Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第1回 日米修好100年を記念しまとめた1431ページ

日本からアメリカ本土への最初の移民からすでに150年ほどが経つ。いま、初期の移民1世は鬼籍に入り、2世の謦咳に触れることも少なくなった。危惧するのは世代を経るにしたがって、言葉の壁もあってパイオニアである1世の記録が遠くなり忘れ去られていくことである。 [inline:Cover3.jpg] 日本とアメリカを生き、結果として橋渡しをした1世の人生は、日系人と日系社会の原点であり、大いなる冒険者としての記録でもある。その意味で、いまここで1世たちの足跡を振り返ってみる。その方法はいろいろあるだろうが、私は一冊の大著「米國日系人百年史」を読み直し、そこに紹介された一世たちの姿をこの連載のなかで紹介していきたい。 その前に、本書の成り立ちと内容について記そう。 1860年、江戸幕府が遣米使節団を送りホワイトハウスで日米修好通商条約の批准書が交換された。それから100年後の1960年、日米修好100年を記念し日米双方で政府をはじめ民間レベルでもさまざまな行事が行われその歴史が検証された。 14年の短命のなかで「新日米新聞社」が発刊 [inline:Part1.jpg] そのなかで、ロサンゼルスに本社を置く「新日米新聞社」が記念事業として出版したのが「米國日系人百年史」である。同社は、1947年籾井一剣が創刊、最初は週刊でのちに日刊となったが経営は苦しく、53年に元全米日系市…

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その4/4

その3を読む>> メキシコ国境に描いた夢 100年以上前のアメリカへの日本移民、特に入植地を求めるような人たちの足跡を調べると、よりよい場所や機会を求めて地域や州を越えて大胆な移動をしていることが分かる。また、通信手段の乏しいなかで、情報交換もかなり行われていたようだ。 今日からすればこんな所へもチャンスを求めて入植したのかと思える場所がある。テキサス州のなかでは、メキシコ国境に沿って流れるリオグランデ川がメキシコ湾に注ぐあたり一帯は、地図上で見る限り国境にも近く意外な入植地だ。 しかし、土地は肥沃でサトウキビが早くから栽培された。20世紀の初めにはヒューストンから鉄道が伸び、灌漑設備ができると農地として注目されて野菜栽培が盛んになった。リオ・グランデ・ヴァレーあるいは単にヴァレーと呼ばれるこの一帯に、日本人もテキサス州内から、あるいは西海岸などからやって来た。また、最初にこの地に入った日本人はもともとメキシコにもいた人物だった。 このなかに、「ヤマトコロニー」と呼ばれた協同組合方式の農場があった。この時期、ヤマトコロニーと名付けられた日本人コロニーは全米で3つあった。カリフォルニア北部、南フロリダ、そしてこのメキシコ国境のテキサスである。 1919(大正8)年7人の日本人が、ブラウンズヴィルという町のサトウキビプランテーションだった土地約400エーカーを買い取った。そこ…

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その3/4

その2を読む>> 山本五十六も2度訪れる 当初は米作にしぼり成功したが、のちに野菜作りに転換した。この間、日本人をはじめメキシコ系、アフリカ系、ヨーロッパ系の労働者も雇った。吉松氏はコロニーのために強いリーダーシップを発揮し、一方で地域にはさまざまな面で貢献しアメリカ社会に積極的に溶け込んでいった。 1924年には土地を提供してキリスト教の教会を建て、その運営にも私財を投じた。また、1928年にはコロニーの近くの学校に土地を譲渡している。彼自身は仏教を信仰していたが、子供たちにはアメリカで生活していく以上キリスト教を受け入れ、英語を学ぶべきだと考えていた。 1919(大正8)年、吉松氏が所有していた土地から石油が出ることが分かった。彼は「オレンジ石油会社」を設立した。このことを知って当時アメリカに留学中の山本五十六が、1921年、石油産業の視察のなかで岸コロニーに立ち寄ったことがある。日本の将来を見据えて石油資源に関心を抱いていた山本だが、数年後にも再び岸コロニーを訪れ、石油採掘現場を視察した。 2人の間には石油以外にも共通するものがあった。山本の生家も新潟の長岡で、吉松氏の実家と非常に近い。また山本の兄弟は吉松氏が日露戦争のときの仲間だったという縁があった。 その後石油は先細りとなり吉松氏は会社を売却、その利益でコロニーへの投資者に、投資額を3倍にして返済したという。一…

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その2/4

その1を読む>> 栄えたウェブスターの日系コミュニティー 西原が入植したウェブスターは、ヒューストンから南東へ車で30分ほど。そのまま南へ進めば、メキシコ湾に突き出たガルベストンの町につく。グレン・キャンベルのヒット曲「ガルベストン」に歌われた町だ。 ヒューストンからは真っ平らな土地をひたすら走ればいい。私が訪れたのは7月の初めで、照りつける陽射しがきつかったが、日本ほどの湿気はない。 ウェブスターには、西原以外にも数多くの日本人がかつて農業を営んでいた。いまもそのうち何家族かが暮らしている。香川米吉氏から始まるカガワファミリーはその1つだ。愛媛県出身の香川氏は、1907年に渡米、西原のように農園経営を始めていた大西理平氏の下で労働者の監督として働いた。 大西農園は、米価の暴落などが原因で1924年に解散となったため、香川氏は独立してウェブスターで野菜耕作を始め、とくにオクラ専門の農家として知られた。 彼は、一度郷里に帰り結婚、妻の喜知さんをテキサスに迎え入れた、2人の間には6男6女の12人の子供ができた。このうち、ウェブスターに住む5女のマーサ・グリフィスさん宅を訪ねた。 [inline:Tx2.jpg] ハイウェイ45号を降りてまもなく、静かな緑濃い住宅地の一角にグリフィスさんが暮らす家がある。刈り込まれた芝と茶色の外壁、そして白い窓枠がテキサスの夏の陽射しを受け…

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その1/4

テキサスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。カウボーイ、バーベキュー、NASA(米航空宇宙局)・・・。ヒューストンなど先端産業で知られる都市もあるが、どちらかといえば、野趣あふれる、昔ながらのアメリカといったイメージが強いのではないか。 [inline:TexasMap.jpg] メキシコ湾に面し、全米でアラスカに次いで面積の広いこの州(日本の約1.8倍)は、独立心の強い風土があり、テキサスのアメリカ人はAmerican(アメリカ人)ではなくTexan(テキサス人)だという言葉も聞かれるくらいだ。 そのいかにもアメリカといった土地に、100年以上前、何人もの日本人が大規模な米作りに挑み入植した。 日本が開国してまだ30年余。国内で満たされない夢と情熱を携えて、彼らは個人としてテキサスに乗り込みコロニーをつくった。それはどのようなものだったのか、あまり触れられることがなかったテキサスへの入植について、現地の様子を含めて報告したい。 その前に、テキサスでの日本人の足跡に簡単に触れておこう。19世紀末からのアメリカへの日本人移民は、出稼ぎ的な労働者が中心だったが、テキサスへの移民は、最初から資本を投下して、事業として農業経営をする例が目立つ。当時の国勢調査によれば、テキサス州での日本人の数は、1900年はわずか13人で、1910年には340人、1920年には449人となってい…

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