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戦争によって、二つの祖国で彷徨う魂~ノー・ノー・ボーイを探した先にみえるもの-その2

>>その1

出口のないトンネルを彷徨うイチロー

小説「ノー・ノー・ボーイ」は、こうした戦中、戦後の日系人の置かれた状況を背景にして、自らノー・ノー・ボーイの道を選んだ、日系二世の青年を主人公と して、彼の内面の葛藤を追っている。名前はイチロー・ヤマダ。現在、シアトルを本拠地に大活躍するメジャー・リーグ・プレイヤーのイチローと奇しくもその 名前は同じだ。が、マリナーズのイチローが生き生きとした大ヒーローであるのに対して、小説のイチローは出口のないトンネルに入ってしまったような息苦し さを抱えた存在だった。

現在出版されている「No-No Boy」(左)とオリジナルの「No-No Boy」(英語版)

終戦直後のシアトル。徴兵を拒否して刑務所に入っていたイチローが故郷のシアトルに帰ってきたところから話ははじまる。久しぶりに出会った同じ日系人の知 り合いは、イチローがノー・ノー・ボーイだったことを知ると、軽蔑と憎悪の眼差しで毒づいた。日系であり、かつノー・ノー・ボーイであることでしばしば罵 倒される彼は、「自分は尊厳も尊敬も目的も名誉もはぎとられてしまったんだ」と感じる。

親しい友人のケンジは戦地で片足を失い、それがもとで死の恐怖と戦いながらやがて死んでゆく。日系人のエミは、農場でひとりドイツに駐留した夫の帰りを待 つが、夫は実の兄が反米的になり日本へ行ってしまったことを恥じてドイツから帰ってこない。この兄は第一次大戦にアメリカ兵として従軍したことがあり、ア メリカ政府が自分を収容所になど入れるわけはないと信じていたが、それが裏切られた怒りでアメリカを敢えて捨てるという悲劇的な選択をする。

イチローが小さな食料品店を営む両親のところへ戻ると、そこには頼りなげな父親と狂信的に日本を崇める母親がいた。日本の勝利を未だ信じて疑わない母親を 父親は正気に戻すことができない。それとは逆にたった一人の弟タローは、兄がノー・ノー・ボーイであることを恥じてイチローを罵る。そして軍に志願する が、それを知って母親は自害する。

自分のとった道は間違いだったと後悔しながらも、それ以外の選択肢はなかったイチローは未来への閉塞感に包まれながらも、新たな生活を踏み出そうと仕事を 探す。こうした彼を温かく受け入れようとする人たちに出会うのだが、果たしてそれに甘んじていいのか自問自答する。そのなかでかすかな希望をつかみかけた 感触を得て話は終わる。

出版された当初は、わずか1500部だけを刷り、話題を呼ぶこともなく終わった。戦争の傷跡が日系人社会のなかに深く残っているころでもあり「ノー・ ノー・ボーイ」という存在は、議論のたねになりかねない神経にさわるような事柄だったのだろう。

しかし60年代後半になってベトナム戦争の影響でアジア系アメリカ人の研究に光が当たるようになり、公民権運動の盛り上がりも背景にアメリカにおけるマイ ノリティーへの認識も高まった。こうした状況のなかで、アジア系アメリカ人のある若者たちが、ジョン・オカダの「ノー・ノー・ボーイ」に注目し、総合アジ ア系アメリカ人資料プロジェクト(CARP)という組織をつくって自主的にこの作品を再び世に出した。

「ノー・ノー・ボーイ」(日本語版)

アメリカ文学といえば、白人の文学を意味するなかで、これまで埋もれていた「ノー・ノー・ボーイ」もまた偉大なアメリカ文学であるという発見が原動力と なった。3000部が刷られほとんど完売、その後79年からは「University of Washington Press」が引き継いで出版、少しずつ版を重ね、一昨年その数は10万部に達するロングセラーとなった。一般読者はもとより、大学などで移民やマイノリ ティーを研究する上での参考図書としても広く取り上げられてきた。

日本では、79年に中山容が翻訳を手がけ、「ノー・ノー・ボーイ」タイトルのまま晶文社から出版され94年までに8100部を数えた。その後品切れ状態と なったが、02年に復刊されている。オリジナルには部数は遠く及ばないが息の長い作品となっている。

成功を知らずに、逝ってしまった作家

今回公開された「In Search of No-No Boy」は30分弱で、ジョン・オカダ個人の歴史と小説「ノー・ノー・ボーイ」が生まれる背景、そして作品への批評、評価についてまとめている。具体的な 手法としては、フィクションの中から一部を映像化したり、実際の映像や写真を使用しているが、その多くは関係者へのインタビューで構成している。

ジョン・オカダ個人については、未亡人のドロシー・オカダをはじめ、彼の長女、長男、そして弟が登場。また、この作品を世に出す運動をした作家で中国系ア メリカ人のショーン・ウォンや日系詩人のローソン・イナダ、ワシントン大学のエスニック・スタディーの教授、ステファン・スミダが解説する。

このほか、収容所を体験し、徴兵を拒否したフランク・エミや当時、ノー・ノー・ボーイと呼ばれたジム・アクツとジーン・アクツの兄弟もインタビューに答え ている。ジム・アクツ(故人)は、若い頃ジョン・オカダに当時の体験談を話したことがあり、小説の主人公イチローのモデルと言われている人物でもある。彼 の母親は彼がノー・ノー・ボーイであったことに、仲間はずれにされいじめられたことなどで自殺したとみられている。

イチローは徴兵を拒否して刑務所に入ったという意味では、本来の意味でのノー・ノー・ボーイではないが、アメリカという国家への忠誠を欠く人間とみられる わけであり、こうした人物を主人公とした小説が、出版当初はアメリカの日系社会のみならずアメリカ社会でも受け入れられなかったことが改めてわかる。

ジョン・オカダとその家族は、戦争中はアイダホ州のミネドカ収容所に入れられたが、ジョンは志願して従軍、MIS(軍事情報部)に所属して太平洋戦線に赴 く。終戦後はシアトルに戻り、その後ニューヨークなどを経てデトロイトの図書館に勤務、最後はロサンゼルスの企業でテクニカルな文書作成の仕事をしてい た。

インタビューによれば、家族は小説家としてのジョンについてはほとんど知らず、また、作家になることができず、仕事という点では彼は生前決して満足できな かったという。ようやく70年代に入って、徐々に注目を集めるようになるが、その時彼はすでにこの世を去っていた。自分の作品は成功とはいえなかったとい う思いのまま亡くなったことになる。

今後、この映画はさらに編集を施され完成される予定という。

その3>>

シアトルにあるジョン・オカダの墓

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(200年08月31日号)からの転載です。

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