Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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マンザナーへ、そしてマンザナーから

第3回 「運命の扉」が開いた瞬間

生まれて初めてマンザナーを訪れてから約1年が経ちました。私はオレンジ・コースト大学を卒業後、カリフォルニア州フラトン市にあるにあるカリフォルニア州立大学に転学し、本格的に日系史の勉強を始めることになりました。当時、フラトンの大学では、オーラル・ヒストリーを通じた日系アメリカ人の歴史の研究で知られるアート・ハンセン先生が教鞭をとっており、先生のもとで勉強ができる機会を大切にしたいと私は考えていました。

フラトンの大学に通いはじめて数ヵ月後、学部の先生たちから、マンザナーの資料館で実習生を募集している、ということを私は知らされました。日系人の歴史を理解するにあたり、とても大切な経験になると思い、生まれて初めて英語で履歴書を用意し、私はすぐに応募しました。ハンセン先生をはじめとする学部の先生たちや、大学の国際教育交流事務所の職員のみなさんの手助けもあり、2005年の12月から2006年の1月にかけての4週間、私はマンザナーで実習生として働くことが決まりました。

2005年の12月19日の早朝、私はマンザナーに向けて車を走らせました。実は、このときがすでに3回目の訪問で、一分でも早く着きたい、そして色々なことを学びたい、という気持ちで私はハンドルを握っていました。そのせいか、普段は4時間かかるところが、3時間40分ほどでマンザナーに着きました。到着時間は朝の9時でした。私は資料館の扉を勢い良く開けました。ベートーベン風に言うならば、まさに「運命の扉」が大きく開いた瞬間でした。

資料館の建物に入るなり、「おはよう、あなたが郷さんですか」、と声をかけてくれた人がいました。国立公園局の職員であるキャリー・アンドレセンさんで、私のボス(上司)になる人でした。はじめに、彼女は資料館で働いている職員の皆様をひとりずつ紹介してくれたあと、これから4週間のあいだに行うことを私に説明してくれました。マンザナーでの私の主な仕事は、資料館に保管されている日本語で書かれた手紙の整理と翻訳、オーラル・ヒストリーの反訳作業、実地での研修、そして資料館内での接客を行うことでした。

仕事内容を確認したあと、彼女は実習生が宿泊する家に案内してくれました。そこは、マンザナーから車で10分ほど離れたインディペンデンスの町のなかにありました。白い平屋建ての家で、内部はとても綺麗でした。彼女が、私のために掃除をしてくださったのです。私はこれからの4週間を、そこで過ごすことになったのです。

私を宿泊先に案内してくれた後、彼女は隣にあるロン・パインの町に案内し、マンザナーが位置するカリフォルニア州のシエラ・ネヴァダ山脈、オーウエンス谷、そしてデス・ヴァレー(死の谷)の地理について詳しく説明してくれました。マンザナーでの実習の第一歩は、周辺の地域について理解することだったのです。それは、まるで学校で地理の授業を受けているような気分でした。

マンザナーはカリフォルニア州インヨー郡にあるロン・パインとインディペンデンスの間にあります。この2つの町は、あまり大きな地域ではありません。言葉は悪いのですが、「ど田舎」と表現するとわかりやすいでしょう。この地域に住んでいる人々は、買い物をするとき、映画を観るとき、そして病気になったときは50マイルほど北に離れたビショップ市に行くのです。ロン・パインには、美味しいピザのレストランをはじめとする数軒の飲食店、宿泊施設、ガソリンスタンドなどがありますが、インディペンデンスには、インヨー郡の事務所、裁判所、東カリフォルニア博物館、そして墓地と郵便局くらいしかありません。かつては、それなりに栄えた街だったようですが、今ではとても静かな街になってしまいました。ですから、マンザナーを訪問する際には、ガソリンスタンドや飲食店のある場所を確認したうえで、足を運ぶことをお勧めします。

実際、このような地域で生活したことのない私は、たった4週間という短い期間にもかかわらず、この不便さに大変苦労させられました。私のために用意された家はとても可愛いものでしたが、洗濯機が無いうえに、電話回線やテレビすらなかったのです。そのため、週末になると、洗濯や電子メールの確認のためにオレンジ郡まで戻り、ついでにそこで食料品の買出しをしてから、インディペンデンスに戻っていました。つまり、実習期間中は、都会と田舎を行ったり来たりするという生活をしていたのです。

