Harumichi Yamada

東京大学教養学部教養学科卒業。東京大学大学院理学系研究科博士課程退学。理学博士。1986年、松商学園短期大学商学科専任講師、1990年、助教授を経て、1995年、東京経済大学コミュニケーション学部助教授。2006年、教授。研究分野は、社会経済地理学、地域メディア論。 ウェブサイトはこちら>>

(2010年7月 更新)

 

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その4

>>その3戦後-使命の終わり1945年(昭和20年)8月17日付(7394号)と、3日後の20日付(7395号)の間には、大きな断絶がある。17日付までの『ユタ日報』は、普通の日本語新聞と同じように右綴じの形をとっていた。ところが、20日付以降、終刊までは、縦書きの新聞には本来馴染まない左綴じの形が採用されることになったのである。その間の事情は、よくわからないのだが、何とも象徴的な変化であるように思われる。 太平洋戦争が日本の敗戦で終結すると、『ユタ日報』には、敗戦国となった祖国=日本の状況を報じる記事が、次々と掲載されることとなった。最初は通信社記事が主だったが、やがて日本に駐留した二世兵士がもたらす情報が紙面に載るようになった。程なくして、日本の窮状を知った日系人の間から「祖国救済運動」が起こると、『ユタ日報』はこれを支援する呼掛けを積極的に行った。 しかし、収容所が閉鎖され、西海岸への日系人の帰還が本格化し、日系新聞が復刊したり、新たに創刊されたりし始めた1946年(昭和21年)から翌年にかけて、『ユタ日報』は戦時下で獲得した読者を一挙に失い、各地の「支社・支局」も消え去ってしまった。残された部数は2,000部余り。これは『ユタ日報』が、元々の地域紙に若干の部数を上乗せした新聞となったことを意味している。これ以降、終刊まで、世代交替が進むとともに部数は徐々に減少した。戦後の…

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その3

>>その2戦時下における部数拡大と広域化1941年(昭和16年)12月7日(日本時間8日)の真珠湾奇襲は、まず8日付(6852号)で伝えられた。この日、ユタ州知事は州内の日系人を外出禁止処分とし、銀行の預金も凍結された。こうした状況の下で、10日付(6853号)が発行され、一面の論説が一世二世の協力を説き、冷静な行動が呼びかけられたが、社員の出社もままならず、合衆国内の日本語新聞がすべて発行停止処分とされる状況の下、『ユタ日報』の刊行も、一旦は停止してしまった。國子が上坂に語ったところによると、11日の午後にFBIがやってきて、社屋の封鎖と「許可があるまでの発行停止」を命じたという(上坂・1985、137頁)。また、発行停止期間中には、軍の監視下で秘かに日本語文書の印刷を命じられることもあった。 日米開戦という危機的状況の下で、行動の自由を奪われた上、日本語新聞が停刊するという事態は、大方の一世にとっては情報がほぼ完全に遮断されてしまうことを意味していた。開戦後、米国政府当局(連邦政府、州政府、軍、等々)は、一世を含めた日系社会に対して多数の告知・命令を発したが、その内容を十分に伝える仕組みは失われていた。1942年(昭和17年)に入ると、指定された軍事地域の敵性外国人に退去を命じる権限を、陸軍に与える、とした大統領令9066号が、2月19日に発令された。これを受けて、西部防衛軍…

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その2

>>その1 畔夫から國子へ寺澤畔夫は、事業家として様々な事業に手を伸ばしたが、同時にコミュニティの名望家としても熱心に活動していた。初期のユタ州日本人会や、山中部仏教会などの組織化に尽力するとともに、二世への日本語教育や日本軍への献金運動に関わるなど、寺澤の手腕は、日系社会のリーダーとしても相当のものであった。当時の日系社会の中には、キリスト教と仏教、定住志向と出稼ぎ、同化志向と日本志向といった様々な軸に沿っての対立関係が存在したが、その中で寺澤は、定住志向ではありながら、仏教徒として、日本人として生きることを選択し、自らの位置を定めていったのである。 1921年(大正10年)、日本に一時帰国し、飯田に帰省した寺澤は、村松國と結婚、二人は年末に日本を離れた(米国への入国は新年に入ってであった)。村松國(後に「國子」と名乗る)は、1896年(明治29年)7月8日、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に生まれ、飯田高等女学校から東京の共立女子職業専門学校(現在の共立女子大学の前身)被服科に学び、母校の高等女学校で裁縫の教師となっていた。畔夫と國子の間には、1926年(大正15年)に長女・和子、1932年(昭和7年)には次女・治子が生まれた。 ところで、当時、日本人移民の一世は、合衆国市民権を与えられず、州によっては土地所有が制限されるなど、定住化には多くの障壁が存在した。それでも20世…

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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その1

北米における日系新聞は、1886年(明治19年)にサンフランシスコで刊行された『東雲雑誌』に遡る歴史があり、また、邦字紙ではないものまで含めれば、現在でも10紙ほどが発行されている(ハワイを加えるとさらに5紙ほど増える)。 こうした歴史的な広がりの中で、米国ユタ州ソルトレーク市で刊行されていた『ユタ日報』は、(1)戦前や戦時中も含め、近年に至るまで長期間にわたり発行が継続され、資料の散逸が防がれたこと、(2)元来はソルトレーク市などユタ州の地域紙であったものの、太平洋戦争の期間には、各地の収容所を含め全米の日系人社会に読者を持ち、実質的な「全国紙」であった時期があったこと、などから、北米日系新聞の研究上、重要な事例として注目されてきた。 このため、『ユタ日報』については、既に様々な文献の蓄積がある。『ユタ日報』が広く一般的に知られる契機となったのは、上坂冬子(1985)『おばあちゃんのユタ日報』であった。これは、当初『信濃毎日新聞』に連載された「信州女のユタ日報」を加筆・改題したもので、寺澤國子へのインタビューの成果を軸に、戦時中までの歴史と紙面内容に重点を置いて『ユタ日報』を紹介したものである。同書は後に文庫化されるなど、良質のルポルタージュとして広く影響力をもった。 学術的研究文献としては、1981年から日系新聞研究会を組織し、北米日系紙の研究に精力的に取り組んできた田村紀雄…

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