Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications.

Updated February 2008

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第6回 沖縄と本土の気質を融合しアメリカでビジネス展開中

FAMIMA! CORPORATION エグゼクティブ・バイスプレジデント
糸数剛一 (いとかずごういち) さん / 沖縄生まれの駐在員

全米展開を推進している日本生まれのコンビニエンスストア、FAMIMA! の糸数剛一さんは、沖縄ファミリーマートからの派遣駐在員。19年前に沖縄ファミリーマートに入社した当時、20店舗だった県内の出店数をその後200に まで広げた手腕を買われ、アメリカのFAMIMA! を立ち上げるため2007年1月にロサンゼルスに赴任してきた。

「4年ほど前に視察目的でロサンゼルスに滞在したことがあります。その時に、ロサンゼルスは沖縄の雰囲気に非常に似ているという印象を持ちました。 沖縄移民が多く住むのも納得できます。沖縄は米軍基地を中心にした街作りが行われているので、道路や建物の感じまで、西海岸のそれによく似ているんです。 私自身 ...

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第5回 アメリカ人の心つかんだ沖縄秘伝の空手 

劉衛流パンアメリカン・チーフインストラクター
新城友弘さん沖縄生まれの新一世


沖縄空手の一流派である劉衛流 (りゅうえいりゅう)。1979年から現在まで数千人のアメリカ人に指南してきたのが、劉衛流の南北アメリカの頂点に立つ新城友弘さんだ。

UCサンディエゴ内の道場を訪ねると、黒帯の門弟が6人集まっていた。道場に入る時は「押忍」、練習では「気をつけ」「正座」「先生に礼」といった日本語が用いられる。

新城さんに師事して16年になるオフィラ・バーグマンさんは「5歳の時から日本式の空手を習っていました。でも、新城先生に出会ってすぐに沖縄空手 の魅力にとりつかれました。日本の空手は攻撃と受け身が1対1の割合ですが、沖縄空手、特にこの劉衛流では一つの動作に対して二つの動作を繰り出すことも ...

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フォーラム通じ「ウチナーンチュの交流」呼びかける

2008年3月1日、全米日系博物館のホールに二百名ほどの聴衆が集まった。お目当ては「沖縄出身者のグローバルネットワーク」と題された公開フォーラムだった。

沖縄からの海外移民の背景を説明したのは、琉球大学教授の金城宏幸さん。「経済が困窮していた沖縄に、少しでも多くの海外からの仕送りを得るため、 19世紀末から出稼ぎが目的の移民が促進された。第二次大戦敗戦後は、海外のウチナーンチュコミュニティがまさにライフラインだった。アメリカ、ペルー、アルゼンチンなど各地から、お金だけでなく食糧、衣服が送られた。彼ら、海外のウチナーンチュは自分たちの故郷再建のためにできるだけのことをした」

1990年に第1回の世界ウチナーンチュ大会が開催された。回を追うごとに参加者は右肩上がりで増加を続け、2006年の大会には5000人が集まった。参加者は必ずしも沖縄にルーツを持つ人ばかりではなく、沖縄出身者の子孫は7割という数字だった。会場に映し出された大会の映像からは ...

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日系ペルー人の終わらない戦後 その3: ペルー政府を許すことが出来ない: 親川八重さん

その2 >>

4歳の時に家族と共にペルーからアメリカへ渡った中松さんと違い、第二次大戦中、親川八重さんは既に結婚して夫の経営するリマの市内のマーケットを 手伝っていた。親川さんは1918年沖縄生まれ。結婚相手の暮らすペルーに渡り、数年が経っていた。夫が連行されたのは昼休みのことだった。突然ドアを ノックする音がして、夫と夫の兄の名前が呼ばれた。そのまま警察署に連れて行かれ、二度と家に戻ることはなかった。

夫が消えてもペルー政府からは何の連絡もなかった。「残された家族はそれはもう心配した。でも、多分アメリカに連れて行かれたのだろうと想像はして いた。ペルーの新聞もアメリカと結託していたのか、消えた日本人について記事にすることはなかった。私には子供がいなかったので店の仕事に専念することができた。それでも、ペルーの役人が店にやって来て、売上金を全部持ち去った ...

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日系ペルー人の終わらない戦後 その2: この国で生きていくのに必死だった: マイク・中松さん

>> その1

カリフォルニア州サウストーランスの自宅で出迎えてくれたマイク・中松さんは1938年のリマ生まれ。沖縄出身の日系2世だ。検眼医を引退した現在 は、夫人のアイコさんと海外旅行するのが楽しみだと話す中松さん。その穏やかな表情から、ペルーからの強制連行と収容所生活、アメリカに残留して家族でゼロからの出発を余儀なくされた過去を読み取ることは難しい。

両親はリマ郊外で食料品店を経営していた。ペルー日系社会での実力者でもあり、日系人が稼いだお金を日本本国へ送金する組織の役員も務めていた。

第二次大戦中のペルーでの日本人狩りの対象となった中松さんの父親は、1943年、突然、家族の前から姿を消した。翌44年に母親と6人の子供たちは、父が待つアメリカ、テキサスのクリスタルシティー収容所に向かった。収容所の中の学校に進学し、生活言語はスペイン語から英語に切り替わった。戦争が終わった後は、日本へ帰る選択肢もあったが、母親が反対した ...

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