Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)など。翻訳に日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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国力が弱まった今こそ情報発信力を高めよ:日系社会との連携が1つのポイント - その2

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アニメ、ドラマは健闘しているが・・・

日本からの発信力が高まっている例としては、アニメやドラマなどのテレビ放送を挙げる。日本のテレビ番組の輸出額は2010年度62.5億円で、内容別に見ると、最も多いのはアニメ(47%)で、次いでバラエティー、ドラマ、スポーツなどとなっている。

輸出先は、アジアが50%で、ついで北米(25%)、ヨーロッパ(20%)となっている。日本におけるテレビ番組の輸出入バランス(時間)は、「輸入:輸出」の割合が、1980~81年は「1:2」だったのが、92~93年は「1:8」、さらに2001~02年は「1:14」と大幅に輸出超過だ。

ただし、韓国の場合は、2012年前半のポップカルチャー(映画、TV、ラジオ番組、音楽)の輸出額は1億4000万ドル(約110億円)と、日本の2倍以上という(KBS Worldより)。

アニメ以外にももちろん日本が世界に胸を張って発信できるものはあるが、その発信力がいま問われているというのが赤阪氏の主張だ。FPCJとしては、ジャパン・ブランドをはじめとした日本の魅力や強みについての素材を外国のプレスに提供。彼らに対するプレス・ブリーフィングやプレス・ツアーといった取材への協力を行っている。

しかし、もっと国を挙げての対策が必要だという。そのための具体的な提言としては、1つは、メディアから海外に向けた言語の多角化。海外向けでは、FPCJやNHKWorld、JapanPortal(共同)といったメディアがあり、ニッポンドットコムのように多言語で発信しているものもあるが、より多くのメディアの多言語化を進める必要がある。

このほか、「日本再生戦略の具体的実施-予算の配備」、「外国特派員へのアクセス改善-記者クラブの開放化」、「新聞大会のテーマとして『ニュースの海外発信の強化策』」、「日系報道関係者を含む『海外情報発信者会議』の開催」、「情報省」のような機関の設置の検討を挙げている。

軽んじていた日系社会の影響力

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このなかで、日系報道関係者に協力を得る点については、これまでの日系社会に対する姿勢への反省がある。

「従来から、日本においては、海外の日系社会を日本情報の重要な発信者と見る認識は薄かったのではないか。日系社会の影響力を正当に評価してこなかったのではないか。日系社会に日本を発信する役割をになってもらったらどうだろう」と、赤阪氏は考える。

今日のように、これだけ海外に日本人が進出し、日系のコミュニティーができあがっていても、日本から駐在などで海外にいる期間限定滞在の日本人が日系社会とあまり交流を持たないというのはよく聞く話だ。

以前、本誌で紹介した全米で最も成功した日系スーパー、宇和島屋のトミオ・モリグチ会長(日系2世)が、「日本の会社の人は日系人にもっとアドバイスを求めたらいいのに」というように、日系社会は積極的に“活用”されていないようだ。

一般に日本社会は同族意識がつよく、それは国家単位だけでなく企業や学校といった組織やグループ単位でも、構成員個人の帰属意識が強い。反対に、組織やグループを離れたものに対しては、差別的な扱いをすることが少なくない。

故郷を離れたものに「故郷を捨てた」とか、会社を辞めたものに「会社にケチをつけた」などということもある。同様に、移民などのように海外に出た日本人に対しても、これまで偏見がなかったといえば嘘になるだろう。

日本の底力を海外の日本語メディアが伝えている

海外の日系メディアをみると、戦前からの移民社会から生まれた邦人紙のなかには、世代の移り変わりの中で役目を終え、廃刊したものもいくつかある。が、その一方で、情報誌の形をとって、新たにインターネットと紙媒体で展開しているメディアが各地で誕生している。

いずれにしても、扱うニュースととらえ方に違いこそあれ、現地と日本の情報を日本語で伝えることは、現地の日本人にとって有用であるのはもちろん、日本の日本人にとっても有用である。

東京を本拠地とする大手の日本のメディアが東京からの視点で、国内の読者だけを意識して送る海外の情報とはちがった、現地の日本人の視点によってより細かな情報が提供される。これら海外における日本が関わることへの理解が進むことによって、海外でいまなにが求められているかがわかる。

