Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)など。翻訳に日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その2

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戦争による危機を超えて

最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。

コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店などを開いたりすることはなかった。

こうして発展していったコロニーでは1940年には、69の日本人家族が、3700エーカー以上を耕作していたという。太平洋戦争が勃発したのちは、彼らは強制収容所に送られるが、その間所有地の管理を契約して第三者に任せることができた。

戦後もコロニーはそのまま残り、リヴィングストン農業組合(Livingston Farmers Association)を中心に農業経営が協同で続けられてきた。

農業を中心に町の発展に貢献し、白人社会と積極的に融合を図りながら、地域に溶け込んできたのがヤマトコロニーだ。時代の流れの中で農地が宅地として売却されたり、世代の交代とともに自ら農業に従事する日系人はここでも減っている。

しかし、アメリカでの多くの日系移民が当初は農業に従事しながらも、2世、3世の代になると農業から離れていくなかでは、日系人がつくった農業の共同体が形を残しているのは珍しいだろう。

日本人、日系人による開拓の歴史

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ミュージアムの内部に目を向けよう。館内には、ヤマトコロニーをとらえたさまざまな写真が時代を追って展示されている。一面沙漠のように広がる大地に立つ入植者たち。なにもなかったところに作物を植えようという初期の光景だろう。馬を使っての耕作の様子、トラクターに燃料を補給する女性の逞しい姿をとらえたものもある。

やがてや野菜も実り、入植後に植えた木が人の背丈ほどになっている。収穫した作物を箱詰めする場所であるパッキングハウスは、協同運営の象徴だ。

当初住居だったものを教会に変えたという木造家屋。2階建ての瀟洒な家も見られる。写真は、人々の生活の様子もとらえている。コロニーの子供たちが学校の前で並んでいる。屋外で大きなテーブルを囲んでのピクニックのほか、結婚式もあれば、和服に身を包んで三味線に合わせた踊りの姿も。

戦争が始まると、コロニーの人たちは、数ある収容所のなかでコロラド州にあるアマチという収容所に送られる。列車で移送される時の写真をはじめ、かまぼこのように立ち並ぶ所内の“宿舎”。そのなかで結成された野球チームの集合写真。

そして、彼らの中から何人もが戦地に赴いた。このうち、ヨーロッパ戦線で活躍した442部隊の一員として戦死した若い2世の肖像が並んでいる。

ヤマトロードと小学校

ある新聞記事が展示されていた。それは、地元の小学校に「ヤマトコロニー」という名称をつけることが決まったことに関するニュースだった。

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安孫子久太郎の写真を添えて書かれた記事は、この学校が建つ場所が、もともと安孫子が購入した土地であることや、リヴィングストン地域の教育に対して日本人のコロニーが多大の貢献をなしたことを示していた。

その小学校は、ミュージアムからそう遠くない長閑な場所にあった。「Yamato Colony Elementary」という看板が入り口に掲げられ、広々とした敷地に付設の幼稚園と並んで平屋の教室が建っている。

事前に連絡を取り学校内を見学させてもらった。学校の歴史や地域に詳しいキャシー・バークレーさんは、ヤマトコロニーという名称の由来についてこう話す。

「この学校を建てるときに、日系のなかで地元のキシ・ファミリーが地域へ大きな貢献をしてくれたので、ヤマトコロニーという名前をつけたようです」

学校から帰る子供たちを見ていると、インド系と思われる顔つきが目についた。実際は、全校児童568人のうち、メキシコなどヒスパニックが約8割、アジア・太平洋諸国からが12%、白人5%、そしてアメリカンインディアンや黒人はそれぞれ1%となっている。

かつて日系の子供たちが多かったこの地域で、いまは日系でこの学校に通っている児童はいないようだ。しかし、アーモンドやサツマイモ畑になっている周辺一帯には、100年以上前に入植した日本人の子孫たちがいる。

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そのひとり、バークレーさんが名前を挙げたキシ・ファミリーの一人、シャーマン・キシさんを訪ねた。最初に入植した貴志太次郎の親戚である。現在キシさんは、姪とその夫をパートナーとして農業を続けている。入植以来キシ家としてはさまざまな作物を栽培してきたが、現在は200エーカーでアーモンドを、140エーカーでサツマイモを栽培している。