さらに、私がマンザナーにいた時期は、気温が最も下がる時期でもありました。マンザナー周辺は砂漠気候のため、朝と昼、そして夏と冬の気温の差がとても激しいのです。朝は早めに起きて、出勤する30分前に車のエンジンをつけ、ぬるま湯で車についた霜や雪を払ったことは今でも鮮明に覚えています。そのような場所に、1万人を超える日系人が、自由を奪われて、数年間に渡って収容されたのです。それは、とてもいたたまれないことです。

マンザナーでの実習は、私自身に、「身(からだ)をもって」、日系史を学ぶ機会をもたらしてくれました。さらに、マンザナーで生活をすることによって、私は「日系人の視点」から日系史を理解することができるようになりました。日本でも、日系史を学習、研究する人々はいますが、その多くは、日本人の視点から、文献に頼って日系史を理解しようとします。日系人を理解すること、そして日系史を理解するためには、日系人の視点で日系人について考えることがとても重要です。私は、マンザナーでの実習を通して、日系人を理解する為の「重要なヒント」を得たのです。

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マンザナーへ、そしてマンザナーから

第2回 はじめてのマンザナー訪問

2004年の8月9日。この日、私は生まれて初めてマンザナーを訪れました。

朝の4時頃にオレンジ郡を出発し、数時間車を運転し、朝の9時少し前にマンザナーにたどり着きました。フリーウェイ14号線を運転しているときに見た、目が痛くなるような輝かしい朝日や、モハビ砂漠のなかにまるで置き去りにされたかのように保存されている使われなくなった飛行機の奇妙な光景は、今でもよく覚えています。

マンザナーに到着した時、私は目の疲れを少し感じていました。朝日がとても強かったのです。眼のなかにある視神経が焼かれてしまうような気分でした。そして、車から降りたとき、私を待ちかまえていたかのように、暑さが私の体全体を覆いました。サウナの中で我慢を強いられているような気分でした。周りにあるのは砂と山と道路だけ。その他には、何もありません。そんなところにマンザナーはつくられたのです。

私は、自分の視界を大きく広げながら、マンザナーの跡地を駐車場から資料館に向かって歩きはじめました。「よくもこんなところに罪の無い人々を閉じこめたな」、という怒りの感情が私の心の底から少しずつこみ上げてきました。日系人の歴史に、こんなにも残酷な時期があったということを、私は身をもって感じていました。それと同時に、戦時中の日本の指導者たちにとって、日系人たちはどうでもよい存在だったのかもしれないと考えはじめ、彼らに対する怒りも心の底からたくさんわき出てきました。

朝の9時になり、資料館の扉が開きました。私は資料館にある展示物のひとつひとつをくまなく、目を皿のようにして見て回りました。

まず初めに目にしたのは、資料館の入り口付近にある排斥に関する新聞記事や写真でした。「日本人お断り」、「日本人は国に帰れ」などという看板や、「日本人を排斥すべき」という主旨の新聞記事でした。それらは、生まれて初めて見た人種差別の証であり、私は大きな衝撃を受けました。また、悲しい気持ちと同時に、日本でこのようなことを学ぶ機会を持てなかったことに対する一種の悔しさを感じました。

さらに奥へすすみ、私は今まで学ぶことのなかったいろいろな歴史を知ることができました。特に、資料館の奥にあった一枚の写真を見たときは、驚きと悲しみ、そして怒りといったいろいろな感情で私の心はいっぱいになりました。その写真とは、星がひとつだけついた旗のかかったバラックの扉でした。バラックに収容された家族からアメリカ軍に従軍している若者がいることを示す印なのです。さらに、その展示の隣には、ひとりの青年の写真と、その青年の書いた手紙がありました。彼の名前はサダオ・ムネモリでした。彼は20代半ばにして自らの命をアメリカのために、そして多くの日系人のために犠牲にした人です。

アメリカの政府は、収容所を作ることで、10万人以上の日系人の自由と正義を奪いました。それにもかかわらず、アメリカ政府のために命を投げだした日系人が多くいたのです。日本人の視点で表現すると、「お国の為に」という感情が日系人の間にもあったのです。国家の為に命を犠牲にすることの重大さを、このとき初めて私は理解したのです。

その後、私は車でバラックや庭園などの各施設の跡や墓地を見学しました。戦争が終わって半世紀以上が経った今、人々が足を踏み入れることができ、日系人に対する差別や偏見が存在したことを生々しく感じとることができる場所はとても限られてます。実際に、その場に足を踏み入れることによって、アメリカという国にとって、マンザナーは隠したい過去のひとつであったことに私は気がつきました。

