Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

community ja

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第11回 オレゴン州の日系人~その2

第10回 オレゴン州の日系人~その1を読む>>

カリフォルニア州とワシントン州の間に位置するオレゴン州。漢字では央州とも記すオレゴン州の日本人移民もまた、白人社会からの排日運動や攻撃を受けてきた。「百年史」では、排日の歴史を時代をわけてまとめている。概要は以下のとおりである。

初期の動きとしては、1910年に日本人による農業が盛んだったフッドリバー地方でアジア人排斥協会が設立され、新聞や演説で排日運動が展開された。排日関係の法案も州議会に提出され、最終的には議決された。


トレド市で、排日暴動事件
 

1925年には太平洋岸のトレド(Toredo)市で排日の暴力的な一大事件が起きた。

「二〇〇名に及ぶ暴徒は米国旗を先頭に押立て央州トレド市太平洋スプルース製材会社工場に勤労中の邦人キャンプを襲い、予め不穏の挙のある事を察知し会社より配置した五名の護衛人に重軽傷をおわせ、狂暴の一団は屋内に乱入し、日本人に即時退去を強請し、自動車に乗せ、鉄道の便宜ある地点へ誘拐放逐した。日本人の男子二五名婦人二名、外に比人四名、合計三一名は不法行為の犠牲となったのである」

製材会社への日本人の雇用に異議を唱えてのことだった。

これに対して、央州日本人会は、州知事に暴徒側による悪宣伝の是正を求める書簡を送った。また、日本政府にも事実を報告し適正な措置を求めた。さらに、被害者四人が損害賠償を求め訴訟を起こした。栽培所はこれを認め、2500ドルの損害賠償金を支払うよう命じた。

戦争間近になると、日米通商条約破棄が日本人の事業に不安を与え、日本人一世が経営する各種事業は、できるだけ米国市民となった二世に継承させる方策がとられた。


戦後、日系の復活が遅れたポートランド

戦前は1680人の日系人がいて、商業、宗教、教育、ジャーナリズムなど日系の活動が盛んだったポートランド市だが、戦争直後、日系社会は極端に縮小した。

「戦後の復活頗る遅々たるものあって誠に一抹の悲哀を感じせしめられるものだった」

理由は、市政が日系人に辛くあたったため、かつての事業の再開がむずかしくなり、帰還する者が激減したためといわれる。

また、コロンビア川の堤防決壊により日系人が密集するヴァンポート市が被害を受け、日系人は財産を失い、犠牲者が出たことも影響した。

「強制立退きに依る物心両面の大損害を蒙り、転住所三年有半の生活に所持金の大半を消費し、漸く法令の解除と共に勇躍古巣に帰還すれば、排日的市政の苦難に事業の着手も捗々しく進まぬ処へ、天から降って湧いたような此の大災難に遭遇したポートランド帰還者こそ、実に『泣き面に蜂』の二重の苦境に陥って居た。…」

しかし、この後徐々に日系社会は再び発展してきた。1950年のポートランド市の人口は、約460人だったのが、1960年には約1990人となっている。

「数奇な一生」と紹介された日本人 

百年史・オレゴン州の章でも、オレゴン在住の多くの日本人、日系人個人について紹介している。「農業」、「アパート業」、「グロッサリー業」、「婦人服の元祖」など、肩書きはさまざまだが、そのなかで一風変わって「数奇な一生の」というタイトルで紹介されている日本人がいた。京都府中郡峰山町出身の藤原順次氏である。

なるほど、書かれた彼の人生をたどると数奇である。以下、かいつまんで紹介しよう。

峰山町というのは、京都府の北部、丹後半島中央のまちで、丹後ちりめんの事業が盛んなところである。1888年に峰山で生まれた藤原氏は、徴兵で陸軍に入り、その後1907年に結婚、一女をもうけたのち25歳で朝鮮半島にわたる。

その後、弟の製造するちりめん織物を行商しながら、台湾、フィリピン、上海、マカオ、アモイ、スワトウ、香港を経てオーストラリアのシドニーをまわる。1915年、香港から渡米しようとイギリス船に乗り込み、ニューヨークへ着いた。

