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日系被爆者たちの声、心の傷跡【第1部】:自らの体験語り継ぎ、平和願う

広島と長崎、原爆犠牲者の追悼法要

小東京の高野山別院で4日、広島と長崎の原爆犠牲者の追悼法要が行われた。被爆者たちの悲惨な体験と心に焼きついた傷跡―。追悼法要には広島で実際に原子爆弾(以下、原爆)の被害にあった被爆者たちの姿があった。次の世代に自らの体験を語り継ぎ、平和を願う彼らの声を聞いた。

* * * * *

第二次世界大戦のさなかの1945年、アメリカは8月6日に広島、3日後の9日に長崎に原爆を投下した。原爆は建物だけでなく、街全体を瞬時に焼き尽くし、多くの人々の命を奪った。同年12月末までに広島で14万人、長崎で7万以上が亡くなったと推計される。

さらに人々はその後も原爆による後障害に苦しめられた。広島市によると、被爆から5、6年が経過した頃から白血病患者が増加し、55年以降は悪性腫瘍の発生率が増えはじめたという。
 

LA地区の被爆者175人、進む高齢化、平和への思い

追悼法要には米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)の会員をはじめ、コミュニティーメンバーらが出席。犠牲者の冥福を祈った。その中に自らも被爆者という更科洵爾(さらしな・じゅんじ)さん(90)がいた。

オレンジ郡在住の更科さんはASAの会長でもある。更科さんによると、現在ロサンゼルス地区にいる被爆者は約175人。4年前までは300人以上いたメンバーも、高齢化に伴い多くが活動への参加が困難になってきているという。「原爆症か高齢に伴う病なのかは分からないが」と前置きしつつも、「白血病やがんを患うメンバーは多い」と語る。

ASAは日系コミュニティーだけにとどまらず、大学などでも講演活動を通して次の世代の若者に被爆体験を伝え、平和への思いを訴え続けている。更科さんは2年前の2017年に広島市を訪れ、学生を前に講演し、16、17歳の学生と意見交換をした。

小東京の高野山別院で行われた広島と長崎の原爆犠牲者の追悼法要で祈りを捧げる人 (写真:吉田純子)


更科さんの被爆体験、
「地獄を歩いているよう」

「太陽の光をみているようだった。原爆が投下された時のことは今でも鮮明に覚えている。目の前ですべてを見てきました―」

更科さんはハワイで生まれた帰米2世。父は広島県安芸高田市の寺の僧侶でハワイに移民として渡った日系1世だ。

「私が7、8歳の時、長男の兄が寺を引き継ぐため日本語を習得しなければならず、僧侶だった父はホノルルの本願寺に残り、父以外の家族は日本に行きました」。真珠湾攻撃の時、コミュニティー・リーダーだった更科さんの父はその日のうちに連邦捜査局(FBI)に連行されたという。「父は最初に連行され、4年間強制収容所で過ごし、最後に解放されたグループの1人だったと聞きます」

原爆が投下された1945年8月6日、当時16歳だった更科さんは日本語の勉強のため広島市に住んでいた。学徒動員で南観音町の旭兵器工場で働いていた時、爆心地からおよそ2マイル(約3.2キロ)のところで被爆した。爆発音はなく、光をみると同時に、爆発の力が襲ってきた。

「もし2歩早く建物の外に出ていたら、オレンジ色の光を直接浴びてしまっていた。命はなかっただろう」。建物は倒壊し、更科さんは一時気を失っていたが幸いにもけがはなかった。

広島は燃え、煙で前が見えないほどだった。たくさんのけが人や死体を目にしたという。「地獄を歩いているようだった。生きているのが不思議なくらい。死んでいるのが当たり前のような情景の中、ただ歩いていました」

翌日、通っていた中学校に行くと、プールの中に下級生を見つけた。「水から出たい?」と尋ねると「うん」と答えたのでその下級生を助け出そうとひっぱると、あがってきたのは皮膚だけだった。「焼けているから皮膚がスルっと抜けてしまう。手にとったのはその子の皮膚だけでした」

あの日の情景は更科さんにとってまさに地獄だった。しかし不思議なことに「生きていこうとする力」がとても強かったという。「感情なしに行動していました。見たものも何も恐ろしくないという人間になってしまった。それはあまりにもひどい状態を見てきた人間に起こる反応なのかもしれません」


終戦後アメリカへ、
朝鮮戦争に招集される

「元の人間に戻るのには少し時間がかかりました」。90歳になった今も当時のことを思い出すことがある。「でも一歩ずつ進んでいかないといけない。いつまでも昔のことばかり考えていたら進歩がないから」と更科さんは話す。

終戦後はハワイに戻り、朝鮮戦争が始まると招集され米陸軍情報部(MIS)に配属された。「びっくりした。『なんで僕が行かないと行けないのか』と思ったが、『シカタガナイ』と思いました」

父は強制収容所へ、大学生だった兄のひとりは日本海軍に招集され特攻の教育係に、もう一人の兄は日本陸軍に招集され満州に行き、終戦後はロシア軍の捕虜となりシベリアへ行った。自身は広島で被爆し、アメリカに戻ると原爆を投下したアメリカ軍への入隊を余儀なくされた。更科さん一家は戦争という大きな渦にのまれ、それぞれが別々の場所で、立ちはだかる困難と向き合い闘っていた。

アメリカに対して怒りはなかったのだろうか。「怒りというより人間は順応していくもの。原爆でたくさんの人が亡くなった。反感をもつのは当たり前。けれど、自分たちの孫が育っている世界で、柔軟にまわりの人たちと生きていこうという気持ちの方が強い」と話す。

一方で原爆で亡くなった多くの人々に関しては、いかに彼らが惨めに苦しんで死んでいったかを伝えなければならないと強調する。「戦争はすべきではない。今被爆体験を語るなかで、被爆者たちの苦しみや今も苦しんでいる人々のことを語り継いでいかなければならないと思う」と力を込める。

被爆者健康手帳を持つ日本全国の被爆者は今年3月末時点で14万5444人と初めて15万人を下回った。平均年齢は82.65歳。高齢化が進み、被爆体験を語り継ぐ人が減る中、更科さんらは今も米国で自らの体験を伝え、世界の平和を訴える。被爆者たちがわれわれに問いかけるメッセージとは何か。第2部では日系3世の被爆体験を聞く。

追悼法要の会場に展示された原爆の恐ろしさや被害状況を伝えるパネルを見入る来場者 (写真:吉田純子)

第2部 >>

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年8月16日)からの転載です。

 

© 2019 Junko Yoshida / The Rafu Shimpo

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