キシさんの父親は和歌山県出身だった。「父は故郷を離れて日本の軍人になろうとしたのだけれど、耳が遠くてなれなかった。それで本人としては故郷に帰りづらかったようで、アメリカに渡ってしまった」という。詳しいことについては、父親からは聞いたことがなかった。

入植直後の1906年には、サンフランシスコで大地震が起き、そこからこちらへ逃れてきた来た日本人の家族連れも5~6世帯いたという。地元では白人社会とうまくつきあってきたが、増える日本人入植者への反発はあり、少なからず偏見もあった。戦争が始まると、日系人の家にはライフル弾が撃ち込まれることもあった。

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キシさんは戦時中は、MIS(陸軍情報部)に所属し、通訳として従軍、日本にも駐留したことがある。

キシさんとしばらく話したあとで、ヤマトコロニーなるものはすでになくなっていると、錯覚していた私は、「ヤマトコロニーはいつまで続いていたんですか」と、尋ねた。すると88歳になる彼は、

「いや、いまもあるよ、ヤマトコロニーは。ここはとてもまとまった農業組合があって、いまも当初のコロニーの関係者は60~70人いて、農地を所有している・・・この先にはヤマトという名の道もあるよ」と、力強く言う。もちろん過去のような日系人によるコミュニティーとしてのコロニーはないが、地域として存続しているようだ。

夕方になり、この日のうちにサンフランシスコまで車で戻らなければならなかった私は、キシさん夫妻に取材の礼を言っておいとました。するとキシさんが「まっすぐ行って二つ目に交わるところがヤマトロードだよ」と、手振りで案内してくれた。

すれ違う車もないコロニーの中の“農道”を少し進むと、なるほど十字路に「YAMATO」と書かれた小さな標識が立っていた。

※参考:『カリフォルニア移民物語』(佐渡拓平著、亜紀書房)ほか。

(敬称一部略)

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年7月23日掲載)からの転載です。

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その1

世界の各地で暮らす日本人をリポートする民報のテレビドキュメンタリー番組が面白い。こんなところでわが同胞はこんなふうに生きているのかと、そのバイタリティーに感心すると同時に、まさに「人間いたるところ青山あり」という思いにいたる。

これは現代のお話だが、まだ世の中の情報や交通網が整っていなかった100年以上前に、すでに多くの日本人が、言葉と文化の壁を越えて世界に飛び出していった。その無数の足跡のなかから、アメリカでのいくつかのユニークな例をご紹介したい。

今回は、カリフォルニア州のリヴィングストンという小さな町に誕生した日本人コロニーの歴史と今について。ここには、ヤマトコロニー・エレメンタリー・スクール(Yamato Colony Elementary School)、つまりヤマトコロニー小学校という名称の学校がある。

町のミュージアムに残る日系の歴史

乾いた空気と刺すような強い陽射しの下、カリフォルニアの州都サクラメントから南へ、なだらかな丘陵地をハイウェイ99号で1時間ほど走ると、リヴィングストンという町への入り口に着く。

「WELCOME TO LIVINGSTON」と、真っ平らな大地に看板が立つ。日本語のほか数カ国語でも歓迎を表している。町の規模の割にはどうやら国際色が豊かなようだ。

まわりには畑が広がるのどかなこのまちのダウンタウンの一角に、小さなミュージアムがある。「リヴィングストン・ヒストリカル・ミュージアム」というかわいらしいレンガ造りの建物だ。歴史の浅い国だからこそなのか、少ない歴史を守っていこうという姿勢を持つ人たちがたいていどのまちにもいて、「ヒストリカル・ソサエティ」という名称で小さなオフィスを構えて地元の歴史をまとめて展示している。

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経営を寄付に頼っているところも多く、運営は大変なようだが、訪れる人にはオープンで、ボランティアの人たち(たいていはお年寄り)が、丁寧に説明をしてくれる。リヴィングストンのヒストリカル・ミュージアムもこうしたものの一つだ。