一例をあげれば、ブラジル、サンパウロを拠点とするニッケイ新聞に、先日日本でネイル・デザインを学んだ日系人女性がブラジルで高い評価を受けてビジネスとしても成功しているというニュースがあった。

これらは改めて日本人のもつ繊細さや美意識が国際的に評価されるということを教えてくれた例だろう。

仕事や作品における高品質な技術、経営におけるマネジメント能力など“よき日本”はしばしばこうしたメディアからうかがうことができる。

また、こうしたメディアはほとんどが日本語だが、日本に関心をもつ現地の人や日系人を通じて日本の情報が現地に伝わっているほか、アメリカでは英語記事も併用している新聞もあり日本への理解に貢献している。

これまでは日系社会、日系メディアに対する認識が低く、これらと連携を図ることができなかった。赤阪氏は、「伝統的な価値観、美徳、文化」など日本の持つ底力を発信するためにも日系社会との連携の重要性を強調する。


* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年11月21日掲載)からの転載です。

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国力が弱まった今こそ情報発信力を高めよ:日系社会との連携が1つのポイント - その1

あまり一般には知られていないが、毎年秋、海外日系人大会(主催:公益財団法人海外日系人協会)が都心で開かれている。各国の実情を報告し合い、国際交流、国際理解を深めることを目的に世界各地の日系人が集まる。

その大会に関連して海外における日本語新聞など日本語メディアの関係者が集まる海外日系新聞放送大会も毎年開かれている。

海外にあってその国に在住する日本人に向けて日本語で情報を発信するというユニークなこれらのメディアは、東京に本社を置く大メディアとは違った視点や目的から情報を発信している。

このなかには戦前の移民社会のなかから生まれた古いメディアもあれば、生活情報などに主眼を置いたメディアもあり、紙という媒体から電波、ウェブとその形態も多様化している。

もともとは現地の読者、視聴者に対象を特化していたこうしたメディアもインターネットの普及によって、世界中の日本語を解する人に向けて、ローカルなニュースをグローバルに発信することが可能になった。

一方、これらは日本の情報をさまざまな地域で広めるという役割を果たしている。また、言葉は日本語だが、現地の日系社会などをを通して現地の人々、とりわけ日本に親しみを寄せる外国人に役立っている。

昨年の大震災のときには、海外の日系社会、日本人社会から多くの激励や援助が届いたが、こうしたメディアが情報や支援の窓口になったこともある。結果として、改めて海外の日系社会の広がりを認識することになった。

在米日本人留学生は激減するなど国力が衰退

こうした海外での日系の力に反して、残念ながら日本の国力が衰退していることは否めない。ならばいまこそ「日系社会との連携を図ること」を通して日本のよさを世界に発信する必要がある、という講演が、海外日系新聞放送協会で行われた。

講演したのは、公益財団法人フォーリン・プレス・センター(FPCJ)理事長、赤阪清孝氏。FPCJは、日本新聞協会と経団連の共同出資により1976年に設立。外国メディアの日本取材や、日本から外国へのメディアを通じた情報発信を支援を使命としてきた。赤阪氏自身はブラジル、サンパウロで日本国総領事の職歴をもつ。

講演では、国の置かれた厳しい状況を確認したうえで、本来の自国の強みを十分外に向かって発揮できていないという観点から「日本からもっと世界に向けた情報発信を」というテーマで赤阪氏が訴えた。

以下、同氏の講演内容を提供された資料をもとに、若干の説明を加えながら紹介したい。

まず、「国力の勢い」について、人口、国内総生産(GDP)、政府開発援助(ODA)予算、国連への分担金、海外留学生の数などを例にとって、主要国と比較したときの低下を説明する。

海外留学生については、さきごろアメリカ国際教育研究所(IIE)による報告書から日本のメディアが紹介している。それによると、2011年秋から12年春までの学期でアメリカの大学・大学院で学ぶ日本人学生は前年から6%減って約1万9900人で、1990年代後半と比べると半分以下になった。一方、中国留学生の数は約19万人にのぼるという。