そこからニュージャージー、メイン、ワシントンDC、ボストンなどの東部一帯でアメリカ人家庭で働いたり、コックをしたりと、さまざまな仕事をして、シカゴに入った。1922年にオレゴン州に来て、アストリア、ウェストポートの製材所で働いた後、13年ぶりに日本に帰国。

1924年に妻子を連れて再び渡米すると、ポートランドでクリーニング業をはじめた。その後ホテル業を営むがここで戦争となり、アイダホ州のミニドカ収容所に入る。戦後帰還するとホテル業をはじめ、1956年に引退して、ポートランド南のミルウォーキー市で余生を送る。

郷里の峰山町には200万円余の公民館を寄付、夫婦ともに帰郷した際には町民挙げての大歓迎を受けたという。子どもは一男三女。孫が10人で曽孫も3人という。数奇というか、盛りだくさんな人生である。

 

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
  
* 次回は「アイダホ州の日系人」です。

 

Read more

community ja

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第10回 オレゴン州の日系人~その1

太平洋岸のオレゴン州は、北はシアトルやタコマのあるワシントン州、南はサンフランシスコ、ロサンゼルスのあるカリフォルニア州の間に位置する。漢字で表わせば、カリフォルニアが「加州」と表記されるのに対し、ワシントン州は「華州」、さらにオレゴンは「央州」と表わされているが、これはほとんど知られていないのではないか。

こうしたアメリカの地名の漢字表記は、日本でも今は使われることはなく、日系人のなかでも理解されないことを考えると、一世、二世の日系人をとりまく独自な文化として忘れられていくかもしれない。


漂着した日本漁船員が最初の日本人
 
 
さて、「米國日系人百年史」では、第四章オレゴン州として40ページを割いている。まずオレゴン州の概説からはじまり、その歴史、地理的な環境などを記す。

1805年末にルイス、クラークの探検隊がコロンビア川を下り大陸横断探検旅行に成功し、ロッキー山脈西方に白人進出の基地を建てたという。

「南北に走るキャスケード連山は、央州の気候風土を東西に二分し、西部の三分の一は雨季永く四季緑に蔽われるが、東部の三分の二は全く乾燥の大陸地帯」。

主要都市のポートランドに市制が布かれたのは1851年で、1860年の人口はわずか2874人だった。
「第一節 戦前の央州日本人発展」では、日本人の足跡からはじまる。

「1834年頃、一日本漁船が太平洋を漂流し、黒潮に押されて央州マーシフィールド附近に漂着した。存命者三名の一人鈴木金蔵という者が、当時オレゴン領であったバンクーヴァに来たのが最初の日本人であった」

「又、明治初年に石川久作という者が南部より来て、ポートランド市に居住した事実がある」

「1880年の秋アンドリュ・マッケノンという一米人、岩手県、青森県に於ける農事指導係を辞職し、妻岩越ミヨ、その弟力造及娘タマを伴い帰米し、後ちポートランドを距る東方十三哩のグレシャム町の東方二哩の地にトレ・ソーミル工場を創設した。その命名によるオリエンタルの地名は現に残り遺族は現に同地に農業に従事し、先住の第一人者として尊敬を払われている」

日本人移民が初めてポートランド港に到着したのは、1891年春で、一行は岡山県人坪井喜代治ほか6人。二回目は和歌山県人16人だったという。右も左もわからず困難な目に遭い、「ある時は橋の下で日本人が泣いてるという急報があった」という。
 

鉄道労働が栄え、日本人の町ができる
 

当時のポートランドあたりの日本人は主として薪割り労働やホップの摘み取りなどをしていた。このほか、鉄道保線の工夫としてユニオン・パシフィック鉄道で働いた。その後、大陸横断鉄道の開通にともない、鉄道労働者として力を発揮していった。これを経て農業などに転じていった。

「鉄道労働の黄金時代は1897年より10年間で、一時央州各鉄道の日本人労働者は三千人近く、・・・」、「央州各地に於ける農園を始めとして、市内各事業の基盤は、概ね鉄道労働に従事し寒暑と闘い脂汗に代えて蓄積した労銀の結晶であると言える」。

