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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第26回 アメリカに帰化、米国籍となる

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1967年末、助次はアメリカの市民権を得た。帰国しようかどうか考え続けていたが、このときは宿願がかなったと喜び、これまで生活できたことはアメリカのおかげだとしみじみ語る。長年の功績をたたえられ、地元デルレイビーチ市からは名誉市民の称号を授与された。

* * * * *

〈61年前、炎熱と蚊の巣窟〉

1967年5月15日

美さん(義妹)、お手紙ありがとう。こちら、別に変りなし。寝て食って怒ったり、どなったりして日を送って居る。歳のせいか、気が短くなって、下らぬことで腹を立てる。今日は5月15日、61年前、当地に着した。人口は二百に満たぬ寒村で炎熱と蚊の巣窟であった。

3年在留の予定も波乱の結果、一生となった。人の運命程、不可解なものはない。今日、計らずも、知人の紹介で一同胞と逢った。福井県の人で在米40年、二、三の大学を卒業した中々の雄弁家。目下政府へ奉職中。当地は早、夏の真っ盛りで温度八、九十度(30℃前後)。北からの避寒客も続々引き揚げて大分静かになった。


〈京都から種を取り寄せたが〉

昨夏は近来稀な旱魃で約2ヵ月余り一滴の雨もなく、農作物は全滅の危機に瀕して居り、京都のタキヰから種子を取り寄せたが、ろくに生えず、満足に生えたのは黒松と野菜だけで南天(赤黄共)も楓(紅葉)もユスラ梅も生えぬ。

当地の農事試験場の話では、死んだ古種子の為との事だった。この国で作った桜と丹波栗と楓の苗を一年前、植え付けたら吉野桜は皆枯れたが、牡丹桜は立派に育ち、目下開花中。この旨、タキヰへ通告したが何の返事もなかった。


1967年4月6日

明ちゃん(姪)、相変らず朗らかな人生、これに越した事はない。夢は必ず実現すると思う。楽しく待つのだ。私は近頃健康がすぐれぬ。先夜も脱腸が急発、医者を呼んだ。あんなに苦しんだ事はない。だが心配無用、幸い近所に親切な親しい友達がいる。そこは遠い親類より近いお隣だ。

気候は申し分ない。北からの避寒客がゾロゾロ帰りだした。不遠、少し静かになろう。今、畑にはパイナップル、木苺、桃などが熟している。味は頂上、店で買うものとは比でない。明ちゃんが居たらと思う。日本の発展は世界羨望の的。

飼い猫が5匹、仔を生んだ。皆、毛色が違う。眼が開いて、はい廻り出し、ブクブク肥えていく。私は猫が大好き、11匹も飼ったことがある。


〈久しぶりに日本女性に会う〉

1967年6月9日

美さん、お手紙ありがとう。こちらは2週間前から連日の降雨で畑は草茫々の有様です。私は相変わらず気分がすぐれず休んで居ります。

先日、久し振りに日本の女性に逢いました。ハワイ生まれですが日本で最高の教育を受けられたので、久し振りに日本語で話が出来ました。あんたが明子の結婚について気を揉まれるのは無理ならぬことです。明子も25歳、現代の女性は本人の気に入ったようにします。気の進まぬ結婚、押し付けがましい結婚は一生不幸の墓です。何も人の事を気にすることはありません。酷暑の砌(みぎり)、お大切に。さようなら。


〈常岡一郎の「運命をひらく」読み大いに感じる〉

1967年10月16日

美さん、久し振りでお手紙、有難うございます。皆さんお変わりなく、なによりです。私も元気で、畑仕事に追われております。一ヵ月ばかり前、畑へ移り、メーリングアドレスも左の通り変わりました。

昨年送って頂いた常岡一郎氏(注1)著「運命をひらく」を読んで大いに感じるところがありましたので、同氏の他の著書全部を読んで見たいと思い、発行所へ申し出て、送料を含む代価を問い合わせましたが、まだ返事がありません。御面倒ですが、左記の著書の送料を含む代価を知らせて頂きたく、代金は直ぐ送ります。