「過去十数年間で日本のアメリカにおける留学生の数はずっと下がっている。若者の内向きな面の表れかもしれない」と赤阪氏は言う。

外国のメディアは去り、日本のメディアは閉鎖的

つぎに政府広報予算については、2006年度は100億円だったのが12年度は43億円と半分以下になっている。さらに「日本への関心」という点でいくつかデータを挙げている。

外国人から見た日本への関心が減少していると推測される事例だ。例えば、在日外国記者登録証の保持者と機関の数を見ると、1991年は保持者515人、機関337だったのが、2012年はそれぞれ309人、189とかなり減少している。

これは国際的にみて、ビジネスとしてのメディア界の力の衰えもあるだろうが、北京在住メディアの数を見ると、2004年は210社だったのが11年には356社と急増している。

記者数の減少とともに日本関連報道の件数も長期低落傾向を示している。

欧米主要4メディア(ニューヨークタイムズ、ワシントン・ポスト、ウォールストリート・ジャーナル、ロイター通信)の報道数をみると、昨年は東北大震災の関係で日本関連が前年から急増したが、過去十年ほどを見ると、中国関連が増加しているのに対して、日本関連は、横ばいあるいは減少傾向にある。

こうした現状を踏まえて、赤阪氏はつぎに「日本からの情報発信」について触れ、まず「政治、経済、社会、文化などに関する海外向け報道のための日本の努力は、米、英、仏、独、中国などに比べて十分でない」と結論。「受信能力には優れているが、発信能力には必ずしも強くない多くの日本人」という榊原英資氏の言葉を引き合いに出す。

日本のメディア自体のあり方についても、マーティン・ファクラー(ニューヨーク・タイムズ東京支局長)の言葉を紹介し、その閉鎖性を示唆している。

「日本の記者クラブからは、これまで幾度となく取材の“ジャマ”をされてきた」、「記者会見を密室に閉じ込めようとした当事者が、体制側でなく日本のジャーナリスト本人だったというのだから暗澹たる気分になる。いったい日本の記者クラブメディアは、だれのために存在しているのか」・・・。

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* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年11月21日掲載)からの転載です。

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戦時中の米国、中国系少年と日系少女の悲恋ベストセラー「あの日、パナマホテルで」から読み取るものは ― その2

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多様な登場人物と効果的なジャズ

そんなとき、長い間閉鎖されていたパナマホテルの変化に出合う。オーナーが代わり長年保管され忘れられていた日系人の家族の荷物が発見されたのだ。そこにはケイコにつながる2人の思い出のものがあるかもしれなかった。

それは見つかった。過去が蘇り、いまの自分との距離を徐々に埋めていき、最後は過去をいまのなかに生かしていく。

物語は、「戦時中の日系人が置かれた状況」という重たい背景もあるが、一方で公私ともに第一線を離れ少し虚ろな中高年が、過去を振り返るという普通のノスタルジーが全編に漂う。久しぶりの同窓会で、思い出のだれかと出会い、昔の自分と向き合ったとき、そこには一抹の感傷がある。そういうメランコリックな要素もこの作品は十分備えている。

また、登場人物として、ちょっと荒っぽいがなにげなく2人を助ける、学校のカフェテリアで働く白人女性のミセス・ビーティ、ヘンリーが心を許す黒人のジャズサックス奏者のシェルドンもいい“味付け”になっている。

さらに、ジャズという、日本や中国と直接関わりがなく、また白人のものとは言えない音楽がアクセントになっているところがいい。登場人物も多様なら、こうした構成と配慮も物語に幅を持たせている。

知識や情報では得られない、物語の持つ力が・・・

作者のジェイミー・フォードは、曾祖父が中国からアメリカに移住した中国系のアメリカ人で、12歳まではオレゴン州で育った。そのときの親しい友人が日系人で、その父親が有名な日系アメリカ人の詩人、ローソン・フサオ・イナダだった。彼は収容所体験があり、フォードの最初の原稿に目を通してくれたという。

