Toshimi Tsuruta

静岡県浜松市出身。桜美林大学経済学部卒。浜松学院大学日本語教師養成講座修了後、JICA(国際協力機構)日系社会シニアボランティアとしてブラジル国アマゾナス州マナウス市に派遣。2010年から2013年まで西部アマゾン日伯協会を中心にアマゾナス州、アクレ州、ロライマ州、ロンドニア州の日本語教育機関にて活動。帰国後はJICE(一般財団法人日本国際協力センター)の日本語教師として就労準備研修を担当する一方、地元浜松市のFM Haro!で在日外国人も楽しめる日本語とポルトガル語の番組『AMIZADE HAMAMATSU』のパーソナリティとして、またプロフェッショナルバスケットボールチーム『浜松・東三河フェニックス』のアリーナDJとしても活動中。

(2015年6月 更新)

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アマゾンのジャングルに観た日系社会

マナウスで行われている定期的な日本の行事

ある日のこと。日伯の事務所で仕事をしていたら、御年80歳を超えるアマゾンの生き字引川田さんが声をかけてくださった。

「来週、運動会だからその賞品の買い出しにつきあってくれんか。」

我々は川田さんの車に乗り込み、セントロを目指した。

数日後、市内のゴルフ場マナウスカントリークラブでは熱帯特有の熱い熱い日差しの下、運動会が行われた。参加したのは日系人、日本人、そして近所に住むブラジル人。我々が勝ってきた賞品は無事にそれを心待ちにしていた多くの子供たちの手に届くことになった。ブラジルのみなさんは、賞品、景品、プレゼントを贈るのも貰うのも大好きで、ビンゴゲームはいろいろなイベントな中でも最も盛り上がるのだ。大音量で美空ひばりが流れる原っぱで大人も子供もみんな楽しそうに競技に熱中している。

中学校を卒業して以来、運動会というものにまともに参加した経験がなかった私は、地球の反対側、赤道から南に3度ほど下った熱帯雨林の中で古き良き時代の運動会が行われていることに衝撃を受けた。瓶釣りに借り物競争に玉入れ、綱引きに徒競走。流れるBGMが懐かしい昭和の時代へと呼び戻してくれる。

ここでは運動会だけではなく、成人式、ひな祭り、こどもの日、七夕、そして敬老の日に盆踊りなどのイベントが毎年きっちりと行われている。現代の日本人が忘れつつある年中行事がしっかりと守られているのだ。

ひな祭りの日は西部アマゾン日伯協会日本語学校子どもクラスの先生たちが中心になってその日を祝う。マナウスでは決して安くない「ひなあられ」を食べ、子供たちと一緒にひな祭りの歌を歌い、折り紙をしたりリクリエーションをしたり。何段飾りだろうか、大変豪華な雛人形もこのイベントに花を添える。

毎年8月は盆踊りのシーズン。マナウス付近にはいくつかの日本人入植地が点在しているため、週替わりで3回ほど盆踊りや花火を楽しむことができた。第一週はエフェジェニオサーレス、第二週はベラビスタ、第三週は日伯とこんな感じだ。

盆踊りが行われる前には慰霊式が行われる。サンパウロのお寺からお坊さんを呼び読経をお願いし、全員で戦前戦後、この秘境に日本から渡り尽力された先人に対して鎮魂の祈りを捧げるのだ。ブラジル国内で行われる行事はキリスト教の影響を受けたものが多く、移住者のみなさんの中にも改宗された方が大勢いるが、この慰霊式は仏教にのっとって行われている。「緑の地獄」とも表現された過酷極まりない環境の下、マラリアやデング熱などの病気や不慮の事故でお亡くなりになった移住者も大勢いる。

盆踊りの会場には、現地の日本企業の提供で作られた紅白の提灯が飾られ、巨大なやぐらの上に太鼓も設置される。

まずは、この地に古くから住んでいる一世・二世のご婦人方がおしゃれな浴衣姿で上手に踊り出すと、見様見真似でブラジル人もそれに続いて踊り出す。炭坑節や東京音頭などの日本でもおなじみの曲、ドラえもん音頭や相川七瀬、チェッカーズの曲でもみなさん上手に踊るものだ。

ブラジル人は浴衣の着こなしが多少変でも構わない。みんなの顔に笑顔が溢れ、夜が更けるにつれて踊りの輪はどんどん大きくなっていく。大自然の中、アマゾンの盆踊りはこうして夜遅くまで続いていく。

カントリークラブの運動会。日本から40日、50日もの船旅でやってきた一世のみなさんもブラジルで生まれた二世・三世のみなさんも日本に全くルーツを持たない現地のブラジル人もみんな一緒になって炎天下のグランドを駆けぬける。本気モード全開で戦った後は、笑顔が笑い声があふれる。