1906年にはポートランド市でルイス、クラーク央州探検百年記念として、万国博覧会が開かれた。市内の日本人の事業は発展し、旅館、レストラン、飲食店、理髪店、食料品店、雑貨店などが激増して繁盛した。開戦前の1940年当時、ポートランドでは約120の旅館や80余のグロッサリー店が日本人によって経営されていた。

農業経営も広がり、果物、野菜、イチゴ、ホップなどの栽培で、1940年で日本人の農家はオレゴン州で343、農園は、合計11,247エーカーとなっていた。

1935年11月の調査で、オレゴン州全体での日本人の人口は、4376人でこのうち、ポートランドに1501人が暮らしていた。全体で日本国籍保有者は3368人となっている。

日本語の新聞なども盛況で、その草分けは、1900年に牛島英太郎、川尻慶太郎の二人による「ヂャパニカ・ポートランダ」だった。日刊央州日報は戦前に34年の歴史をもつ。このほか文芸雑誌「大衆」から改称した「週刊紙コースト時報」や、州外の邦人紙の支社もあった。

第11回 >>

   
(注:敬称略、引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

 

Read more

community ja

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第9回 「中部加州」の日系人

第8回「南部加州の日系人 ~ その4」を読む >>

各州別に日系人の足跡を紹介している米國日系人百年史を、これまでカリフォルニア州のページから眺めてきた。北部加州(北カリフォルニア)で1回南部加州(南カリフォルニア)は4回にわたって紹介した。カリフォルニアの最後は、フレスノ(Fresno)をはじめとする中部加州(Central California)の日系人についてのおよそ60ページを読んでいきたい。

百年史は各地の地理についても詳しく記している。中部加州については、「中部加州とは、(略)コーストレンジ沿岸山脈とシエラネバダ山脈の中間に位置し東西約五十哩、南北約二百哩に及ぶ大平原で、マデラ、フレスノ、キングス、ツラレ、カーン五郡から成り、フレスノ市は中部加州の首都とも称すべき農業中心都市である」。

「シエラ山脈及びヨセミテより水源を発する幾つかの河川は、農地利用灌漑により中加の大平原は年々飛躍的に開墾され、葡萄、綿花、柑橘類その他果物及び野菜等あらゆる農産物を生産、東部の市場に輸送され、また中加の特産物レーズンのごときは全世界に輸出、世界のすみずみに至るまでその美味と品質は賞賛されている」。 

この地にやってきた多くの日本人も、多くがこうした農業に従事した。中部加州の人口は、1959年度の調査で約95万人、そのうち日系人は約1万4000人とある。

フレスノ市に最初に日本人が入り込んだのは1880年頃で、当時東京市に雇われた後帰国したアメリカ人が、中山実円、佐々島多忠の2人を従僕として連れてきた。フレスノ市に日本人が多く入ってきたのは、「仏教会開教師が土地の所有を勧め、永住の基礎を立つべく土地会社まで起こした」ことが大きいという。

ミスター・フレスノ 

このフレスノで「ミスター・フレスノ」に選ばれたという人物が坂本節吾だ。1884年広島県安佐郡の出身で、15歳のときワシントン州のタコマに上陸し、サクラメントで働きながら英語を習得し、1909年にはフレスノで食料雑貨店を開業し、その後さまざまな事業を起こした。

彼の功績は、日系人のために合法的土地所有の先例を作るなどし、中部加州での日系人土地所有権の維持などに大きな役割を果たしたことだ。また、開戦前にフレスノ日本人会長に就任、開戦後は「ゲアハート下院議員を通じて大統領に宛て忠誠を誓う旨を打電、全米にラジオ放送され、また対日宣戦布告緊急議会にも発表され満場の拍手を受けた。坂本氏の勇気ある善処によりフレスノ日会幹部からは一人も抑留者を出さなかった功績を残している」と、紹介されている。

開戦直後の巡査殴打事件 

開戦時、フレスノでの混乱は比較的少なかったが、立ち退きをめぐって日系人に大きな衝撃が走ったことがあった。「1942年2月に入って太平洋岸日系人総立退き令が出た時、当初中部加州を縦貫するハイウェー第99号の東側がホワイト・ゾーン(非立退地区)と発表されたにもかかわらず、同地区へ各地立退区域から多勢がドッと押しかけたため、地元米人を刺激し、後ち同地域も立退区域になり、安心していた同地域日系人も一時大動揺を来す・・・」。 

