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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第23回 故郷にいる妹の死

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。年齢のため、体のあちこちが痛み気分もすぐれないが、畑仕事への情熱は相変わらずで、桃を植え、ミカンやバナナなども植える予定だという。ただ後継者がいないことが悩み。そんなとき、故郷・宮津で実家を継いでくれていた妹が亡くなったことを知り衝撃をうける。

* * * * *

〈畑で詩吟をやってみる〉

1965年3月24日

明ちゃん(姪)、最近京都の一知人から手紙が来た。あんたと同年で銀行で働いている。入社してから満5年になる。この人は銀行の事は一通り判ったし、かなりまとまった貯金も出来たから、多年あこがれのアメリカへ行って半年か一年暮らして見たい、行ったらおじさん(私をこう呼んでいる)の家で世話になれるだろうかという。その人は英語の会話には事欠かぬし、タイピングも出来る。そこで私は、御両親とよく相談して、決心がついたらお出でなさいと返事した。ハキハキと現代的なシッカリした娘さんだ。

フロリダも春になり、夜間ブランケットが要らなくなった。北からの避寒客もソロソロ帰りだした。私は相変わらず畑へ出かけるが、何かと故障が起きて仕事が思うようにはかどらぬ。

年のせいでついあせって、時々起る脱腸からの腹痛や時期的に起こる関節炎に多少悩まされるが、食欲は別に変りないので、何も心配する事はない。市には立派な病院もあり、好い友達もいるので安心して暮らしている。

地方の古い一世はほとんど死に絶えた。逢って日本語を話すことも出来なくなった。時々、昔好きだった詩吟を畑でやってみるが、全然ダメ。声が出ない。不思議だ・・・。


〈59年前にここへやってきた〉

1965年6月7日

明ちゃん、手紙と写真ありがとう。だんだんきれいになるようだ。私は近頃、気分がすぐれぬ。一番困るのは腕や手の指がズキズキ痛む事だ。医者も薬も駄目。じっと我慢するより外ない。

あんたのお母さんは幸せだ。一寸、風邪でも引くと皆から大切にして貰える。私にも近くに親友がいるが、人に迷惑かけるのが病以上に苦しい。だから耐えられるだけ我慢するのだ。

去る15日は私の記念日だった。59年前の当日、長途の旅を無事終えて当地に着いた。親友のアリス=白人の女性=がスキヤキ等作って祝ってくれた。彼女は59歳、私が着いて間もなく生まれたのだ。小柄できれいなので、おめかしすると、20歳位若く見える。夫君のウヰリアムは加州大学出の好人物、彼のお父さんはあのパナマ運河開削の際、多くの人命をうばった風土病ぼくめつ(撲滅)の恩人。医学博士デダリック氏である。

この地方で百名ばかりの日系が住んで居るが、古い一世はほとんど死に絶えたので、日本語を話す事が出来なくなった。来る11月には80歳(数えで)になる。仕遂げたい仕事は山ほどあり、せめて百歳まで生きたい。念願だ。


〈熟したパイナップルが最高〉

いま、市中に住んで居るが気分のいい時は畑に出る。青々と育つ作物を見ると、何もかもしばらく忘れてしまう。土いじりをすると、指の痛みさえ忘れてしまう。この冬は寒かったうえ、希有の旱魃で作物は大被害を蒙った。

2月の降霜の為、百個ばかりのパイナップルがやられた。今はまだこぶし位の大きさだが、7月頃には約3倍の大きさになる。畑でよく熟したのもは他の果実の比でない。値も高い。大きいのは1弗もする。

桃も125本植えた。セイロン島産と沖縄産で、実は小型だが、味は上々。極早生で4月ごろ、熟する。普通物より一、二ヵ月早いので有望だ。他にクロバー300本、木苺500本を植す予定。来冬にはミカン類、バナナ、アボカト、マンゴー等、あらゆる熱帯性果樹の植付けを準備中だが、人手不足で思うようにはかどらぬ。もっとも大部分は機械でやれる。こんな話、あんたには何の興味もないだろうからやめよう。

先日も一友人が畑にやって来た。身体の具合が悪いと話すと彼、曰く、ジョーデ(ジョージ)、もう畑仕事はやめたらどうか。君の気持はよく解るが君が今、死んだらあとはどうなるのだ。私はその事は百も承知だ。適当な後継者がいれば……。明ちゃんが男で農業に趣味を持って居たら呼び寄せてと思う。当州の農科大学で実地と勉強をさせ、この事業を継続させたかった。愚にもつかない事を考える事もある。


〈気ばかり焦って……〉

1965年6月8日

美さん(義妹)、お手紙2通うけ取りました。御気分もよくなり何よりです。年を取ると、古エンジンのようにあちこち故障が起きます。日ごろ丈夫な者は急にコロリとまいるとかいいますが、何時もヒーヒー青い顔している者は却って長生きするとかです。

明子に書いたように、近頃私の健康がおもわしくないので、医者の勧告に従い暫時、旅行することにしました。幸い、百哩(マイル)ばかり北に住む友人夫婦(白人)と同乗する事にしました。一人旅は詰まらんのです。

きたる15日頃、出発の予定で、折角の遠来の客も遺憾ながらお迎えする事が出来ないのです。送って下さった品はマイアミからPODパーセルポスト(送料受取人払い)で送って下されば着きます。

年のせいか、気ばかりあせって何一つ思うように行きません。天涯孤独、何のためにあくせくするのか。時には一層思い切って引き揚げようと思います。長い間の旱魃も止んで昨日から降雨です。先ずは取り急ぎお返事まで。昨日、古い友人が死にました。嫌になります。