常時公開されているわけではないので、事前に連絡を入れ訪ねると、ボランティアのラツラフさんが迎えてくれた。町の歴史を紹介する展示を見ると、象徴的なのが世界地図に示された何本もの線で、ヨーロッパの各地をはじめ、メキシコや日本やフィリピンといったアジアの国とカリフォルニア内陸のこのまちを結んでいる。なかにはアフリカと結ばれた線もある。

いずれもこの町と住民の出身地とを結んでいる。ここもまた人種のるつぼと言われるアメリカの例外ではないことが分かる。このなかで、ポルトガルやフィリピンからの移民が目立つが、なんといっても展示のなかの大部分を占める日本人、日系人の存在が大きい。

というのも、ここには20世紀の初めにヤマトコロニーと名付けられた日本人による入植地が拓かれ、町の形成に大きな役割を果たしたからだ。

定住を目指してつくりあげたコミュニティー
理想を求めたリーダー、安孫子久太郎

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日本人のアメリカ本土への渡航は1880年代から始まり、西海岸には働きながら学ぼうという学生や出稼ぎ労働者などが押し寄せていった。カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどの州では、そのほとんどが農場での作業に従事したり、林業、鉄道、水産関係の現場で、雇われ労働者として働いていた。

しかし、その数が急増すると白人社会から排日運動が起こり、1907年には日米間では日本からの移民を制限するという「紳士協定」が結ばれる。こうしたなかで、個々に労働者として働くのではなく、定住を目指し一つの理想を掲げたコロニー(入植地)をつくろうという事業計画が日本人のなかから出てきた。それがヤマトコロニーである。

この計画のリーダーとなったのが安孫子久太郎だった。のちに“移民の指導者”とも言われるようになる彼は、1865年新潟県北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)生まれで、アメリカへの興味を抱きキリスト教の洗礼を受け、1885年にサンフランシスコに渡った。

現地で日本人により組織された福音会(キリスト教メソジスト派)に属し、その恩恵を受けて大学に通った彼は、やがてリーダーとなる。アメリカでその日暮らしをする書生や社会性のない日本人が増えるなか、これではいけないと、安孫子はアメリカにおける日本人のあり方について考えてきた。

すでにサンフランシスコでは邦字新聞が刊行されていたが、安孫子はこのうちの「ジャパン・ヘラルド」という経営の苦しい新聞を買い取り、「桑港日本新聞」として改名して発刊、新聞経営に乗り出した。まもなくこれを「北米日報」と合併させ「日米」という新聞を創刊する。

これによって啓蒙活動の足がかりを得た彼は、1902(明治35)年10月、仲間とともに日本人労働者の斡旋などをする日本人勧業社を立ち上げる。19世紀末にはじまった日本からの渡米熱は高まり、アメリカ西海岸への日本人は、1900年には年間で1万2000人にも上った。

出稼ぎ的に富を求めてやって来た大量の労働者が都市へと集まり、さらに地方へと仕事を求めていくなかで、同社の需要は高まり、1904年秋には「日本勧業社」と改めて株式会社に拡大した。

利益だけではなく、あるべき姿を目指して

勧業社には事業に伴う理想があった。仕事の斡旋により利益を得ることだけを目的とせず、良質な労働力を提供することでアメリカ社会との融和を図り、土地所有者を増やし日本人の定住を促進させることである。この背景には、増加する日本人移民に対する白人社会からの反発やすでに発動している中国人移民への排斥があった。また、当時、日本人の労働現場で賭博が横行しているという状況に対して、同じ日本人としての反省もあった。

しかし、日本人移民に対する排斥の動きは増し、1907年には日米政府間の取り決めで、ハワイを経由しての本土への日本人労働者は許されず、新たな出稼ぎ労働者の出国も制限されることになった。

こうした動きと前後して、安孫子ら勧業社は、日本人の定住計画の一つとして集団移住による農業入植地の建設を計画した。場所をカリフォルニア州中部のリヴィングストンという町に定め、まず1280エーカーの土地を購入した。当時、付近一帯は牧草や穀物がおおざっぱに栽培されているような土地にすぎなかったが、近くの町が近年急速に発展しているのを目にしてその将来性に期待したのだった。

