して、彼はいわば、日系社会の人々のための「司令塔」的存在になったのです。

ちなみに、映画のタイトルである「リトル・トーキョー・レポーター」は、彼が加州毎日新聞社の創業者であったことが、ヒントになりました。

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ある日系人との出会いから ―その2/2

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台湾系日本人として

台湾にルーツをもつ日本人であるわたしは、良くも悪くも、単一民族という考え方が浸透している日本の社会においては、異質な存在です。

当時は、わたしの周囲において、エスニシティの多様性にたいして寛容の態度がとれる人は、皆無でした。わたし自身、みずからの異質性を常に警戒しなければなりませんでした。出来るだけそのような異質性を表に出さないための最善の努力が、常に要求されていたのです。小学生や中学生、さらに高校生にとっては、エスニシティのことも含めて、異質であるということは、イジメの対象でもあったのです。

そのような事情があったものですから、わたしは自然と、他者にたいする思いやりの精神を育むことができました。また、そのような事情があったからこそ、不思議な印象のあったタカキさんのことを忘れずにいることが出来たのだと、わたしは考えています。

日本で高校を卒業してから加州オレンジ郡のコミュニティ・カレッジに留学し、さらにはフラトンのカリフォルニア州立大学に編入して、ハンセン先生、イハラ先生、フジタ・ロニィ先生などの指導を受けて、わたしは日系人に関することを、たくさん学ぶことが出来ました。そして、永松先生のおかげで自分自身の研究を持つことが出来るようにもなりました。

わたし自身は、<日系人によって創られた>といっても、過言ではないのです。

ネットがもたらした奇跡

そして、この7年間に、さまざまな体験をしました。マンザナーへの実習、オレンジ郡でのオーラル・ヒストリー、MIS(米陸軍情報部員)として活躍した人々のオーラル・ヒストリー、そして、JAリビングレガシー(おもいでプロジェクト)の代表をつとめたり、鶴嶺湖(ツーリ・レーク)への巡礼の旅に参加したり、あるいは、FさんやHさんと交流したり、さまざまなことをやってきました。そのような状況のなかで、ほぼ忘れかけていたタカキさんの存在が気になりだしたのです。

もしかしたら、彼女はわたしのこと、いや、それ以前に日本で英語を教えていたことについて、多くを憶えていないのかもしれない、あるいは、その体験は彼女自身にとって、あまり重要なものではないのかもしれない。そのようなことを考えてしまって、わたしは不安になりました。わたしは何らかの不安を感じると、それが何日も続いてしまうのですが、インターネットによって、その不安が驚きと感動に変わったのです。

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数日前、わたしはフェイス・ブックを使って、彼女の名前を調べてみました。すると、わたしは彼女の名前を見つけたのです。そこには、ニコニコした黒髪の女性の写真がありました。わたしはすぐさま、彼女にメッセージを送りました。すると、彼女からすぐに返事がきました。彼女は結婚していて、3児の母親となっていました。そして現在も南加に住んでいることもわかりました。

彼女にとって、日本で英語を教えていたことは、彼女自身にとって有意義な思い出で、今でも、そのときに出会った人々と連絡をとりあっているとのことです。それを知ったとき、わたしは安堵を感じました。「ああ、良かったよ。こうやって、日本とのつながり維持してくださる日系人がいるなんて、ラッキーだよ」と。それと同時に、彼女は、わたしがどんな人物なのかを知りたいとのメッセージも残してくださったのです。とてつもない長い返信になってしまいましたが、わたしはこれまでの、自分の足跡を彼女に細かく伝えました。

タカキさんの問いかけ

それから数日後、彼女からのメッセージが届きました。どうやら、彼女にとって、日本で出会ったひとりの中学生が、アメリカに留学をして、日系史の勉強をしていたということは、意外なことでした。また、わたし自身が日系史を勉強していること、マンザナーへの実習をしていたことなどから、彼女自身の経歴についても、メッセージを書いてくださったのです。彼女は英語の補助教員という面だけではなく、日系人の戦時収容補償の実現を目指して運動した、NCRR(戦時収容補償・賠償連合)のメンバーとして活躍したという経歴もあったのです。なぜ、そのようなことを日本の中学生に話さなかったのでしょうか?それは、わたしにとっては、ひとつの謎です。日本の中学生には日系史を理解するための素地がなかった、ということだったのでしょうか。そうであれば、それは大変残念なことで、日本の歴史教育における課題であると、わたしは考えます。

また彼女は、わたしが彼女に出会ったことが、日系史の勉強をするようになったきっかけのひとつですか、という質問をされました。その質問への答えを探すべく、この文章を書いたのですが、いまのところ、これといった答えが見つかりません。わたし自身にとって、彼女と出会えたことは、わたし自身の将来を決めるうえで重要な出来事であったと理解しているのですが、それが日系史の勉強をするようになったことと、どのようにかかわっているのでしょうか?その答えが見つかったたとき、わたしはもうひとつ、日系史にかんする新しいことを学ぶのだと考えています。

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