この時の混乱ぶりなどについて、百年史では、1947年に日米時事フレスノ支社が、有力日系人たちによる座談会を記事にしたものを再録している。急な立ち退き前後の混乱が語られているが、そのなかに巡査殴打事件があった。巡査とは警察官のことと思われるが、外部から来た日本人青年3人がデルレーの日本人タウンで一人の巡査と口論の末、巡査を殴って手錠とピストルを奪って逃げたという事件だった。このため日本人たちが謝罪として825ドルを集めて巡査に送ったという。 

このほか、立ち退きによって、400余の遺骨を移動させるため、大急ぎでフレスノの墓地に納骨堂を建てて保管したことが語られている。

戦後は、淋しい一世?

話題は、戦後の日系人家庭のことなどにも及んでいる。一世と二世について以下のような興味深い発言がある。

「最早在米同胞の社会は二世の時代で一般の生活様式が変って来る事は喜ばしいことですが、どうも一世は淋しい気がします、まだ表面化はしませんが家庭のツラブル(trouble)も相当潜んでいるのではないかと思われます」(宮本)

「一世の気持ちのすっかり変った原因は戦争の結果で、戦前は日本本位だった生活が戦後はアメリカ本位に土着した為だと信じます。その上戦後は親族や友人が全米に散在しているため日本人の考え方も全米的になったと言えます」(三上)

中部加州のなかでサクラメント方面によったマデラ郡には、リビングストンのまちに、日系の移民史のなかでも有名な「大和コロニー」がある。1910年に安孫子久太郎が開いた、日本人入植者の村である。近くのコーテズにも同様のコロニーができた。農業組合をつくって発展してきたコロニーの事業についても細かく記されている。

(注:敬称略、引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

第10回 >>

 

Read more

community ja

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第8回 南部加州の日系人~その4

第7回 「南部加州の日系人 ~ その3」を読む >>

1000人以上にのぼる個人史が集積

米國日系人百年史は、第二篇で各州における日系人の足跡を追っていて、そのなかでカリフォルニア州が約半分を占めている。一方の足跡については各州、各地域ともページのほとんどを数多くの日系人の個人と一部団体の紹介で埋めている。

その数は、1000人以上にのぼる。実際にどのような形でこうした情報を集めたのかは不明だが、編集責任者の加藤新一氏が直接インタビューなどに走り回ったことは記録に残っている。

南カリフォルニアでも100ページほどをこうした個人などの紹介にあてている。そのスタイルはほぼ決まっている。

「職業など肩書き」、「氏名(日本語とローマ字表記)」、「日本での出身県」、「アメリカでの住所」が列記される。そして、本文では、出身地と生年月日と両親の名前と家族構成からはじまり、何年に日本から何を目的にアメリカに渡ったのか、あるいはどういういきさつでアメリカにやってきたのかを記す。

日本の出身なども細かく記す     

ほとんどが日本生まれの一世であり、当時の日本の細かな町村名や場合によっては字名まで載せている。百年史が書かれた1960年ごろに居を構えているのがカリフォルニアであっても、アメリカの土を踏んでからはたいていが仕事の関係で移動を重ねて来たようで、その歴史もかいつまんで紹介されている。

当然、戦争を挟んでの歴史であり、立ち退きや収容所への移動、そして戦後の再出発という、時代も個人も激しく揺れ動く中での半生である。人によって1ページを費やしていたり、半ページまたは4分の1ページを割いている。たいていは正装をして家族と一緒や夫婦、個人での写真がついている。 

「南部加州の日系人」の章では、地域別には「ロスアンゼルス郡( Los Angels County)」、「オレンジ郡(Orange County)」、「サンデーゴ郡(San Diego County)」、「インペリアル郡(Imperial County)」、「リバサイド郡(Riverside  County)」、「サンバナデノ郡(San Bernardino County)」、「ベンチュラ郡(Ventura County)」、「サンタババラ郡(Santa Barbara County)」、「サンルイスオビスポ郡(San Luis Obispo County)」の9郡にわけてその地域の日系人を紹介している。