ジャングルの中の盆踊り。日本からの駐在員もブラジル人の若者も太鼓の周りで一緒になって踊る。屋台に並ぶのはブラジル焼肉にペルーのセビーチェ(マリネ)、そして日本の饅頭。ジャングルの空、漆黒の闇に浮かぶ大輪の花火をビール片手に川田さんが見ながら呟く。

「おお。今年の花火はなかなか迫力があっていいですねえ。」

運動会に盆踊り、日本人移民が持ち込んだ文化のかけらは、日本とブラジルの間を結ぶ素晴らしいコミュニケーションツールになっている。

 

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アマゾンのジャングルに観た日系社会

個性豊かな日本語学校の生徒たち

アマゾナス州マナウスにある西部アマゾン日伯協会(通称:日伯)に日本語教育のシニアボランティアとして派遣された私は、まず毎週行われている約40もの日本語の授業を見学することにした。ひらがなの書き方や読み方に苦戦するものから流暢な日本語で話しかけてくるものまでそのレベルはさまざまだったが、誰もが日本語を日本文化を楽しんで学習する姿が印象的だった。

教室の明るい雰囲気を作る現地の教師陣の努力も彼らの好奇心ややる気に繋がっている。

日本のことをもっと知ってもらいたいという配慮から、日本地図や日本のカレンダー、折り紙や挨拶の仕方を表したイラストなどがそれぞれの教室に貼られていて、その雰囲気の中で楽しい授業が展開されている。

日本の伝統的な花火の風景や、紅葉、新幹線、富士山、京都の景色など、高品質の紙を使った日本のポスターやカレンダーは、日本行きを夢見る生徒の好奇心をくすぐることに一役買っている。

また、アニメが好きな先生の教室には壁一面に派手なポスターが飾られていたりもした。アニメキャラクターたちの視線を浴びながら集中して勉強ができているかは疑問だが…。

さて、生徒たちの日本語学習の目的は様々だ。ここには、年齢も背景も全く異なる生徒が集まっている。

地元の日本企業で働いているものは日本人駐在員との距離を縮めたいと教えてくれた。会議で使うような高いレベルの日本語を必要としているものから、単に日本人社員とのコミュニケーションを求めるものまで、その目的はいろいろ。実はマナウスには30以上の日本企業が進出しているのだ。

また、ある生徒はアマゾン川観光の拠点であるマナウスで日本人観光客を相手にするため、フランス語やドイツ語スペイン語などと同様、日本語もマスターしたいと話してくれた。彼はアマゾン川のほとりにある観光地ポンタネグラでアクセサリーを売っている。

そして、圧倒的に多かったのがティーンエイジャーの学習者だ。近年世界中でブームになっているアニメの影響でJ-popや映画、コスプレなど、日本のサブカルチャー文化のファンも多い。彼らは日本に対して非常に強い憧れを持っていてお気に入りのマンガやアニメのTシャツを着て教室に現れる。

今の世の中、ネットを使えば世界中どこにいても簡単に情報を得ることができるわけで、彼らのアニメやマンガに対する知識は我々の想像を遥かに超えている。『Naruto』『One Piece』『聖闘士☆星矢』などはポルトガル語でも放送されているためほとんどの若者が知っているのだ。また、『ジャスピオン』『チェンジマン』『ジライヤ』などなど日本人にはほとんど馴染みのない特撮ものがブラジルでは人気があることにも驚かされた。

ある日、日伯の日本語教室で浜松から戻ったという小学生の兄弟に出会った。彼らは、数年間日本の公立小学校に通っていたので流暢な日本語を話すことができるのだが、せっかく覚えた日本語を忘れないようにするため勉強を続けるのだという。

ブラジルには日本からの出かせぎ帰りの人たちが大勢いる。日本で楽しい思い出を作ったものもいれば、馴染めなかったものもいる。日伯に通う生徒たちはほぼ親日家でまた戻りたいと考えているものも多い。

日系人の妻として日本で数年間暮らしたあるブラジル人女性は、離婚をきっかけにブラジルに帰国した。日系人の家族の一員ではなくなったのでもう簡単には日本に行くことはできないが、日本語の授業が楽しいので毎週クラスに通っている。

あるクラスでは仲良く日本語を勉強する30代のご夫婦と知り合った。旦那さんは日系人で少しだけ日本語を話すことができるが、奥さんは現地のブラジル人で全く日本語が話せない。「どうしてご夫婦で勉強することにしたの?」と尋ねてみた。「主人の母は日本からの移民でとても私に優しくしてくれるんです。家の中で彼女が使う日本語を私も理解したくて勉強を始めたんです。」彼女は笑ってそう答えた。