・・・のあしあと    中心を目さして

流転          節と心

道を求めて       天の手紙

どたんば物語      闘病の五千日

反省          ・・・を超えて

生きるための宗教    正しい信仰

月刊中心

(注1)常岡一郎は福岡県生まれ、修養団体『中心社』を創設、参議院議員(緑風会)から出馬し参議院議員に当選。後に天理教の地位向上に貢献した。


〈いよいよアメリカに帰化する?〉

1967年11月14日 

明子ちゃん、久し振りの便りをありがとう。昨今気分が勝れぬので、手紙を書く気にもなれずつい返事が遅れた。あんたは何時も変わらぬ朗らかさでいい。故国からの手紙の多くは泣き言とひがみで読む気もせぬ。

昨今、フロリダも急に寒くなり、夜など寒さを感じる。二ヵ月ばかり前に畑へ移ったが、静かでいい。家の内は5匹の猫で別に寂しくもない。数日前、古い同胞が死んだ。但馬の男で私とほとんど同じころ渡米、家内と三人の息子と一人の娘がある。中々勤勉な家で、かなりの財産を作った。生き残りの古い同胞は私の外あと一人。彼はある病気がちで余り長持ちはしまい。

去る5日は私のバースデーで、友人の一人がパーティーをして祝ってくれた。長生きするには年を忘れるに越した事はないと思う。

私は愈々アメリカへ帰化することになった。これで呼び寄せは容易になる。人生、泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生、要は心持ち一つだ。お金ばかりでは人生は幸福にならぬ。


1967年12月6日

本6冊先日受け取った。印紙が貼ってないので、送料がたりぬ。目方僅か二斤、普通の小包便なら送料は僅かだが、航空便だと数倍高くなる。今後も注意されたい。代金はビル(請求書)を受け取り次第送る。明子は好い娘だ。明朗で米治(父)の気質を継いでいる。

日本が変わったようだ。この国も変わった。十年前とは雲泥の差だ。給料は上がったが、物価も上がり生活がだんだん苦しくなり、うかうかすると、取り返しがつかぬ事になる。


〈名誉市民の褒章をたまわる〉

1968年1月4日

明ちゃん、小包、先日うけ取った。寒がり屋の私には何よりの賜(物)、ありがたく頂戴した。こちらも夜はかなり冷える。電気毛布にくるまって寝る夜が多い。私の健康は相変わらずで身体中の節々が痛む。今は左腕のヒジが痛んで何も持てぬ。

左足のキビス(カカト)が痛んで歩行は不自由、右手の指も痛んで、時には字も書けぬ。人手は不足、仕事に追われてついつい無理をする。休む日は少ない。・・・水瓜の種子を蒔いた。故障がなければ、3月中旬ごろには水瓜が食べられる。作物は青々と育っており、畑に出ると、何もかも忘れる。

去る12月15日は私の一生の最大記念日であった。60年ばかりの宿願かなってこの国に帰化、米国市民になったのである。新聞は写真入りで大々的に報道、祝福した。知人友人も皆、喜んでくれた。

GEORGE SUKEJI MORIKAMI 1967年12月15日付の帰化証明書

(日本にも連絡したが、)直ぐ祝ってくれた者はいない。それのみか、例の金送れの無心である。私はがっかりした。如何に金銭万能の時代とはいえ、これでいいのだろうか。私に何の不自由ない。今の境遇もこの国のお蔭である。他の国に行っていたらこうはならないだろう。

終戦後、長い間、あんた達への補助もできなかったろう。あんたや玲子の教育も出来なかったろう。吾々の今あるのも直接間接この国のお蔭である。私は斯く言うが、何一つ、この国の為に尽くしておらぬ。余生長からぬ。何とかせねばならぬ。

昨秋、市議員の集会があった。私も招かれた。何と何の功もないのに名誉市民の褒章をたまわった。百人近い市民の拍手をうけた。全く予期していなかったので私は面食らって何一つ、お礼の言葉がでなかった。

今は正月の騒ぎも静まって、平和な新年。贈り物のお礼を兼ねて思った事を遠慮なく書く事にした。

(敬称略)

続く >>

 

© 2020 Ryusuke Kawai

About this series

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。