このなかから、個人の紹介例として何人かについて、元の記事を一部採録しながら紹介したい。

多くの日系人の職業として、造園、庭園、花園という農業、園芸技術を生かしたものが目立つなかで、サンフェルナンドの「花園業 遠藤為吉氏」は、1888年に静岡県清水市三保町に生まれ、「海外雄飛の志を抱いて1907年1月まずメキシコへ渡り、合衆国に入ってコロラド州に至り、当時農園を経営していたラス・マリアスの伯父や兄を頼り、農園労働に従事」。

このあと一時帰国して結婚、妻をつれて戻り花園業を始める。戦時中は自由立ち退きをし、ユタ州の従兄弟とオクデン近郊に移った。

日露戦争従軍者や金魚養殖事業で成功者も  

「ガーデナ平原の元老」という肩書がついた木島偆一氏は、「1881年広島県豊田郡忠海町生まれ、1902年12月広島の歩兵第11連隊に入営、1904年日露戦争に出征、遼東半島に上陸、北へ向けて進軍し、奉天を経て鉄嶺まで遠征、その間二ヵ年、勲功により軍曹に昇任、勲八等功七級に叙せられた日露戦争の勇士である」。

帰国後1907年にシアトルに渡って働いたのちにカリフォルニアに移動、しばらくして養鶏業をはじめた。1925年9月に所有する土地から石油が出た。戦後になるとこの油井から天然ガスが出たという。木島氏のように数は少ないが日露戦争従軍者も記事には登場する。 

オレンジ郡の秋山清美、秋山清三夫妻は「金魚養殖業の元祖」と紹介されている。1888年長野県南安曇郡有明村の生まれの清美氏は18歳で渡米、シアトルから入りやがてオレンジ郡に落ち着き、セロリ耕作に従事した。その後「日本特産の金魚養殖の有望性に着眼、農園の一部に飼育し副業的に続けるうち、1923年の加州排日土地法実施を動機に農業を断念、積極的に金魚養殖に踏み切った」。

幾多の困難はあったものの戦前にはシカゴ以西最大の金魚園にまで発展させ、戦争を挟んでも事業を再開、また所有する土地ではレタス耕作が行われている。

移民後の苦労話も随所に織り込まれている。サンルイスオビスポ郡の農業、猿渡金蔵氏(熊本県出身)の場合は、移民としては珍しく妻を伴って1903年にハワイに渡航、サトウキビ畑で働いた。その後本土へ渡り薪割りや農園の仕事をした。「当時の労働賃金は、10時間働いて1ドルから1ドル25セントという低いもので、食物は米穀がないため、塩味だけのダンゴ汁をすするという粗末なものであった」。

以上、紹介したのはほんの一部だが、こと細かく個人について渡米から60年ごろまでの足跡がまとめられている。

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

第9回 >>

 

Read more

community ja

「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第7回 南部加州の日系人~その3

第6回 「南部加州の日系人 ~ その2」を読む >>

 ロサンゼルスに登場した幾種類もの日系人団体

 
ロサンゼルスに移住した日本人が排日の圧力など抗し、自らの権利を擁護するために「南加中央日本人会」を組織し戦争開始までその役割を果たしたことを前回紹介した。そのほか、ロサンゼルスには戦前から戦後を通じて、あるいは戦後になって経済、教育、宗教などさまざまな領域で日系人による各種団体が誕生し活動してきた。

「百年史」が細かくまとめているこうした団体の役割と活動について以下紹介したい。

その代表格「南加日系人商業会議所」は、戦後4年の1949年9月に発足がきまり、9月13日に都ホテルで第1回の理事会が開かれた。

「本会議所は優秀なる生産品、技術及びサービスを奨励し、よき市民を育成することによって南加に居住する全日系人の経済的社会的に並に一般的な福祉を増進するを以て主要な目的とする(第二条)」と、その目的が定められた。

また、その機能は商工業だけでなく、組織は通商部のほかに農業部、社会部、文化部、教育部、講演部、一般市民部、青年部などを抱えた。「日商のサービス」としては以下のようなものがあげられている。