土地は、区画分けして入植希望者に分譲することになり、その名称は「ヤマトコロニー」と決まった。リヴィングストンを挟んで両側には、「Yam」(ヤム)という駅と「Atwater」(アットウォーター)という駅があり、「Yam」と「Atwater」をつないで発音すると「Yamato」になり、うまいぐあいに日本古来の名称でもあったからだ。

日本勧業社は「Yamato Colony」と名付けられた分譲地について、新聞広告で希望者を募るなどし、日本人入植者を集めた。そして1906年、最初に和歌山県出身の貴志太次郎らが入植し、1908年までに30人がつづいた。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年7月23日掲載)からの転載です。

 

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その3

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日系人たちにはよく知られた墓だった

「おけいの墓」の前に話を戻そう。周囲は草木ばかりで、まさに野の中にひっそりと作られた墓碑のあるところは、木陰になってこの日は色鮮やかな花が手向けられていた。

当然のことながら、背あぶり山の墓碑と同じ「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years」、「おけい之墓」、「日本皇国明治四年 月 日没す」、「行年十九才」と、表裏に刻まれている。月日は記されていない。

強い陽射しの下、午前中から大勢の人が墓前に集い、サクラメント在住で、天台宗ハワイ別院の僧侶、タイラー了栄さんらが墓前で読経をし供養をすると、集まった人たちが手を合わせた。

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このなかの一人、サクラメント在住の日系2世、ジョージ・オキ(86)さんは、初めてこの墓に来たのは1962年だったという。

「彼らがどんなに大変だったか想像できる。彼女に対する尊敬の気持ちから墓に来ていた」。古い日系人の間ではおけいの墓はよく知られていたようだ。

シュネルたちは、日本から茶や桑やさまざまな木や種子を持ち込み、農園をはじめた。当時の地元の新聞記事によれば、最初の一年は作物もよく育ったようだが、金鉱採掘のためにダムが造られ水脈を断たれて水不足に陥ったことや気候のせいで息詰まったようだ。

シュネルは金策のために家族とともに日本へ向かったらしいが、戻って来ない。殺されたとの説や後年、ジュネーブに現れたという証言もあるが定かではない。

置き去りにされた日本人のその後はさまざまで、中には日本に帰国したものや一度帰ってから再び渡米したものもいるようだ。現地に残ったもので消息がはっきりしているのは二人で、おけいの墓を作ったとされる桜井松之助は、生涯ビーアカンプ家で働いた。もう一人わかっている増水国之助は、黒人とインディアンの血を引く女性と結婚し、いまその子孫がいる。

ビーアカンプ家の人の話としては、おけいは、かわいがられて料理や裁縫などを覚える“ナイスガール”だったという。桜井や増水についてもある程度のことはわかるが、シュネルに彼らが率いられた経緯やコロニーの実情などについては、残念ながら彼らから語られたものは残っていない。

また、この入植計画と会津藩の存亡とがどのような関係にあるのかもはっきりしたことはわからない。

最後は、別れの杯をかわそうと・・・

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残っている“伝説”はビーアカンプ家からの話が中心だ。この家とかつて交流のあったキヨコ・ハインズワース・フクモトさん(86)が、この日のフェスティバルに来ていた。

神奈川県出身でアメリカ人と結婚してこの地に暮らしていた彼女は、かつて夫がヘンリー・ビーアカンプ老人から牛を買ったのがきっかけで、同家とつきあうようになったという。彼が幼い頃、おけいやコロニーの日本人は近くにいたので、おけいたちのことをよく覚えていた。

その彼の話として、キヨコさんは、残された日本人の最後の様子を聞かせてくれた。史蹟として保存している農家で、当時、日本人は最後まで一緒に暮らしていたが、いよいよそこを離れて散り散りになるときのことだった。

「最後にお酒が1本残っていたらしく、みんなで少しずつ飲んで別れようということになったらしいんです。でも、子供だったヘンリーがいたずらをして、中身をこぼして砂か何かを入れて飲めなくしてしまったらしい。そんなことを彼は話してくれました」