再び資料館に戻った後、私は国立公園局が編集した20分ほどの映像作品(Remembering Manzanar)を鑑賞しました。それは、マンザナーにいた数名の日系人の語りを交えながら、マンザナーがどのような場所であったかを手短に解説したものでした。あらためて、マンザナーが日系人にとって重要な歴史のひとコマであったこと、そして人種差別の悲惨さと平和のかけがえなさを私は思い知ったのです。

資料館の全てを見終わったころ、時間はちょうど正午をまわっていました。3時間以上かけて、私はマンザナーについて学べるだけ学びました。資料館の建物を出るとき、入り口にいた職員の方が、「あなたが今日、一番長い間ここにいたわよ」、と言ったことを私は今でもよく覚えています。私は、たくさんのことを短い間に学んだという一種の達成感を感じました。そして、「また訪れよう!」と私は心に強く誓いました。

マンザナーへの訪問を機に、私の人生は大きく変わっていきました。「日系人の歴史についてもっと学ぼう」、という意欲がわき出てきたのです。その1年半後、私はマンザナーの資料館で日本人として初めて実習生として働き、そして数年後には、JAリビングレガシーの活動に関わるようになったのです。

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JAリビングレガシー = 皆様の声のために

長い間、日系アメリカ人の歴史の研究は、第2次世界大戦時の戦時転住問題(強制収容所)や日系二世の第442部隊に重点が置かれてきました。そして、日系アメリカ人のが残した歴史の証言(オーラルヒストリー)もまた、それらに関するものがほとんでした。

しかしながら、日系アメリカ人の歴史はとても多様なものです。強制収容所のことや第442部隊以外の日系アメリカ人の歴史にも触れる必要があります。

JAリビングレガシーは「語られなかった」日系アメリカ人の歴史を、オーラルヒストリーによって解明させることを活動目的にしています。そして、そ れらの歴史を海外に発信するための活動も始め、昨年、日本事務所を設立しました。そして、太平洋をまたいだ「オーラルヒストリーのかけはし」の第一歩を踏 みだしたのです。これからのJAリビングレガシーの活動は「日本人のオーラルヒストリー」と「日系アメリカ人のオーラルヒストリー」の交換という「歴史的 な対話」の実現をめざします。

JAリビングレガシーが今までに関わってきたオーラルヒストリーには、朝鮮戦争に従軍した日系二世によるもの、カリフォルニア州オレンジ郡で農業を 営んできたミヤワキ一家のものなどがあります。また、日本国内では沖縄戦の際にアメリカ軍の捕虜となりベイエリアに浮かぶエンジェル島に移送された、沖縄 の少年兵のオーラルヒストリーなどを行ってきました。

日本人にとって、日系アメリカ人という存在は「縁がなさそうだが、実は意外と身近な存在」であると思います。多くの日本人がアメリカに移住したのは 戦前の数十年の間だったことを考えると、今の時代を生きる人々にとっては「ひいお爺ちゃんの頃のお話」になるのでしょう。そして、第2次世界大戦は日本人 だけではなく、海外の日系人にとっても大変な悪夢でした。(その歴史的背景により、先の大戦を人種戦争と評価する人々がいます。)そして、戦後、日系アメ リカ人は生活の建て直しに奔走し、日本人は焼け野原からの復興に必死になったのです。

私の主張は、日本人の歴史、そして日系アメリカ人の歴史は異なるようで、実は類似しているようなものだということです。そして、この二つの歴史を何 かで結ぶ必要があります。日本人にとっても日系人は重要な存在ですし、日系人にとっても日本人はかけがえのない存在です。そして、JAリビングレガシーは オーラルヒストリーによってお互いを結ぶために前進していきます。

昨年、私は日本国内に住むHさんを訪ねました。Hさんの親戚であるFさんはカリフォルニア在住の日系三世です。先の戦争のあいだ、Hさんは陸軍に招 集され中国大陸に送られました。そして、Fさんの家族はヒラの収容所に送られました。戦後、Fさんの祖母は日本国内にいるHさんの家族のことを大変心配 し、Hさんの家族あてに手紙を送りました。その手紙は中国から帰ってきたばかりのHさんのもとに届けられ、Hさんは大変驚いたそうです。その後、Fさんの 祖母はHさんの家族に衣類などを贈りました。それらは、当時の日本では高価なものだったそうです。1通の手紙が、太平洋をまたいだ、日本人と日系アメリカ 人の活発な交流に発展したのです。

