Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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「消えた」総領事館

現在、羅府の日本総領事館は、小東京から数マイル離れたバンカー・ヒル地区のカリフォルニア・プラザという高層ビルのなかにありますが、かつては小東京のサン・ペドロ街と1番街の交差点にある、鹿島ビルの14階と15階にありました。鹿島ビルは1967年に日本の建設会社によってつくられたビルで、戦後の小東京を象徴する存在のひとつといってもよいでしょう。 [inline:kajima building.JPG] 今回は、小東京にあった総領事館がバンカー・ヒル地区に移転した経緯を紹介したいと思います。 日本政府が羅府の総領事館の移転を発表したのは、1990年代の初めの頃でした。政府は移転の理由について、総領事館の安全性確保を第一にあげ、それゆえに安全性の高い建物へ移転することが必要であると強調しました。これに関連して、1996年にペルーの日本大使公邸がテロリストの襲撃にあい、日本政府のみならず、フジモリ大統領(当時)率いるペルー政府をも巻きこみ、その鎮圧に約4ヶ月もかかったことを覚えている方もいらっしゃると思います。 この知らせはまもなく日系人社会に広まりました。しかし、日本政府は日系人社会を遠ざけようとしているという、極めてネガティヴな形で受けとめられました。移転を白紙に戻すように総領事館に熱心に働きかけた人々も少なくありませんでした。さらには、羅府からわざわざ日本の外務省に足を運び、陳…

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ヘイトスピーチ・ヘイトクライムを許すな!―9.11同時多発テロ事件後の日系人コミュニティ

第2次世界大戦前のアメリカ社会における反日感情と、それにともなう日系人にたいする大小さまざまな差別的待遇については、すでに周知のことだと思います。全米日系人博物館やマンザナー国定史跡資料館などでは、当時の反日感情や日系人差別のすさまじさを物語るいくつかの資料を目にすることができます。 [inline:taka1a.jpg] [inline:taka2.jpg] このような反日感情は、日米戦争による日系人の強制収容の原因となりました。戦時中みずからの人権や尊厳を著しく傷つけられた日系人は、戦後のリドレス活動をとおして、謝罪と補償というかたちでアメリカ政府の過ちを正すことに成功しましたが、それには40年以上もの月日を要しました。リドレス活動を成功に導いた日系人は、自らの経験をアメリカ社会に活きる人々に理解してもらうため、さまざまな教育活動を通して熱心に取りくむようになりました。 日系人の戦争体験を活かして民主主義や平和の大切さをアメリカ社会にうったえる活動は、2001年に大きな転機をむかえることなります。 2001年9月11日、いわゆる9.11同時多発テロ事件が起こりました。その直後から、中東・イスラム系の人々に対するヘイトスピーチやヘイトクライムがアメリカ社会のなかで多発しました。さらには、この事件を日本人による真珠湾襲撃と対比する人々や、それらを同一視する人々も出てきま…

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目玉先生、ニッポンを語る

今年の春、日本の高等学校で英語を教えていた若き日系人教師、ノーマン・ミキ・デザキ先生が、英語によるディスカッション授業のテーマのひとつとして、日本社会における差別問題を取り上げました。このときの授業内容をまとめた動画をインターネットに投稿したところ、「ネット右翼」とよばれるネット上で侮辱的な表現を用いて右翼的・保守的な発言・活動をする日本人から激しいバッシングにあったという出来事がありました。 デザキ先生は両親が新一世の日系二世で、フロリダ州で生まれ育ちました。アメリカで大学を卒業したのち、JETプログラムをとおして来日し、日本各地の学校で英語を教えるようになりました。英語のディスカッション授業のテーマとして、日本における差別問題を取り上げたのは、これからの日本社会を支えていく生徒たちが、さまざまな差別問題が日本にも存在しているのだということを認識することが、重要だと考えたからです。 ディスカッションをはじめるにあたり、デザキ先生は『Eye of the Storm』を上映しました。これは、小学校3年生に人種差別を体験させることで、人種差別とは何かを教えようとしたドキュメンタリー作品です。アメリカの教育現場では、差別感情がどのように形成されるのか、そして差別が社会にどのような影響をもたらすのかについて理解させるためのおなじみ教材となっています。 デザキ先生は、このビデオを見…

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「リトル・トーキョー・リポーター」封切後のアジア大洋州系コミュニティの反応と今後の展望 

高まる関心: 映画祭における数々の受賞 先日、わたしが「リトル・トーキョー・リポーター」のエグセクティブ・プロデューサーの藤田さんと電話で話をしたとき、彼女の映画が映画祭で高く評価されたと、とてもうれしそうに話してくれました。 [inline:LIttle Tokyo Reporter Poster.jpg] 第8回オレゴン州ディスオリエント・アジア系アメリカ人映画祭での「短編映画賞(Best Short Narrative)」 をかわぎりに、その後の映画祭で「短編映画賞(Best Narrative Short)」、「優秀作品賞(Outstanding Short Film)」などを受賞*しました。 私が最初に電話をした時点では、二つの賞を受賞しただけでしたが、これを書いている6月の時点で、すでに11もの賞を受賞したとの知らせが届いています。これらの受賞は、微力ながら映画製作に協力したわたしにとって、非常にうれしい知らせであったことは言うまでもありません。 しかし、これらの受賞に一番よろこんだのは、監督としてメガホンをとった陳さんでしょう。処女作であるにもかかわらず、これほど多くの賞を受賞できたことは、今後彼が映画界でのキャリアを歩むにあたり、非常に重要なステップであることは間違いありません。現在、彼は「リトル・トーキョー・リポーター」の上映で各地をまわりつつ、次の作品…

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あのときの少年たちはいずこへ ― 沖縄県系日系二世ピーター・オオタさんと沖縄の少年兵たち - その3/3

その2 >> その他の元鉄血勤皇隊の方々の今沖縄タイムスの本社において安里記者、安里さんらにインタビューをしたのち、わたしたちは琉球新報の本社を訪問して、内間記者とジャーナリストの上原正稔さんに会い、取材と写真撮影にのぞみました。その翌日、鉄血勤皇隊を調査するためにわたしが沖縄を訪問していることが朝刊に載りました。その記事を読んだ元鉄血勤皇隊の方々から連絡があり、わたしは彼らからさらに話を聞くことができました。しかし、短い訪問期間中に、彼ら全員とのインタビューの時間が取れず、わたしは計2度にわたり沖縄を訪問し、元鉄血勤皇隊の方々から当時の様子や今何をしていらっしゃるかなど、貴重なお話を聞かせてもらいました。 那覇市内に住んでいるNさんという方は、戦時中は、師範学校(沖縄師範学校)の学生でした。彼はエンジェル島に送られてはいないものの、長期にわたってハワイのホノルルに収容された経験をもっていることがわかりました。Nさんは、当時の戦争の様子を詳しく語ってくれました。 Nさんは戦後、教員の免許を取得したのちに、長らく沖縄県内の小学校の先生として活躍されました。また、彼はみずからがアメリカ軍の捕虜となったときに発行された書類を取得するために、アメリカを訪れたことがあったとのことです。 長年、県内の高等学校の先生として活躍されたTさんという方は、さきに挙げたNさんと同様に、戦時…

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