せっかくの別れの杯もあげられず、彼らはコロニーを去った。おそらくアメリカのどこかにその子孫はいるだろう。

おけいと若松コロニーについてのおおよその史実は、日米で研究され、それをもとに小説や劇にもなってきた。おけいは、墓のある丘の上にしばしばやってきては、故郷の方をながめて涙を流していたという話もあるが、真偽のほどはわからない。

日本が近代への扉を開くとき、会津は悲惨な戦いを強いられ故郷は荒れた。その陰で、アメリカへ渡り苦労した同胞がいた。その象徴がおけいだった。

また、現代に目を移せば、会津の被害は少ないが、福島県全体を見れば原発事故による被災者の多くがいまだ仮設住宅などでの避難生活を余儀なくされ、会津の仮設住宅にも避難している。

今回のフェスティバルに、会津若松から参加した会津大学短期大学部産業情報学科1年の小池さつきさんの学校の隣には、大熊町から避難して来た中学生たちのために仮設の中学校が建てられている。

「私の友だちにも被災して避難した人がいましたが、被災して故郷を離れざるを得なかった若い人たちを見ると、アメリカに行ったおけいさんの姿と重なります」と、自分と同い年で亡くなったおけいを思う。

時代のさまざまな状況に人は必死で抵抗したり、逃れたり、あるいは巻き込まれていく。会津の歴史もしかり、日系アメリカ人についていえば、戦時中は収容所で暮らすという理不尽な思いをした。

おけいがどんな気持ちでアメリカに来て、最期を迎えたのかいまは知るよしもない。しかしそれだけに、想像を逞しくして短くも異色な人生に、多くの人が自分なりの思いを寄せるのだろう。

(敬称一部略)

 

* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年6月17日掲載)からの転載です。

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その2

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プロシア人に率いられて太平洋を渡る

会津が官軍に攻め入られ鶴ヶ城が陥落したのが1868年秋、この翌年の春までに、会津を出てカリフォルニアにわたった一団があった。

当時、会津藩にオランダ国籍のプロシア人でヘンリー・シュネルなる人物がいた。武器商人で、会津藩と米澤藩の軍事顧問であり、かつ奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀でもあった平松武兵衛という日本名をもつこの男が、会津から二十数人を率いて、カリフォルニアで入植事業を企てたのだ。

彼の妻は日本人(会津藩士または庄内藩士の娘ともいわれる)で、2人の間にできた子供の世話係として、おけいはこの移住計画に加わったと見られている。

横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った一行は、サンフランシスコに到着。そこからは蒸気船でサクラメント川を遡り、さらに荷馬車でゴールドラッシュで金鉱堀が盛んだった土地に近い、コロマ村のゴールドヒルという原野に落ち着いた。

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シュネルは農園をつくるため土地を購入し、「Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony」となづけ、養蚕やお茶などの栽培を計画した。しかし、事業は結果としてうまくいかず、2年ほどして彼は、金策のためだと思われるが、日本へ行くと言ってコロニーを去った。

しかし、二度と戻って来ることはなかった。理由は分からないが、一説には殺されたともいわれる。

いずれにしてもおけいたち日本人は取り残され、しばらくは共同生活をしていたようだが、最後は離ればなれになった。幸いおけいは、コロニーの土地を管理していた家に雇われた。だが不運なことに、ほどなくして病にかかり亡くなった。

1860年の幕府の遣米使節団など、これ以前にアメリカ本土に渡った日本人はもちろんいる。また、アメリカへの移民としては、明治元年にハワイに出稼ぎで渡った「元年者」と言われる人たちがいた。

しかし、アメリカ本土への移民とみられるのは少数で、まして一労働者ではなく農業移民団という計画で本土へ渡った日本人は、彼らが初めてだと思われる。

それだけで注目される史実だが、若松コロニーの存在は長い間知られていなかった。日本にも記録は残っていない。存在が明らかになるきっかけは「おけいの墓」だった。

墓の謎が徐々に解明される

おけいが亡くなり、コロニーも消滅して40年余が過ぎた1915年(大正4年)の初夏、現地で農園を経営する日本人、国司為太郎と邦字新聞「日米新聞」の記者竹田雪城によって、この墓が発見される。日本人娘の墓が近くにあるということを知った国司が竹田に話し、二人で訪ねてみたのだ。