日系人と一口にいっても人生いろいろ。これからもこのコーナーで様々な形で繋がる日本とブラジルの姿を紹介していきます。

 

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アマゾンのジャングルに観た日系社会

マナウスの日本語教室

2010年3月からスタートした国内での事前研修を終え、7月1日に成田からニューヨーク経由でブラジルに飛んだ我々日系社会ボランティアは、サンパウロでも一カ月間のポルトガル語現地研修を受けた。この研修が終われば、ついにブラジル全土にある各活動先に派遣され、それぞれの活動が始まるのだ。リオデジャネイロ、カンポグランジ、ブラジリア、フォスドイグアスなどブラジル各地に仲間が旅立っていく。

7月23日。私も国際都市サンパウロの喧騒から離れ、無事にアマゾン地方最大の空港エドゥアルド・ゴメス国際空港に到着した。所要時間は約4時間。日本からならちょっとした海外旅行ができる距離だ。日本の23倍もの国土を誇るブラジルだけあって国内での移動にも結構な時間を要することになる。

ジャングルの中の街と言ってもマナウス市は人口200万を誇る近代的な大都市である。市内には世界中から200社、日本からも30社もの企業が進出しているブラジル最大の工業団地もある。空港から市内中心街へと伸びる幹線道路は綺麗に整備されていて、目まぐるしく車が、トラックが、路線バスが行き交っている。青い空と道路の両脇に並ぶヤシの木の緑が目に眩しい。それにしても凄まじい紫外線だ。

渡伯前にYouTubeなどの動画サイトでマナウスの様子はチェック済みだったが、空港を出た瞬間に容赦なく頭から照り付けてくる熱波のシャワーには驚いた。空港には、西部アマゾン日伯協会の会長である錦戸先生の他、事務局長の木場さん、副会長の高山さんが出迎えに来てくださった。錦戸先生と木場さんは戦後移民の一世、高山さんはサンパウロ出身の三世である。

アマゾンの日系社会は、戦前のアマゾン移民、戦後のアマゾン移民、サンパウロ州やパラナ州、パラー州から移り住んだもの、日本企業で働く駐在員とその家族、彼らの子弟が通う日本人学校のみなさんなど様々な背景を持つ人たちで構成されている。一世の移住者が二世の移住者と結婚することも珍しくないので、移住者も単純に二世、三世と区分できないほど複雑に関係が絡み合っているのだ。

到着した日のことは、まだ鮮明に覚えている。西部アマゾン日伯協会の教師陣が歓迎会を開いてくださったのだ。簡単な自己紹介をし、キビ、コシーニャ、バステルなどサウガジーニョと呼ばれるブラジルのスナックや料理をご馳走になった。

当時、西部アマゾン日伯協会の日本語教室には約500名ほどの生徒が日本語の勉強をしていた。広いブラジルと言えども、これだけの規模の生徒を集めている団体は珍しい。学習者のほとんどが地元出身のブラジル人で日本のルーツを持っていない。移民の国という異名をとるブラジルの歴史の中にはインディオ、ポルトガル人、スペイン人、アフリカからの奴隷、中国人、イタリア人、ドイツ人、日本人と様々な人種が登場する。そのすべてをミックスしたのがブラジル人なのである。日本人の特徴は、髪が黒くて、肌が黄色くて、小柄だと、比較的簡単に表すことが可能だが、彼らの身体的特徴は一言で表すことができない。色が浅黒いブラジル人もいれば、金髪で青い目のブラジル人もいる。他にもインディオ系、東洋系のブラジル人というのも決して珍しくないのだ。

西部アマゾン日伯協会の日本語教室においては、日本にルーツを持つ学習者は全体の20%程度だろうか。逆に教師陣は80%が日系人で、日本での出稼ぎ経験があるものや移民の子弟などを中心に構成されている。クラスはこどもクラスと大人クラスの2種類。大人クラスは初心者クラスから日本語能力検定試験受験者まで9つほどのレベルに分かれている。それぞれのレベルにあった日本語学習を週に3時間ほど行い、半年ごとに次のレベルにステップアップしていくという仕組みだ。教師陣は日本やサンパウロなどで実施されている研修に参加し、日々わかりやすく楽しい授業を心掛けている。『授業は楽しくなければはじまらない!』これは、西部アマゾン日伯協会会長であり日本語教室の校長である錦戸健先生のモットーである。

歓迎会の時、隣に座った一人の先生が屈託のない笑顔で話しかけてきた。「はじめまして!ホナンです。浜松から来たんですね。ぼくも住んでいたんです。浜松の北区には、まだ両親が住んでいますよ。」彼の一家は出稼ぎ者として日本に住んでいるという。さすが浜松はブラジル人居住者ナンバーワンの街だ。その一言でマナウスと浜松の縁を感じつつ、先生たちの優しい笑顔に新生活への不安はすーっと消えていった。