今居る処は何かと不便なので畑へ移ります。


1965年6月27日

美さん、色々珍しい物、送って頂き有り難うございました。久し振りに賞味して居ります。私は古疾の腰痛が起こり、途中で引き返しました。旅行さへ出来なくなったのです。疲れがひどく休んでおります。


〈年々郷愁が薄らいでいく〉

1965年11月×日

明ちゃん、テープは数週間前、受け取った。私の不案内なしろ物。台風や洪水の後片付けに忙殺され、ついそのままになっている。何れ、明ちゃんの懐かしい丹後節やお母さん自慢の鶯のさへずりを聞く事にする。

日本の不景気は一時の反動、何れそのうち、よくなろう。アメリカは一般教書にあるように、この地方の百姓は実に惨憺たる状態である。台風は来る、稀有の大洪水は2回もある。政府の補助で辛うじてしのいでいる者は少なくない。物価は上がる一方、家政の下手な奥様達は赤字に追われている。

土地の税金は一足飛びに約3倍になり、私達は、年収の半分以上、税金で取られる有様だ。地租を払わぬと土地は政府に没収される。数年前、土地持ちは土地ブームで皆大儲けした。地価は上がったが、買い手があまりない。少し頭のいい者なら人が買う時には買わず、皆が見込み買いして持ち切れず、損して売りに出す時に買う。商売人は他人の真似をしていたら頭の上がる事はない。

先日、お母さんの送金と一緒にあんたに25弗送った。お正月の買い物の足しにしてくれ。私の手紙は何時も悪口と皮肉の連発だが、一言の反撥もないので、今後は一切止める事にした。座談にしろ文通にしろ、一方だけはしゃいでも相手はウンともスンとも言わぬ。これでは俗に言う暖簾に腕押しで、これ程、癪にさわることはない。

お定まりの時候のあいさつやご機嫌伺い、読む気にもならず、返事を書く気にもならぬ。日本の物はほとんど読まず、日本語は全然話さぬ。郷愁感が年々、薄らいで行くのをシミジミと感ずる。


〈故郷の妹が亡くなった〉

ただ一人の妹は去った。日本に帰って一緒に住んでくれといっていた妹だ。私は時々思い出して涙ぐむのだ。今年もあと一ヵ月でまたお正月だ。これが60回目とは到底信じられぬ。最初の正月は熱病で骨と皮であった。食べ物は粉ミルクと甘みのないクラッカーだけだった。

助次から妹の筆子が元気だったころ、彼女に送られたカード。「健康を禱る 兄」と記されている。


1965年12月23日

美さん、明ちゃん、新年おめでとう。皆さん、お元気で年越しされることと思います。今年(65年)は稀な凶年でした。病気はする、する事成す事、皆逆になる。天災で数年の努力が水泡に帰した。それより何よりの打撃はただ一人の妹が亡くなった事だ。人間万事塞翁が馬。また好事もあろう。

極小型のテープレコーダーを買った。12弗21仙(セント)の安物のためか、馴れぬためかうまく行かぬ。第一文句がはっきりしないし、声が不自然だ。レコーダーも色々ある。最上のは500弗もする。皆、日本製だ。

私の書いたことが気に障ったとか。何も悪口や皮肉の積もりではなく、思った事、感じた事を有りの儘に書いただけの事。良薬は口に苦く、勧告は耳に痛い。済みませんでした。世の中の事、兎角人はうるさい。今後は他人の事は一切口出ししない事にした。

昨今は暑からず寒からず、全くのパラダイズ。また直ぐお正月。それにしても亀山の藤さん、奥山の長さんはどうなったか。奥山には長さんの外、徳さん、市さん、お菊さんらがいた。その外に母の姉さんの息子が一人いたが、名を思い出せぬ。皆いい人達だった。味噌汁のお雑煮を鱈腹食べて見たい。何時の事か。さようなら。

1965年12月27日

美さん、以下は弟へ宛てた手紙の一節です。

「(実家の土地についての相続の件について)私は既に森上家の籍を離れている。何の責任も権利もないのはお前もよく承知の事だ。不明の山林の位置も書き送ってある。もしもなお手続き上、私の署名が必要なら書類一切送ってくれ。お互い老齢。しかも、お前、病人。何時死ぬかも知れぬ。一日も早く整理したがよいと思う。」

一昨日はXマス。晩餐には友人から招かれ、数名のお客様と共に大変な御馳走。プレゼントまで頂きました。

美さん、私が孤独にも拘わらず、左程、寂しくないのは好い友達があるからだと思います。不幸にして同胞と親しめないのはどうしたことか。言葉がろくに出来なかったころからそうでした。

〈かつての大和コロニーに関わり、以来ずっと周辺に残って暮らしていた日本人としては、この当時森上助次のほかに、上釜庄美という老人がいた。しかし、ふたりはほとんど話をすることもなかった。〉

デルレービーチから南へ5哩(約2里半)の地点、昔のヤマト村に一人の老人同胞が今、住んでいる。久し振りに逢いました。戦後になってからはじめてです。若い頃はツンツンして物も言わぬ男だったが、余程さびしかったと見へ話しかけて来ました。私より少し若いですが、色青ざめ痩せこけ一見病上がりのようでした。日本人では南フロリダ一の大金持ちですが、他人とは全然交際せず、黒人相手に野菜作りをしています。

あぁまた悪い癖が出ました。これが今年の悪口のしおさめです。33年前の今日この頃、胃潰瘍の切開手術をしました。しかし、結果が悪く、腸が塞がって食べ物が下らないので口からチューブを差し込んで汲み出したのです。その時の苦しさ、余りの苦しさに死んだ方がいいと思いました。なんとか二ヵ月で全治しました。

胃が以前の半分以下になっているので大食は出来ず、一寸でも食べ過ぎると、苦しいです。幸い、再発はなく今では何でも食べられます。

(敬称略)

続く >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

About this series

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。