この学校のなかで彼は唯一の中国系で、親友が日系人だったという点では、小説のなかのヘンリーは作者自身と一部重なるところがある。

アメリカの世論の中には戦時中の日系人の隔離政策は必要だったという意見もあるが、こうした政治的な部分や社会問題には作者としては踏み込まず、ラブストーリーであり家族の物語として書いた。もちろん戦争を軸とした歴史的な背景があってこその物語である。

しかし、逆に言えば、個人の物語を描き内面を探ることによって、反射的に対立や差別の空しさを知り、乗り越える力を暗に示してくれる。

日本版での翻訳にあたった鳴門教育大学の前田一平教授はこう語る。

「この作品を通して、民族や国家を超えて、人々が理解し合ったり、助け合うことの意味を感じる。知識や情報だけでなく、物語を読むことによって理解すること、言うならば“物語の力”です」

国家間、民族間の対立や紛争が引き起こす問題について、物語だからこそ描き、追究できるものがあるのだろう。

ハリウッドは「主人公を白人に置き換えるなら映画化に」

ところで、国家間や民族間の事情によって苦悩する男女・家族関係やアイデンティティの問題を扱った小説はいくつもある。太平洋戦争中のアメリカを舞台にした同種の物語では、比較的新しい作品としては「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)が思い出される。

デイヴィッド・グターソン(David Guterson)が書いたこの小説は、戦争によって引き裂かれた日系人女性と白人男性の悲恋と、差別・偏見を超える力を、史実をベースに殺人事件をからめてミステリアスに描く。日本でも『殺人容疑』の訳題で出版された。

1995年のペン/フォークナー賞を受賞したこの小説は、アメリカで400万部以上を売り、のちに映画化された。ヒロインの日系人女性を工藤夕貴が演じている。

ベストセラーになった「あの日、パナマホテルで」も、ハリウッド映画業界から映画化の話があった。しかしその際、主人公の1人を原作とは異なり白人にするという意見が出た。いかにもより一般受けを狙うハリウッドらしい発想だが、これに対して作者のフォードは、小説の世界が壊されるとして反対したという。

最後に、この小説で思い出の象徴として扱われたパナマホテル(Panama Hotel)について触れたい。

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いまも、シアトルのインターナショナル・ディストリクトと呼ばれる旧日本人町の一角にそのホテルはある。

1910年に日本人建築家によって建てられ、多くの日本からの移民たちを受け入れてきた。

そして戦争が始まり、日系人が収容所へ入るためほとんどの財産を手放さなければならなくなったとき、このホテルにいくつかの荷物が預けられた。

1950年、引き取り手のない荷物はそのままにホテルは閉まったが、86年にシアトル在住のアーティストで、ジャン・ジョンソンというスカンジナビア系の白人女性がこれを買い取り、日系移民の文化を歴史的な遺産と考えてホテルを再開した。

ホテルの1階はアジアンテイストのカフェになっていて、同時に当時の日本町の様子を表す写真や日系移民にまつわるさまざまなものを展示している。

時代を感じさせる落ち着いたこのカフェを私も何度か訪れ、一度は興味本位で宿泊したこともある。この夏立ち寄ったときは、日系2世の著名な芸術家、ロジャー・シモムラが独りテーブルについていた。ジェイミー・フォードがこのホテルに想像力を喚起され、物語を膨らませたのがよく分かる。

(敬称略)

* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年10月30日掲載)からの転載です。

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戦時中の米国、中国系少年と日系少女の悲恋ベストセラー「あの日、パナマホテルで」から読み取るものは ― その1

日中関係が険悪になり、なんとか事態が改善の方向へ進まないかと最も気をもんでいるのは、中国在住の日本人と日本に在住の中国人ではないだろうか。なかでも、日本人と中国人のカップルはその思いを強くしているだろう。

世界中のほとんどの国の人間が国境を越えて移動し、異なった国や民族の人間同士が結婚し、新しい世代がつぎつぎに誕生している。日中間に限らず、国家間の紛争や民族対立が激化すると、こうした人たちは宿命的に辛い思いをする。

