Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications.

Updated February 2008

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難民として米国移住した日本人たち その3: 努力すれば報われる国-西屋国弘さん-

その2 (宮内武幸さん)>>

ロサンゼルス空港に近いウェストチェスター在住の西屋さんは、構造設計が専門である。彼もまた難民として渡米してきた一人である。

西屋さんは鹿児島県串木野市の出身。小学校を出るとすぐに日本通運の事務所に就職した。「同じ事務所で、旧制中学を出た人と同じ仕事をしていても、学歴から来る差別がある。それが嫌だった」。そんな時、農業研修生としてアメリカを見てきた内田善一郎さんから「アメリカは素晴らしい国だ」という話を聞かされた。どんどん夢が膨らんだ。自分もアメリカに行けば将来を変えることができると思えた。

申請する少し前に鹿児島にデラ台風が上陸した。その災害が適用されて難民救済法で渡米できることになった。1956年のことだった。西屋さんは早くに父親を亡くし、母一人子一人だったが、母は「お前の将来にかかわることだから好きなようにしなさい」と背中を押してくれた ...

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難民として米国移住した日本人たち その2: 日航機が太平洋就航した年に渡米-宮内武幸さん-

>> その1 (難民移民誕生の経緯) 

難民救済法によって渡米してきた鹿児島県出身者は約300名。その中の1名が、日置郡出身、現在はモントレーパークに暮らす宮内武幸さんだ。鹿児島 では狭い土地を切り開く開拓農業に従事していた宮内さんにとって、広大なアメリカの大地での就労は願ってもないチャンスに思えた。そして、1955年10月、日本航空が初めて太平洋線を就航させた年に、宮内さんは日航機で海を渡った。

彼の目的地はサンフランシスコの内陸にあるデラノキャンプ。人手が必要なブドウの収穫期を前に、1日でも早く着くようにと、経営者が飛行機代を立て替えてくれたと言う。当時のお金で750ドルだった。

「日本では役場の日当が285円。1ドル360円の時代。つまり、飛行機代の750ドルは、2年以上の年収に相当する金額だった」

飛行機はハワイに立ち寄った後、サンフランシスコ空港に到着した ...

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難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。

事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その時、鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。

内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考えた内田は、自分以 外の若者を少しでも多くカリフォルニアに派遣させたいと望んだ ...

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「アメリカで育つ日本の子どもたち」-編著者 片岡裕子さんに聞く-

全米各地の日本語教育の実態と、補習校や日本語学校に通う日本の子供たちの意識や日本語力について調査した「アメリカで育つ日本の子どもたち」を著した片岡裕子さんは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本語学科で教授を務めている。

片岡さん自身、子供たちをバイリンガルに育てることに力を注いだ母親の一人である。

アメリカ生まれの子供たちの第一言語を日本語にしたいと望んだ片岡さんは、家庭の中での言語を日本語に統一したそうだ。片岡さんは当然日本語、アメ リカ人の夫も日本語を話す。ホームステイしていた日本人の女性も子供たちに日本語で話しかけた。カリフォルニアに移る前、オレゴンに住んでいた一家の元には、週に1度、日本のテレビ番組が送られてきた。「テレビは基本的に子供には見せない方針だったが日本語の番組だけは例外だった」と片岡さん。

子供たちに日本語を幼い頃から身に付けさせた理由を、「ネイティブスピーカーとしての勘を植え付けたかったから」と話す。「てにをは」などはネイ ティブとしての長年の勘で ...

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新二世のアイデンティティー: 補習校か、日本語学校か?

私の子供たちはアメリカ生まれの二世である。私と私の夫は日本生まれの日本人。そんな日本語を第一言語とする我が家の長男が最初に通った学校は、ロサンゼルス郊外のトーランスにある日系の幼稚園だった。この幼稚園では英語は一切使わず、徹底した日本式の幼児教育を行っている。1年後、3歳になった息子は英語のプレスクールにデビューした。当時、英語はゼロの状態だったが、何とかプレキンダーガーテン、キンダーガーテンと進級し、地元レドンドビーチ市の公立小学校の1年生になった。今から5年前のことである。

さて、この段階で、日本語教育に関する選択肢が生まれた。ロサンゼルス近郊には、日本人と日系人の人口に比例するように、数多くの日本語教育機関がある。駐在員の子弟が日本に帰国した時に困らないように全教科を日本語で学ぶのが、日本語補習校。ただし、現在は生徒の半数以上が永住家庭の子女である。日本語だけを学ぶことを目的に授業を行っているのが日本語学校 ...

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