Laura Honda-Hasegawa
Born in São Paulo, Brazil in 1947. Worked in the field of education until 2009. Since then, she has dedicated herself exclusively to literature, writing essays, short stories and novels, all from a Nikkei point of view.
She grew up listening to Japanese children's stories told by her mother. As a teenager, she read the monthly issue of Shojo Kurabu, a youth magazine for girls imported from Japan. She watched almost all of Ozu's films, developing a great admiration for Japanese culture all her life.
Updated May 2023
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 27 Feb 2024
27歳の誕生日にハナは結婚した。相手は3歳年下のエイジと言うハナの同級生の弟だった。
半年前、その同級生はハナを訪ねて来た。弟が日本へ出稼ぎに行くことになったが、出稼ぎに行くなら結婚してから行った方が良いと言うことになり、お嫁さん探しをしているという。同級生はすぐにハナのことを思い出し、会いに来たのだった。
2年ほど前に失恋したハナは、結婚話にはあまり関心がなかったが、、憧れの日本で暮らす機会だと思い直し、エイジと会うことにした。それからふたりは付き合い始め、日本へ出発する予定日が迫っていたこともあり、その数か月後には式を挙げた。
二人の新婚生活は日本で始まった。二人は同じ工場で働き、休みには一緒に街へ出かけた。エイジはデカセギの仲間と釣りに行き、ハナは日本語教室に通った。
2年後に長女リナが生まれた。しかし、この妊娠がきっかけで、ハナは高血圧症になった。心配した母親は、ブラジルから急遽手伝いに駆け付けて来てくれた。
母は孫が生後3か月になるくらいまで日本に滞在する予定だったが、ある日突然、エイジが仕事を辞めてしまった。
一見健康そうに見えたが、エイジは精神的に参っていた。ストレス症候群と診断された。工場での仕事を続けるのはとても無理だと言われ、エイジはブラジルへ帰りたいと言い出した。
ハナはショックのあまり寝込んでしまった。夫に日本で治療を受けるようにと頼んだが、…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 16 Jan 2024
尾崎家は大家族だった。長男と次男は結婚し、実家でそれぞれの家族と両親が皆一緒に暮らしていた。
その家で、富士子は生まれた。孫息子3人を持つ祖父は日本の女優の山本富士子の大ファンだったので、初の孫娘に富士子と名付けた。「山本富士子のように美しくて人気者になるといいな」と、家族は期待した。
富士子は明るい子に育った。しかし、高校一年生のとき、クラスメートの男子に「おまえ、オザキと逃げたんだってなぁ?」と、冷やかされた。
実は「フジコ・オザキ」は、ポルトガル語で「わたしはオザキと逃げた」という意味に聞こえるのだ。それで、クラスメートのこの冷やかしに、皆、大笑いした。
授業中だったので、先生は何が起こったのかと聞いた。出しゃばりのマルセロが「フジコ・オザキ」の発音の面白さを説明した。
先生は「日本人の名前って本当に面白いね」と言いながら、授業を続けた。
以来、富士子は自分の名前が嫌いになった。クラスメートと先生も大嫌いになり、翌年、ついに転校した。
新しい学校でも、自分の名前のことを言われたり「ジャポネザ1」と呼ばれると、とても嫌な気持になった。が、辛抱して高校を卒業した。
その後、両親の反対を押し切って、リオデジャネイロのダンススクールに入学した。そしてプロのダンサーになった。
富士子は、芸名「アンジェリカ」という名で活動した。髪はブロンドにし、ブラジル人のようなゴー…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 30 Jun 2023
前編を読む>>
3年ぶりにブラジルへ戻ったパウロは、日曜日、子供のころから通っていた教会へ一人で向かった。