最初はなぜこんなところに19歳の日本人女性の墓があるのかわからなかったが、近くのビーアカンプ家という白人宅を訪ねた結果、おけいの存在と若松コロニーのことを教えられた。

コロニーがなくなった後、おけいはこの家に引き取られ働いて、同じように引き取られた日本人の桜井松之助らが、おけいのために現地に墓を建てたこともわかった。

その後、この事実が日本でも発表されると、日本では歴史研究家、木村毅が渡米し調査にあたった。一方、現地では日系人や日本人、さらにはこの歴史に興味を抱くアメリカ人によって当時の新聞記事や国勢調査などの記録が発見され、調べが進んだ。

おけいの故郷である会津若松でも、図書館長をつとめた竹田正夫をはじめ、教育関係者らによって、おけいの身元など史実が整理されてきた。

このように日米で小さなコロニーの歴史に対する関心が高まったのは、ユニークな史実で謎が多いこともあったろうが、なんといっても、このコロニーの象徴となった、薄幸なおけいの存在が大きい。

日米で進む歴史保存とフェスティバル

アメリカの日本人、日系人にしてみれば、彼女は移民としての先駆者の一人とも言えるし、わずか19歳で異国の地で亡くなってしまったことへの同情があったろう。

一方、会津から見れば、幕末から明治にかけての会津苦難の時代に、故郷から逃れたもののさびしく一人世を去ったこの少女に対する同郷人として、やはり同情と慰労の気持ちがあった。

会津では、長年おけいについて研究してきた古川佐寿馬が音頭をとり1957年、おけいの墓碑のための募金活動が教育関係者を中心に行われ、これが実を結び背あぶり山に建立された(1985年に同じ背あぶり山のなかで現在の地に移転)。さらに69年にはこの史実を偉業として守っていこうと「おけい顕彰会」が発足。80年には墓参団が現地に趣き、二次(82年)、三次(86年)と続いている。

一方、カリフォルニアでは1966年に、「おけいの墓」を含む“若松コロニーの遺跡”がカリフォルニア州の史蹟に指定される。69年にはこの墓がたつ丘の麓にあるゴールドトレイル小学校の敷地内に「若松コロニー入植100年祈念碑」が建てられた。

また、数年前にアメリカン・リバー・コンサーバンシー=American River Conservancy (ARC)という自然保護NPOなどが、会津からの募金協力も得て、おけいの墓のある土地を含めて周辺一帯を民間から買い取り、全体が公園化されることになった。

これを契機にフェスティバルが3年前から開かれ、今年は3回目を迎えたところだった。この地に若松コロニーというユニークな文化遺産があることを記念し、その時代に思いを馳せるという企画である。

敷地内では、日本の折り紙の展示や、仮設のステージでは太鼓や鎧兜に身を包んだ侍のパフォーマンスも登場した。また、そのむかし一時はおけいたちが住んでいた古い農家も改装され、見学できるようになっている。庭先には日本から持ち込んだと思われるケヤキの木が、いまは大木となって威容を誇っている。

会場には、日本文化に関心のある一般の人に加えてサクラメント近郊の日系人や日本人も数多くつめかけ、長閑な丘陵地は数百から千人ほどでにぎわった。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年6月17日掲載)からの転載です。

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その1

幕末から明治にかけての会津藩をめぐる物語には、どこか同情を誘うところがあり、歴史好きのなかにも会津ファンは多いという。戊辰戦争で官軍(会津では西軍と呼ぶ)につぶされ、極寒の下北半島に斗南藩として減封され辛苦を味わった会津。

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「いまも会津の人々には当時のわだかまりがあって、城下町は独特の雰囲気を醸し出しているのだろうか」

などと勝手に思い込みながら5月の連休のあと会津若松を訪れてみると、それはこちらの過剰な反応で、まちはNHKの大河ドラマ「八重の桜」の人気にあやかり、全国各地から観光客が訪れ華やいだ雰囲気だった。

会津のシンボル鶴ヶ城を囲む城址公園には、淡いピンクの桜がまだ残っていた。

ドラマの舞台裏などを紹介するための「大河ドラマ館」をはじめ、周辺には復元された会津武家屋敷、白虎隊士が眠る飯盛山、そして藩士を教育した日新館など史跡、観光スポットは多い。