もちろんそれはいつの時代にもあることで、例えば9.11以後のアメリカでは、アラブ系やイスラム教の人たちとそれ以外の人たちのカップルは同様の思いをした。

こうした複雑な状況に置かれた個人の営みが、国家間の事情で壊されそうになるとき、人々は何をどう考え、生きていくのか。これらは文学のテーマとしても扱われてきたし、これらを背景とした物語や映画も少なくない。

その種の小説の中で、近年アメリカで大ベストセラーになったのが、ジェイミー・フォード(Jamie Ford)が書いた『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet』だ。

日本でも昨年末に『あの日、パナマホテルで』(前田一平訳、集英社文庫)というタイトルで出版された。日本版は現在約18000部だが、2009年の出版以来、世界の32カ国で翻訳され、本国では100万部を突破している。

シアトルで舞台化され、好評を得る

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戦争と家族の事情によって、結ばれることがなかった幼い恋。その甘酸っぱくも苦い思い出を、数十年の時を経て振り返りながら、過去を修復し前へ進もうとする人間の姿が描かれる。

特殊な時代と環境を背景にして、切ないなかにもほのぼのとした情感が多くの人の心をとらえたのだろう。

作品の舞台となったワシントン州シアトルでは、このほど日系人俳優などによってこの小説が舞台化され、好評により当初の開演期間を延長して上演されている(Book-It Repertory Theatre)。

また、物語のなかで象徴的な役割を果たし、いまも実在するレトロなパナマホテルをはじめ、小説のなかの現場を訪ねる人も多いという。

時代は太平洋戦争が始まった頃とそれから四十数年経った1986年。2つの時代を行き来しながら物語は進んでいく。シアトルは古くから日本人移民が多く、日本人町が出来上がるほどコミュニティーがまとまっていた。このあたりの様子は永井荷風の『あめりか物語』を読むとよく分かる。

一方、中国からの移民も多く、日本人町と接してチャイナタウンが出来上がっていた。主人公のヘンリーは中国系アメリカ人2世の少年。父親は中国で日本軍と戦う国民党軍を援助するためにシアトルにいながらその資金を集めている。頑迷なほどの祖国への愛と日本への憎悪がある。

その理由が本書のなかでこうつづられている。

「アメリカの戦艦アリゾナ号を爆撃したからではない。四年も続けて重慶を爆撃しているからだ。ヘンリーの父親は重慶に行ったことはなかったが、蒋介石が作ったこの臨時の首都が、すでに歴史上もっとも爆撃を受けた都市になっていることを知っているからだ」(前田一平訳)

運命と愛情による作為が人生を変えるが・・・

父親の日本への敵愾心はアメリカにいる日系人にも向けられる。しかし、皮肉にも息子のヘンリーは、日系人少女ケイコと仲良くなる。

彼らはそれぞれ中国系と日系の子供が多く通う学校ではなく、白人ばかりの学校へ通っていた。そこで2人は、白人の同級生からいじめられ差別される者同士でもあった。

ケイコの両親はケイコをアメリカ人として育てようとし、ヘンリーに対してもやさしく寛容をもって接する。一方ヘンリーの父親は息子に一度は中国で教育体験をさせようと考えている。

ヘンリーは、英語を理解しない、国粋主義的な父親とうまくコミュニケーションが取れない。その上日系人であるが故にケイコと関わることに反対する父親への反発は強まる。

2人は惹かれ合うが“パールハーバー”ののち、日系人はそれまでの住まいを離れて集団収容され、ケイコの一家も遠くアイダホの収容所へ行く。再会を誓い合いヘンリーは手紙を送り続けるが、なぜかその返事は途絶えてしまう。

いったいどうしてなのか。そこから先は作品を追っていただきたいが、運命と愛情による作為が人生を変えていく。しかし、それを悲劇としてだけとらえず、心の中で消化して前に進む主人公たち。

やがてヘンリーは別の女性と結婚して息子をもうける。そして数十年がたち長年患った妻を見取り会社もリタイアし空虚な日々を送る。妻の死の前後から息子とはいまひとつうまくコミュニケーションができないことに、かつての自分の父親との関係を思い出す。

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* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年10月30日掲載)からの転載です。

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もっと日系の意見を聞いてくれればいいのにシアトルの日系スーパー、宇和島屋・モリグチ会長 - その2