そして、もうひとつ、このようなエピソードがありました。とある大学病院で薬剤師として勤務していたFさんは女性であることと、そして白人ではない ことを理由に昇進を拒否されていました。そこで、Fさんは友人らと共に職場での性差別と人種差別を撤廃するように民事訴訟をおこしたのです。裁判となれば その費用は膨大なものとなります。そのことを聞いたHさんは、自分の貯金をFさんに送金したのです。

HさんとFさんのエピソードは少し特殊なケースになるのかもしれません。しかし、このふたりの関係こそ、日本人と日系人が望んでいるものではないで しょうか。そして、JAリビングレガシーは、オーラルヒストリーを通じて日本人と日系人がお互いに手をつなぎあうことができるように活動をしてまいりま す。

JAリビングレガシーの活動に興味をもった皆様は、JAリビングレガシー(www.jalivinglegacy.org)まで連絡をお願いします。

e-mail: info@jalivinglegacy.org

参考:
パフィフィックシチズン(JACLの発行する新聞)より
www.pacificcitizen.org/content/2007/national/apr6-stom-legacy.htm

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マンザナーへ、そしてマンザナーから

第1回 「さらばマンザナー」から始まった私の長い旅

「さらばマンザナー(Farewell to Manzanar )」は、ジーン・ワカツキ・ヒューストンさんがマンザナー収容所 での自らの体験をもとに書いた小説です。後に歴史教育の一環として、カリフォルニア州の学校教材としても採用されました。この小説によって、多くのアメリ カ人が戦争中に日系アメリカ人が強制収容された事実を知ることになりました。

「さらばマンザナー」を読むまで、私自身、アメリカの日系人の歴史について知る機会がありませんでした。日本の歴史については関心がありましたが、 日系アメリカ人について知る機会があまりなかったのです。そんな私が、あるきっかけで「さらばマンザナー」を読んだことで、これからは日系アメリカ人の歴 史を一生懸命学ぼうと決めたのでした。

読んでいる時はその内容に驚かされることばかりでした。言葉を失うほどの悲しみに襲われることもありました。ジーンさんのお父さんはFBIに何ヶ月 も身柄を拘束されたために、ジーンさんはお父さんの不在のまま一家でマンザナーに収容されたのです。収容所で後に再会したとき、お父さんはやつれ果てた姿 で杖をついていました。FBIに拘束されていた間に不当な扱いを受けていたのです。

特に悲しい気持ちにさせられたのは、収容されていた人々がアメリカへの忠誠心を確認する目的で質問される場面です。質問にどのように答えるかという 議論で、収容所の人々が激しく争っていたことを知りました。収容されてもアメリカ政府を支持する人々、また奪われた人権を回復するために政府を支持しない 人々の間に亀裂が生じ、それはフレッド・タヤマさんへの暴行事件につながりました。タヤマさんは、政府への支持を表明するように働き掛けたので、反対派の 反感を買う結果になったのでした。「さらばマンザナー」の中では、生活面で有利になるだろうという考えで、ジーンさんのお父さんがアメリカ政府への支持を 訴えている時に喧嘩に巻き込まれ、ジーンさんがその場面を目撃してしまいます。

読み終えた後、戦争ほど残酷なものはないと私は思いました。戦争で一番被害を受けるのは一般市民です。平等と正義を美徳とするアメリカが、いとも簡 単に強制収容という手段に出たことにも怒りを感じました。さらに、戦争を仕掛けた当時の日本の指導者に憤りの気持ちも禁じ得ませんでした。もしも、日米戦 争がなければ、強制収容もなかったのではないか、と考えたからです。

マンザナーには、アメリカで生まれた日系人だけでなく、日本生まれの日本人も収容されていました。言い換えればマンザナーは日本人の歴史の一部でも あります。私は本気でマンザナーのことを知りたくなりました。百聞は一見に如かず、ということで現地に向かうことに決めました。この旅が、私自身の進むべ き将来を決めることになりました。日系アメリカ人の歴史を自分の身体で体験しようと誓いました。

