Select a primary language to get the most out of our Journal pages:
English 日本語 Español Português

We have made a lot of improvements to our Journal section pages. Please send your feedback to editor@DiscoverNikkei.org!

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第17回 法人化と二代目誕生

1962年の春から秋にかけて開かれたシアトルの万博(World's Fair)に出店した宇和島屋は、わずか十数坪の小さな店舗ながら多くの客に恵まれ成功を収めた。しかしこの期間のさなかに、森口家の主である創業者森口富士松が64歳で亡くなった。葬儀は、市内の浄土真宗の別院で行われ、およそ900人が参列した。 遺体(遺灰?)は、多くの日系人の墓のあるシアトル北部のワシェリ(Wahelli)という墓地に埋葬された。

愛媛県八幡浜を出て、アメリカに来て商売をはじめ、妻や子供たちの手も借りながら店を軌道にのせた富士松は、いつかは日本に帰ることを願っていた。しかし、長女のスワコが1958年に彼女と同じ「帰米」の日系人男性と結婚し、二人の間に60年に初孫が生まれると、富士松はようやくアメリカに骨を埋める覚悟をもったようだった。

初孫の顔を見てから2年後、万博の成功のさなかでの富士松の死は、家族にとって衝撃だったのと同時に、当然のことながら、このあとの店をどう経営していくのかという問題を森口家に投げかけた。

当時長男のケンゾーが専従で店の仕事をしていたが、万博の期間中も会社勤めの傍ら家業を手伝っていた二男のトミオも、当時勤めていたボーイング社をやめて、宇和島屋を支えていくことにした。万博では日系人以外のお客の注目を集めたこともあり、期間中の売り上げが、それまでの店の年間売り上げの三分の一ほどを占めたとことにトミオは商売の潜在的な成長の可能性を感じた。

また、一生懸命働く母親を手助けしたいという気持ちも強かった。「会社にいてもそれほどいいポジションじゃなかった」というように、会社への未練も大きくはなかったようだ。

しかし、この当時はまだトミオにとっては家業が一生の仕事になるとは思っていなかった。会社を辞めて宇和島屋の仕事に“転職”したときは戸惑った。

「会社員だったときは、二週間ごとに給与をもらうことが当たり前だと思っていた。少なくとももらえるだろうと予測できたからね。でも宇和島屋ではいくらもらえるかわからなかったから」と、話している。

   

長男ケンゾーと二男トミオが母親を支えながら、他の兄弟姉妹の協力も得て富士松亡き後の宇和島屋を船出させてまもなく、店にとって大きな転機が訪れる。メイン・ストリートで借りていた店舗のオーナーが、ビルの所有権を譲渡してもいいがどうだろう、と持ち掛けてきた。

「オーナーは日系人で、スギハラとかなんとかいったか。ひとり息子を若くして亡くしていてリタイアするつもりだったようだ。この人は、それまでも私たちにとてもよくしてくれた。それで、思い切って父が亡くなったときの保険金と銀行からの借り入れで買うことにしました。このときは商売も順調だったので銀行も貸してくれました」と、トミオは言う。

気前のよかったこの日系人のおかげで、適当な値段で自分たちが入っていた店舗のビルを手に入れることができた。これまでの店舗部分は約34坪ほどだったが、ビルの1階部分の全床面積はその6倍に相当した。

不動産を所有したことは、のちのビジネスの拡大に大きな意味をもつことになったが、この時点では、規模が拡大することでビジネスを続けていくうえで避けられない課題に直面した。宇和島屋の法人化である。

そこで知り合いになったレム・タウイという弁護士を雇って法人化の準備に入ったところ、彼から「だれが社長になるのか」と言われた。そこで長男のケンゾーがトミオに「お前が社長をやればいい」と、内々に話をした。

本来なら日系の商売は、長男があとを継ぐのがよくあることだが、このときは、ケンゾーが、自分は店自体を切り盛りするから、トミオには法的なことを任せるという話になった。ケンゾーのなかには会社経営の才能はトミオの方があるという思いもあった。こうして1965年に宇和島屋は会社組織となり、トミオ・モリグチが社長になった。二代目の誕生である。 

翌66年には、仕入れ部門を新たにつくり事業を拡大した。さらに、シアトルから南に10マイルほど離れたところのタックウィラ(Tukwila)というまちにあるサウスセンター・ショッピングモールに出店した。万博での宇和島屋の成功を知ったショッピングモールの関係者が、ぜひ出店してみないかと勧めてきた。 

彼らとしては、全国展開のチェーン店になっていくうえで、宇和島屋には、単にアジア系というだけでなく地元のお店という存在感を求めていた。出店する上での改装費を提供するなど非常に条件はよかったので、宇和島屋では「挑戦してみよう」と、出店を決めた。ここでは4男のトシに運営が任された。

サウスセンター内の宇和島屋(当時)、宇和島屋提供  

(敬称略)

※一部、Densho Digital Archives 参考

 

© 2018 Ryusuke Kawai

grocery business Moriguchi Family seattle uwajimaya

About this series

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

第1回から読む >>