パウロの家族は教会へ行く習慣がないので、「父さんと母さんはイビラプエラ公園へジョギングに行き、妹たちはまだ寝てるにちがいない」と思っていた。
アーチ型のドアとステンドグラスの窓の教会を久しぶりに見て、懐かしく思った。中に入って、先に来ていた祖母に挨拶をして、横に座った。
礼拝が始まり、讃美歌の時間になった。よく見ると、オルガンの演奏者は妹のカレンだった!しかも、父親と母親と妹のエリカが20人ほどのコーラスに参加していた。
驚いて横を見ると、おばあさんはパウロを見て微笑み、再び讃美歌の美しい音色に聞きいった。
礼拝後、教会のメンバーと食事を共にしているとき、父親は言った。
「パウロが無事日本で3年間を過ごせたこと、家族が健康で元気で居られること、全ては神様のお陰だ。心から感謝している。今は家族で神様に仕えることが、最大の喜びとなっているんだよ」と。
「なるほど。カレンが言っていた『ビッグニュース』とは、このことだったのか。神様、ありがとうございます」と、パウロは感謝した。
神学校を中退して日本へデカセギに行ったパウロだが、また神学の勉強を始めることにした。教会の奉仕活動にも積極的に参加した。学校や日系人会から、日本での体験談を話してほしいと頼まれた。日本で働…
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デカセギ・ストーリー
- By Laura Honda-Hasegawa
- 20 Apr 2023
パウロは中学生のときから心に決めていた。「高校卒業後は、神学校へ入学し、宣教師になる」と。
両親はクリスチャンではなかったが、父方のおばあさんの影響で、パウロはクリスチャンの教育を受けた。
日曜日の朝は、バスに30分乗っておばあさんの家に行き、そこからおばあさんと2人のいとこと一緒に教会へ通った。礼拝は、大人の礼拝と子供の礼拝に分かれていたが、正午になると、皆、食堂に集まり、食事を共にして、楽しい時間を過ごした。特に、パウロは皆と話しをするのが大好きだった。
パウロは、サンパウロの郊外に家族と住んでいた。自宅のある地域は、あまり安全な地域ではなかったが、サンパウロ市内へ家を購入するのは難しかった。
父親はサンパウロ市内にある印刷会社を経営していたので、毎朝早く、車に乗って家を出た。パウロが念願のサンパウロの神学校へ通い始めると、父親と一緒に朝早くに車で学校へ向かった。
ある朝、いつものように車で家を出た二人は、バイクに乗った2人組に襲われた。父親がバイクを振り切ろうと角を曲ると、もう1人の男が突然現れ、父に銃を向けた。父とパウロは抵抗をせずに、すぐに車から降りたが、父は足を撃たれ、3人組は車を奪って逃走した。
パウロは父親をすぐに病院へ連れて行ったが、父の足は完全には回復せず、一人で歩くことができなくなってしまった。以後、家族の生活は一変してしまった。
結局盗まれた…
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オハヨウ・ボンディア II
- By Laura Honda-Hasegawa
- 20 Mar 2023
わたしがまだ小さい頃、「ラウラのおばあちゃんは遠くに住んでいるのよ」と、母は写真を見せてくれながら、おばあちゃんのことを話してくれました。そして、12歳のとき、初めておばあちゃんの家を訪ねました。
祖父母、独身の叔父4人、おばあちゃんが預かっていた孫娘2人、同じ敷地に家を建てて暮らしていた叔父夫婦と5人の子ども、つまり、いとこだけでも7人も居ました。
サンパウロから10時間以上かけて、ようやく母と私が着くと、玄関で待っていたおばあちゃんが私の方に駆け寄って来て、強く抱きしめてくれました。「ラウラ!!」と、涙ぐんで言いました。私は緊張と感動と驚きのあまり、「おばあちゃん!!」と叫びました。
その瞬間、周りに集まっていたいとこたちがゲラゲラと笑い出しました。「もう遅いから寝なさい」と、大人たちに言われ、皆、家に入って行きました。
翌日、食卓を囲むいとこたちが、「バッチャン、バッチャン」と呼び、おばあちゃんに、もっとパンが欲しいとか牛乳は嫌いだとか言っているのを聞き、昨夜、私がどうして笑われたのかが、分かりました。
60年前のエピソードですが、、当時の日系人が家庭では「バッチャン」と呼ぶのが普通で、私は知らなかったのです。
当時、非日系人が使う日本語の言葉は、「アリガトウ」と「サヨナラ」ぐらいでした。子どものころ、ブラジル人はこの二つの言葉の発音を真似して、ふざけていたのを…
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