語り継がれる歴史秘話

しかし、これらとはちがってほとんど取り上げられない小さな歴史モニュメントが市内にある。周囲を山に囲まれた会津盆地の東、猪苗代湖とを隔てる標高870メートルの背あぶり山の頂上付近に、その昔秀吉が休息をとったという関白平という、会津盆地を一望する景勝地がある。

その一画に白い石碑が建っている。大きな石の上に据えられ、上部がアーチを描いていて、和洋折衷ともいえる形をしている。形と同様、碑に彫られた文字も“和洋”混在だ。板状の石碑の表には英語で横書きで、

「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19 years」

とあり、裏には中央に縦書きで、

「おけい之墓」

と字が刻まれ、その両脇には、右に「日本皇国明治四年 月 日没す」、左に「行年十九才」とある。 文字通りこれは「おけいの墓」という墓碑だった。

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“おけい”という女性が、明治4(1871)年に、19歳で亡くなった。それを偲んでの墓である。名前だけの“おけい”という女性の墓がなぜここにポツンと一つあるのか。この“おけい”とはいったい何者なのか。

明治4年と言えば、会津藩が戊辰戦争で敗れてからまだ3年、人々は散り散りにまちを去り、会津藩士たちは斗南に移封されたが、その斗南藩も廃藩置県で廃止となったのがこの年だ。

八重と同じ時代に生きて

おけいがこの年19歳だったということは、大河ドラマの主人公で1845年生まれの山本八重より7つほど年下になる。八重の生涯に照らしてみれば、明治4年、八重は、生きているとわかった兄の覚馬を頼って京都に向かっている。

二人の女性は同じ時代を生きたといっていいが、辛苦を乗り越え、才気と行動力で未来を切り拓き長寿を全うした八重に対して、名もなきおけいは、同じ会津出身でわずか19歳でこの世を去っている。それも遠くカリフォルニアでだ。

しかし、このおけいという女性については、非常に特殊な人生を送ったことで、いまも会津若松では語り継がれている。彼女は、記録にあるなかでは、最初にアメリカ本土に移民をした日本人女性の一人だと思われる。

五月晴れのこの日、墓碑が向いている先は、遠く眼下に広がる会津のまちだった。亡くなってもせめて故郷を眺めることができるようにという、墓碑を作った人たちの配慮からだ。しかし、実際のおけいは、故郷の土を二度と踏むことはなかった。

彼女が最期を迎えたのは異国であり、本当の墓は、カリフォルニアのいなかの小高い丘の上に建っている。背あぶり山の墓は、故郷でも彼女のことを忘れないようにと、のちに会津の人たちが建てたものだった。

ゴールドヒルにひっそりとたつ墓

会津のおけいの墓を訪れてから、8日後の5月18日、快晴のカリフォルニアの空の下で、私は本当の「おけいの墓」の前にいた。州都サクラメントから北東の山間部へ向かって約70キロ行ったところにその墓はある。

一帯はゴールドヒルという場所で、そのまま日本語にすれば、「黄金の丘」とゴールドラッシュで湧いた土地柄を想像させる。

なだらかな丘陵の広がるなか、ひとつの小高い丘の上に、数本の木々に守られるように、その墓は一つだけポツンと建っていた。周囲を古い鉄の柵で囲われ、自然のままの岩とも石ともいえない塊が、柵と一緒に四角い墓地をかたどっている。

ふだんならだれも訪れることがないようなこの一帯に、この日はピクニックのように、午前中から人が集まり、墓前には人だかりができていた。今年で3回目を迎える「Wakamatsu Farm Festival」が開かれていたところだった。

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Wakamatsu(ワカマツ)とは会津若松の若松である。ここに明治維新の直後、会津若松から入植した日本人がつくるコロニーがあり、そのなかにおけいはいた。

なぜ、そしてどうやって彼らは日本を離れ、この地に来たのか。その末路はどうだったのか。おけいの墓はなぜ作られたのか。少し長くなるが、経緯を説明したい。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年6月17日掲載)からの転載です。

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