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日本人からアメリカ人になっていく不思議さ

――明治時代から多くの日本人が移民として海外に出ましたが、同じ頃日本の地方から多くの人が東京などの都市に出ていきました。たまたま向かった先が国内か海外という違いが、後の世代にとっては非常に大きな違いになりますね。

モリグチ:  最初にひとつ違うのは、アメリカに来た人は、いつかお金を儲けて日本に帰ろうと思っていたのがほとんどでしょう。でも、目的地が東京だったら田舎に帰らないのでは。私の父親の富士松も当初は日本に帰る予定でした。

彼は長男だったし少しは土地も持っていたから、長いことずっとそう思っていたはずです。しかし、亡くなる1年前に孫ができました。すると驚いたことにこちらで墓を買いました。そして市民権を取って、さらに妹の娘に土地をあげたんですね。以前から考えていたんでしょうが、孫ができたのはグッドエクスキューズ(いい言い訳)だった。

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――先ほどの話に戻れば、故郷を離れた人の移住先が日本国内かアメリカかでは、その次の世代が日本人であり続けるのか、アメリカ人になっていくのかという大きな違いが生じるわけです。そういう不思議さを考えたことはありますか。 

モリグチ:  確かに不思議ですね。もし私の親父が(故郷の愛媛県を出て)アメリカではなく東京に行っていたら、僕も毎年お盆なんかは四国に行ったんだろうね(笑)

――2世のなかには日本に行ったこともないという人がけっこういるようですが、自分たちのルーツには興味はないのでしょうか。

モリグチ:  日本に行っていない人が多いですね。2世はルーツに対する興味はそれほどなかった。戦争が終わって日本との関係を持ちたくないという複雑な気持ちがあったんでしょう。僕の友だちの2世は日本語をあまり話さなかった。1世とはほとんどコミュニケ-ションができなかった。

戦争が終わっていやいや帰った人もいますが、みんな苦労しています。成功して帰った人もいるけれど、帰って何もなくて辛い思いをした人が多かったです。

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数は減っても留学生はみな優秀です

――日本はこのところ混乱しているし、元気がないように見えるでしょうか。日本からの留学生も減っていますね。

モリグチ:  確かに考え方が縮んでいるように見えます。でも留学生は数は減っているかもしれませんが、来ている人はみな優秀です。北米報知で活動するインターンの若い人をみても頭もいい。昔のインターンは仕事をしたくないという人もいましたが、いまはみんなポジティブでまじめです。将来は明るいでしょう。

――最後にアメリカのいいところはどんなところでしょう。

モリグチ:  日本は会社に入っても、出身学校などでまとまったりするけれど、アメリカはどこから来てもすぐに人と人が交わる。アメリカ人は興味が一緒だとすぐに話ができる。お金を持っているとかどこの学校へ行ったとかはあまり関係ないですね。

「僕は大学へは行っていないんだ」なんてみんな平気で話す。パーソナルインタレストが同じなら話ができる。日本人はそういう点まだ遠慮があるんじゃないですか。飛行機なんか乗ると、アメリカ人は10分もすると、隣の人が“どこから来たの?”とか話しかけてくるけれど、日本人は3時間乗ってても何も話ができない、なんていうことがありますね。(笑)

* * *

トミオ・モリグチ(森口富雄)

宇和島屋取締役会長。シアトル出身の日系2世。1961年ワシントン大学機械工学科卒。父親の富士松氏は愛媛県八幡浜町(現八幡浜市)からワシントン州タコマへ移民、日本食品を扱う店を開く。そのあとを継いで62年から宇和島屋の経営に関わる。邦字紙、北米報知の発行人をはじめ、日系コンサーンズ理事、全米日系人博物館理事、アメリカ国家に貢献した日系アメリカ人の歴史を語り継ぐ National Japanese American Memorial Foundation の理事などを務める。長年にわたりシアトル社会で数多くの事業チャリティーやボランティア活動で表彰を受ける。妻は中国出身。日系人の前妻の間に1男1女と3人の孫がいる。2005年には日本政府から対日理解促進と日系福祉向上の功績で旭日小綬章を受賞。


* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年7月31日掲載)からの転載です。

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