  • 帰化申請書作成援助
  • 永住権確立手続きの援助
  • 外人住所登録斡旋
  • 故国よりの来訪者応接、案内、歓迎会開催

このほか、日本難民救済事業として終戦直後から日本の戦災難民救済のために物資や義捐金(5万ドル)を集めて発送している。また、日本に戦争花嫁を残して帰還したアメリカ人のために相談や手紙の翻訳なども行っている。

最初の理髪師は1900年

日本人による旅館やホテル経営の歴史は古く、1906年には羅府日本人旅館組合が組織された。戦前はホテルなど360軒が組合に加入、戦後1947にも400人の業者がいた。49年には「羅府ホテル・アパート組合」が結成。「諸物品の安価購入、経費削減など経済的進出を計るもので、発足以来、ランドリー、リネン、ソープなどの研究部を設けて業者の経営合理化に益した」という。

日本人の理髪店の歴史をみると1891年にサンフランシスコで西島勇という理髪師が最初に開業、ロサンゼルスでは1900年に広島県人の理髪師柳菊太郎がプラザ公園ロサンゼルス街で開業した。1910年には羅府理髪業組合が創立。39年ごろが組合の全盛時代で、80軒以上の理髪店があった。それが60年ごろには33軒となり従事者のうち二世が半数近くになっている。

同郷人の福祉につくす県人会

「日本人会に次ぐ団体」として百年史が詳述しているのが県人会組織だ。もともと社交、相互扶助などの目的で組織化された県人会だが、その後日本人会の役員選挙での選挙母体になるなど政治性を帯び、一時は県人会間の軋轢などがあった。

本来の目的にもどってから1930年代には「同県人の老衰困窮者救済や県人無縁者の葬儀などの世話」にもあたった。初期の1915年ごろまでに発足した県人会だけでも「福岡、和歌山、広島、岡山、山梨、山口、東京、千葉、長野、愛媛、熊本、宮城、福島、鳥取、沖縄、愛知、福井、茨城、岐阜、栃木、静岡、岩手、島根、大分」と数多い。

各県人会の会員数をみると、1926年の時点で最も多いのが広島で、1200人と群を抜いている。つづいて和歌山、熊本、鹿児島が各400人、福岡350人、岡山300人、福島200人などとなっている。

戦後になると、二世、三世の成長のなかで「いまさら県人会でもあるまい」という空気があったものの、「県人困窮者や葬儀の世話、郷里被災者の救援、日本からの訪問者歓迎など」で県人会の必要性が生じ1950年前後から再組織化された。再び親睦をはかるため戦前盛んだったピクニックが復活して大盛況だったという。

また、県人会という名称のほかに「○○クラブ」に改称した団体もあり、活動は活発で百年史が発行される直前の1960年時点では、20の団体が組織されている。

婦人団体では子宝の表彰も

婦人団体の発足も早く1904年には「羅府日本婦人会」が組織された。その後県人会、宗教団体などのもとにいくつもの婦人会ができた。名称を変えて戦前からつづいた「南加日系婦人会」は日米親善など幅広い活動をおこなった。

戦後の異色の事業としては「子宝母親表彰」というのがあり、南加州に居住する10人以上の子宝母親52人が表彰され、「子宝七福レコード(豊竹誉太夫吹き込み)」など賞品が授与された。

このほか団体としては、日本人が得意としていた庭園業の組合として「南加庭園業連盟」が1938年につくられた。庭園業のはじまりは1900年ごろで草刈りや芝刈りの仕事に端を発している。1905年時点の調査でロサンゼルス市内の日本人庭園業者は179人に達し、以後増加し経済的にも成長した。戦後の46年ごろにはその数は3000に達した。

このほか存在の大きいのが各宗教団体で、キリスト教関係のほか天理教、成長の家、金光教、世界救世教などがある。(仏教は別のところで紹介されている)

変わったところでは「北米百働会」なるものが59年2月に発足した。前年9月に元文部大臣で広島大学学長の森戸辰男の歓迎会が開かれその席で設立が決まった。設立のメンバーの一人には「百年史」の編集・執筆者の加藤新一がいた。

(注:敬称略。引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

第8回 >>

 

Read more