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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その5/8

その4>>

木内春波(貞勝)の「おもかげ」(45年7、8月号)は、初恋に破れて転落の人生を送った男が老人となって収容所の病院で死の床に横たわるとき、優しい看護婦に出あう。それはかつての恋人の娘だと分かるが、真実を明かさずに死んで行くという物語である。文章もしっかりしていて、物語の運びも手なれたものである。木内は当時40代、若い頃文学青年だったが仕事に追われてものを書く暇がなく、収容所でやっとその時間を与えられたという。「技師長」(44年10月号)は、変り者といわれた隣人の一世が行方不明になり、部落の人びとが捜索隊を組織して砂漠の中を探し回るが、ついに見つからなかった事件について書いたものである。たぶんこれは事実にもとづいたものであろう。老一世の中には絶望のあまり自殺したり、精神が不安定になり、柵の外へ出て行方不明になる者がどの収容所にも必ずいたようである。木内にはほかに多数の詩と自由律俳句の作品がある。

真澄丘と阿世賀紫海(阿世賀真澄)は同一人物で、ハートマウンテン収容所からの寄稿である(『ハートマウンテン文藝』解題参照)。4編の随筆はいずれも他人を理解し、何事も善意に解釈すれば世の中はもっと住みよくなるという教訓を盛り込んだものである。ほかにハートマウンテンでの生活を俳句で綴った「流転の生活」(44年8月号)および詩「旅の歌」(44年11月号)がある。

羽根政春は戦前サンノゼに住んでいた一世で、「A子の転住」(45年6月号)、「看護婦」(45年7月号)、「屈辱」(終刊号)の3編の小説を書いている。いずれも一世のもつ日本人の道徳観で二世やアメリカ人を批判的に見ている。彼は日本人こそ正しく、他のアメリカ人は不道徳であり、日本人は彼らの風俗・習慣を受け入れるべきではないという排他的な意見の持主である。したがって二世も「アメリカ」的にならないようにとの警告をこめてこれらの小説を書いたのであろう。

「屈辱」は、日本敗戦のニュースを聞いたとき一世が受けた打撃を赤裸々に記している。小説としているが、これは羽根の心情そのもであったにちがいない。彼はポストンに残っていたのだから忠誠を選んだはずである。しかし彼の心の底では日本の勝利を願っていたのである。この中で天皇の写真のことが語られるが、戦前は日本国内と同様日系人社会でも天皇の「御真影」を掲げていた家はめずらしくなかった。牧師が「御真影」を礼拝しなかったということで「不敬事件」に発展したこともあった。「屈辱」の中で、主人公は二世が合衆国の勝利を喜ぶのを見てにがにがしく思う。収容所では敗戦のニュースは錯綜し、一転して実は勝利だったなどと言う人も現れる。しかし娘が明日からお祝いで休日になると告げると、主人公は人目を避けながら机に泣き伏すのである。日本の敗戦を悲しみ、悔しく思う気持ちをこれほどはっきりと表した小説は他の収容所の出版物にも見られない。編集者はつねにWRAからの検閲に神経を尖らせていたが、これが終刊号という安心感から敢えてこれを掲載したのであろう。あるいはこの作品がポストンの多くのう一世の気持ちを代弁していたからかもしれない。

女性の作品は短詩形文学に多く小説などは少ないが、その中で久留島扶紗子(くるしま・ふさこ)は随筆、短編小説、詩を書き、43年5月号の表紙もデザインしている。『ポストン文藝』のほかに『ポストン新報第三ニュース』(第3館府)にも所内の手芸展や展覧会(絵画・彫刻など)の感想を載せている。扶紗子は20代後半の帰米二世で、「若き日」(44年4月号)は徴兵忌避のためFBIに拘束される帰米二世の兄と志願兵となる弟と母を描いた短編である。「ながれ」(45年3月号)はトゥーリレイクへ行く婚約者を捨て、日本に妻子のいる男を追って収容所からひとりでシカゴへ向かう女性を描いた佳作である。収容所を出て再転住をする日系人で満員の列車の中で、彼女は年寄りの一世の男たちが卑猥な話をするのを見て、アメリカ社会にそのような日本人がいることを恥しく思い、前の席に座った一世のおばさんが自分のことを詮索するのに辟易して、日本人は嫌だと思う。二世の観点から一世を批判的に見ている点、羽根政春の作品とは対照的である。

ほかにポストンの夏の風物を描いた「うづき日記」(43年5月号)収容所で人びとがいかに努力して好みの衣服を作ったかを述べた「着物に寄せる心」(43年7月号)や抒情的な詩がいくつかある。「着物に寄せる心」の中に出てくる「ドンケア」は一世のよく使う表現で、英語のdon’t careにあたる。「衣服にドンケアな人」は「着る物に無頓着な人」の意味である。彼女の夫久留島實雄も44年12月号の表紙の絵を描いている。

女性ではもうひとり一世の貴家志ま子(さすが・しまこ)が多くの随筆と短歌を載せている。志ま子は43年7月号、44年9月号、45年1、5月号の表紙の絵を担当している貴家璋造の妻である。彼女は「ポストン日記」「ポストン雑記」「ポストン生活印象」「ポストン生活」と題は変っているが収容所生活のあれこれを描いた随筆を合計で12回連載してる。それぞれに収容所の様子が詳細に記され、貴重な生活の記録である。

45年になってから編集に加わった重富初枝は、年配の人びとが多い文芸協会の中ではもっとも若く行動力があり、暑さをものともせずに原稿とりや配布に飛び回った。重富はカリフォルニア州ベイカースフィールドの生まれで、神戸市の松陰女学校専攻科を卒業後帰米、ロサンジェルスのウッドベリー・カレッジに在学中立退きになり、ポストン第1館府に送られた。彼女は絵が得意でカットを担当、45年8月号の表紙もデザインした。ほかにいくつかの随筆もあり、「雛鷹」(45年8月号)は鷹の雛を拾って大切に育て、それが成鳥になって大空にはばたくまでを愛情をこめて見守った記録である。殺伐とした収容所で人びとが小さな生命を育むことに慰めを見出していたことがわかり、ほほえましい。

その6>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

issei Japanese literature kibei nisei Poston World War II

About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。