 

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アマゾンのジャングルに観た日系社会

熱帯の街マナウスに行く

「あった!あった!本当にあったぞ!」

2010年5月。私は神奈川県横浜市にあるJICA横浜の移住資料館にいた。平成22年度日系社会シニアボランティアとしてブラジル国マナウス市に派遣が決まったのだ。南米への派遣前、隊員たちは3カ月の事前研修を行う。私もボリビア、アルゼンチン、パラグアイ、ドミニカ共和国そしてブラジルで活動をする仲間たちとともにJICA横浜の研修センターで共同生活をしていた。毎日4時間から5時間のポルトガル語の授業に移民の歴史、継承日本語とは何かなどさまざまな種類の講義を受けながら、毎週金曜日には狂犬病に黄熱病などの予防接種なども打ち、出発の時に備えていたのだった。

研修所の中にある移住資料館には、戦前戦後の日本人移民の膨大なデータが揃えられている。

実は、私の祖父鶴田潔は1902年4月23日アメリカ国カリフォルニア州フレズノ市で生まれている。恥ずかしながら、JICAの研修を受けるまでは『祖父はアメリカで生まれたのだ』という事実以外特に気にしないで生きてきた。しかしここで移民の歴史を勉強するうちに、『彼が明治時代にアメリカで生まれているということは紛れもない移民の子ではないか、私の身体の中には移民の血が流れているんだ』ということを認識し、ある日、そのルーツを調べてみようと思い立ったのである。

祖父は牧師として戦中を浜松市で過ごし、晩年は三重県伊賀上野の教会で布教活動に努めた。2001年6月30日、99歳の生涯を終えることになるのだが、最後の時まで勉強熱心で信仰心の厚い愛すべき人物だった。

JICA横浜の移住資料館でアメリカ西海岸の教会史について調べていくと、『北米宣教八十五年周年記念誌』(南加基督教教会連盟出版部発行)また、『在米日本人基督教五十年史』という書籍の中に潔の父、つまり私の曽祖父である鶴田源七の名前が突然現れた。彼はシアトル日本人メソジスト教会の初代牧師(1904年・明治38年)として年表にその名が記されていたのだった。

曽祖父源七がそんな重要人物だったなんて…。興奮してその日は浜松の実家、東京の叔母に電話をかけてこの嬉しい知らせを伝えた。自分のルーツを移民の歴史の中に見つけた瞬間を私は決して忘れることはないだろう。人生の中の数年間、遠いブラジルの地で日本人移民が守り続けている継承教育をサポートする仕事に就くことになったのも天国からの導きだったような気もする。

さて、私が生まれ育った静岡県浜松市はオートバイや自動車、楽器などのメーカーが立ち並ぶ工業都市である。80年代初頭から始まった南米からの空前の出稼ぎブームによって、ピーク時には3万人を超える外国人労働者が浜松市に溢れた。南米人にとっての『ハマ』は横浜の『ハマ』ではなく、浜松の『ハマ』と呼ばれるほど、この時期を境に静岡県浜松市は、群馬県太田市や愛知県豊田市とともに日本を代表する外国人集住都市に成長していく。

当時、この街でミュージシャンとして音楽活動をしていた私は、随分と外国人の友達に助けられた。作詞・作曲の手伝いやビデオ制作にライヴスペースの確保など外国人のアミーゴたちは常に敬意を払ってくれ、その気持ちが本当に嬉しかった。お返しに外国人の彼らに何かできることはないだろうかという思いから、仕事をしながら一年間通い続けた浜松学院大学での日本語教育の勉強の中で、だんだんと彼らが置かれている差別や偏見に満ちた状況にも向き合わざるを得なくなってきた。そんな中である思いがムクムクと私の胸の中で大きくなっていったのだ。

『浜松にいるブラジル人たちを生み出した国というのはいったいどんなところなんだろう。実際にこの目でその国を見て感じてみたい。そして、いつか彼らの力になることができたら…』

そんな気持ちで私はJICAの日系社会シニアボランティアに応募した。1年目は不合格だったが、市内のブラジル人学校や公民館でのボランティア活動、ブラジル児童の高校受験対策などさまざまな活動を経て2年目に合格。2010年7月1日からブラジルに派遣されることになったのである。

合格通知とともに送付されてきた派遣先の情報にはアマゾナス州マナウス市とある。遥か昔に中学の世界地理で習ったマナオスのことだろう。熱帯のジャングルに位置するこの街には果たしてどんな世界が待っているのだろうか。私の胸は期待と不安と嬉しさで爆発しそうだった。

 

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