次回は、初めてマンザナーを訪問した時のことを書きます。

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アメリカに正義を―NCJARの「討ち入り」

戦時中の日系アメリカ人の強制収容に対するレーガン大統領の公式な謝罪は、正義を求め続けた日系アメリカ人の長い戦いに区切りをつけました。

1975年、ササキ・ショウスケさんらによって、強制収容に対する賠償と補償を請求することを目的にSERC(シアトル強制収容賠償請求委員会)が 結成されました。発起人のひとりであるヘンリー・ミヤタケさんがシアトル計画を発案しました。シアトル計画とは、個人単位の一定額の賠償金と、強制収容さ れた期間に基づいて算出された補償金の獲得を目指すものです。SERCは早速、ロビー活動を開始しました。当時は多くの日系アメリカ人が賠償を勝ち取るこ とは叶わぬ夢だと考えていたため、地元シアトルでの支持を得ることさえままならぬ状況でしたが、まもなくシカゴの日系人社会がSERCの活動に興味を示し てきました。そして、シカゴで公民権運動に取り組むウィリアム・ミノル・ホーリさんを代表に、SERCはNCJAR(全米日系アメリカ人賠償および補償請 求委員会)に発展したのです。

NCJARは、シアトル計画を法制化するため、マイク・ローリー下院議員に法案化を依頼しました。しかし、新人議員だったローリー議員が議会内で影 響力を発揮できなかったため、廃案となりました。同時に日系の国会議員が、政府主導による公開の再調査によって賠償を勝ち取ることが最も有効な手段である と考えていたことも廃案に影響しました。

この結果、日系アメリカ人の正義を勝ち取る闘いは、日系の国会議員とJACL(全米日系アメリカ人市民連盟)が主導権を握ることになりました。

一方のNCJARは、ローリー法の廃案により、裁判によって国家賠償を勝ち取ろうと考えました。 ホーリさんら25人が原告となり、強制収容された 12万5千人の日系アメリカ人のために、27億ドルを請求することにしました。 このとき、ホーリさんたちは自分たちの裁判を忠臣蔵に見立て、「討ち入 り」と表現しました。 日系二世の政治活動家であったアイコ・ヨシナガ・ハージグさんと夫のジャック・ハージグさんが強制収容の史料をNCJARに提供、 弁護は辣腕として知られるエレン・カーソン・グッドベイさんらが担当しました。

1983年3月16日、ワシントンDC地裁のオバドーファー判事により、初審が開廷しました。NCJARは、最初に日系アメリカ人に対する人権侵害 に関わる22におよぶ事実を並べました。判事は、1949年に政府は強制収容に対する損害賠償に応じていることと、時効を理由に反論しましたが、 NCJARは国家の過ちに時効はないうえ、1949年の救済措置は精神的な損害に対して何ら有効でないと強い姿勢で訴えました。しかし、オバドーファー判 事は、NCJARの訴えを却下しました。27億ドルもの賠償金を支払うことは許容範囲を超えたリスクを負うことであり、それは政府への脅威を意味すると判 断したのです。その後、1987年の最高裁でNCJARの敗訴が確定しました。

NCJAR対アメリカ合衆国との闘いの裏では、政府主導による公開再調査と、JACL主導による賠償請求運動により、日系アメリカ人は政府からの公 式謝罪と賠償金の支給を勝ち取りました。さらに、政府はNCJARに対して賠償金の即時支払いを条件に賠償請求の取り下げを要求しましたが、NCJARは これを拒否、1989年に活動を停止して解散に至りました。政府の提案を受け入れることはNCJARにとって無条件降伏を意味したからです。

ホーリさんは後にNCJARの目的はアメリカに正義が存在することを証明するためであり、政府を脅かす意図はなかったと主張しました。JACLによ る日系アメリカ人救済を目的とした活動とは異なり、NCJARはアメリカが正義を尊重する国家であることを証明したかったのです。敗訴という結果に終わっ ても、アメリカがこの裁判を通じて正義の大切を学ぶ機会を得たことは確かです。また、NCJARの裁判が政府の公式謝罪と賠償金の支給の決定を早めさせた ものも事実です。政府は裁判に敗訴して大恥をかくことよりも、大統領の公式謝罪を行うことで面子を保つほうが有利だと判断したのです。

NCJARの「討ち入り」が成功したのか、失敗したのかは個々の歴史認識に委ねられます。しかし、NCJARが日系アメリカ人の歴史を素材として、アメリカ政府に正義の大切さを再確認させたことは確かだと言えるでしょう。

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