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日系アメリカ文学を読む

第7回 『北針』

かつて日本からアメリカに渡った人たちのなかには、正規の渡航手続きを経ずに出国した人たちもいた。いわゆる密航である。

明治期からはじまったアメリカ移民は、西海岸を中心に排日の動きが高まる中で1908年には日米間の紳士協約によって日本が旅券の発給を自粛したことで制限され、さらに1924年には新移民法によって全面的にアメリカへの移民はできなくなった。

しかし、それでもアメリカに行きたいと思う人は後を絶たなかった。その理由はなにより、お金を稼ぐためである。とはいっても生活のためだけではない。アメリカに行って日本の何倍もの金を稼ぎ、何か自分の夢を実現させるという“アメリカン・ドリーム”を目指してである。

そのためには、身の危険を冒してまでもチャレンジした。方法は三つあり、ひとつは、本来は船員として乗船している船から、海外で抜け出る「脱船」。二つ目は、貨物船など海外航路の船舶へ潜入し上陸するというもの。そして三つめが、自ら仕立てた船で太平洋を横断してアメリカ大陸にたどり着く方法である。

『北針』は、このうちの三つ目、つまり船で太平洋を渡り密航を図ろうとした男たちを描いたノンフィクションである。1982年に潮出版から出された。作者はノンフィクション作家の大野芳。この作品は第一回潮賞のノンフィクション部門特別賞を受賞している。

時代は1913(大正2)年。四国西部、豊後水道をはさんで大分県が目と鼻の先にある愛媛県西宇和郡真穴村(現在の八幡浜市)の小さな入り江から、総勢15人の男たちが、約15メートルの打瀬船という小さな漁船に乗って、太平洋を横断しアメリカ西海岸を目指した。

「北針」とは方位磁石のことで、この北針と海図を頼りに、帆を張ったこの船で危険を顧みず冒険の航海にでたのだった。

綿密に計画されたこの密航計画からはじまり実際の航海のありさまを、史実をもとにほぼ物語のスタイルをとってノンフィクションに著したのが『北針』である。「取材メモ」と題したあとがきによれば、著者は打瀬船による密航の歴史を知り、現地を訪れ、当時のことを伝え聞いている人から話をきき、また、郷土史などにあたって事実を再構築していった。

当時、すでにアメリカへの移民を国は制限していた。申請しても許可されることはなかった。しかし、現地での移民熱は非常に高かった。なぜなら、リアス式海岸の背後はすぐに山で耕地は少なく、農業にはそれほど期待はできなかった。また、時を同じくして、それより以前にアメリカへ行き大金を得て帰郷したものやアメリカでの成功譚がこれを煽った。正規に渡航できないのあれば密航しかない。実際近くで密航を成功させたという話も伝わってきていた。

密航の中心となったのはすでに一度正規に渡米し、アメリカで何年か働いて金を貯め、故郷に帰ってきた上野菊松と留三郎の兄弟、それに石田平助の三人だった。 

最終的に50歳の菊松から20代のものまで15人が、天神丸という中古の打瀬船に乗る。密かに計画を練り準備を進めたのは、これが違法だったからだが、加えて「おれも仲間に入れてくれ」と、寄ってくるものが多すぎても困るからだった。

メンバーのなかには家族持ちもいるし、子供が生まれたばかりのものもいるし、家族の心配をよそに飛び出してきたものもいる。

食料と水を十分積み込み、豊後水道から瀬戸内海に入り、神戸に寄ってアメリカ上陸に備えて洋服を仕立てるところからはじまる。しかし、紀伊半島をまわり伊勢沖にでたあたりで早くも舵が故障、そこで伊豆半島に立ち寄り、修理をする。前途多難が予想された。

大洋に出ると、小さな船は自然に弄ばれた。あるときは大きなサメの群れが船体を襲う。龍がこの世にいるのならば、そう思えるような竜巻を目にすることもあった。3日もつづいた嵐の中で見た波は、「五十メートル、いや百メートルはゆうに越す」というのだ。舵を折られ船体を一部破壊され、大量の海水が流れ込む。男たちは必死にどこかにしがみつき、恐怖の中でただ「南無金毘羅大権現……」と祈るしかなかった。

それでもなんとか航海を維持し、出発から52日にしてようやく陸地にたどりつく。それがカリフォルニアの北部だった。持ってきた洋服に着替え、金を手にして、町に入りそれぞれ身を隠そうとする。だが、わずか二日のうちに密航者を警戒していた現地の自警団らになどにあっけなくとらえられた。

サンフランシスコの移民抑留所に拘留され、太平洋航路を行く船に乗せられ日本へ送還される。こうして命がけの渡航は最後は、振り出しに戻ってしまう。

密航の物語はここでおわるが、著者は彼らのその後の人生に触れている。故郷に骨を埋めたものがいる一方で、その後も密航を重ねてとうとうアメリカで暮らしたものもいることがわかる。それほど密航は盛んにおこなわれていたことがわかる。

なぜそれほどまでにアメリカへ行こうとしたのか。私はたまたまこのほど現地を訪れる機会があった。平地が少なく段々畑に囲まれ家々が肩寄せ合って並んでいる地で、海を見ていると、そこが広い世界への入り口にも見えてくる気がした。きっとかつての密航者たちも、海の向こうのアメリカを思うと、小さな場所にとどまっていられなかったのではないか。

アメリカから帰ってきたのに、今度は密航して渡米しようと決める前の岩田平助の満たされない心の内を著者はこう言い表す。

アメリカで働いていた時は、ただ故郷に一日も早く稼いで帰ることが楽しみであった。一日の苦役は、その楽しみに一歩近づくものだった。だが、こうして故郷に帰ってみると、日本を出発した元の生活が、そのままの姿で残っているだけだった。

本書の事実のほか、この地の密航を含めたアメリカ移民の歴史については、村川庸子著『アメリカの風が吹いた村 打瀬船物語』(愛媛県文化振興財団、1987年)に詳しい。村川氏は、ディスカバー・ニッケイでも、2010年10月に「『北針』研究会」として記している。

(一部敬称略)

 

© 2017 Ryusuke Kawai

book review immigrants non-fiction

About this series

日系アメリカ人による小説をはじめ、日系アメリカ社会を捉えた作品、あるいは日本人による日系アメリカを舞台にした作品など、日本とアメリカを交差する文学作品を読み、日系の歴史を振り返りながらその魅力や意義を探る。

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