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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第28回 中部大西洋岸諸州とペンシルベニア州の日系人

「百年史」は、第二十三章で「中部大西洋岸諸州」として、「コロンビア区(華府)、メリーランド、デラウェア、ヴァジニア、西ヴァジニア」の日系人社会についてまとめている。といっても、これらのなかで記述の中心は首都ワシントンD.C.の日本人、日系人についてだ。ほかの州の日系人についてはほとんど触れらていないに等しい。

コロンビア区というのはワシントンD.C.のことで、ワシントン府とも書き、漢字では華府と表記している。

華府については、古く1860年5月に遣米使節団として新見豊前守正興ら一行が、日米修好通商条約調印のため訪れ、1870年には初代駐米弁務公使として森有礼が着任した。

その後、日本人が定住者としてあるいは労働者として華府に入ったのは、1914、15年の第一次世界大戦ごろからで、ニューヨークからの商家や大西洋岸からの日本人船員たちだという。

その後の動きは簡単に記されているが、印象的なエピソードが添えられている。

「一九二六年に全米タイプライター大会が華府で開かれ、それに地方から選ばれて出場した日系人二世が四名ほどあり、そのうちメリー平川嬢などが華府連邦政府に日系人が就職した最初で、その後、一九四〇年前後には日系人二世女子事務員が十数名華府の色々なオフィスで働いていた」

このほか、日本人の動きとして特定の個人について何人か紹介している。1912年に華府に来た田坂碩夫は大阪出身で南米視察から米国へ転校して華府で花園業や美術店などを開き成功した。

西尾源一郎は、石川県金沢市出身で、1912年にテネシー州の写真専門学校を卒業、華府では写真店に修正技師として勤務、大統領の写真にも手を入れたという。

島庄覚は、沖縄出身で1914年14歳の時にハワイに渡り、苦学してハワイ大学を経て華府のジョージタウン大学法科で学んだ。飛行学校でも学び独立して飛行学校を経営したこともあり、戦後は日本料理店を開くなどした華府での日本人のパイオニアのひとり。

国際評論家として知られた河上清は、シアトルで活躍後アイオワ州立大学を経て1916年ごろ華府に入り、文筆生活に入った。


「二世部隊生みの親」 

正岡マイク勝氏、「百年史」より

こうした人物紹介のなかで、特別扱いをしている人物がいる。「正岡マイク勝」だ。この章はこの人の紹介が中心と言ってもいいほどだ。一般に移民史のなかでもマイク正岡として知られる同氏について、百年史は3ページを費やしている。

「民族第一線の英雄」という肩書きで、また二世部隊の生みの親として、そして数々の日系人の権利に関わる立法功績者としてその内容を詳しく記している。

まず、カリフォルニア州フレスノで熊本県人を父にもち誕生といった同氏の生い立ちから、ハイスクール時代や大学時代の活躍にふれ、そして1941年に全米日系市民協会最初の有給書記長に選出されたこと、開戦後の混乱期に日系一世のために働いた点をまとめている。

「二世部隊生みの親」としては次のように書いている。

「正岡氏はまたあの日系人一、二世が感情的に走り、米人間に反日的気分が強かったデリケートな時期に於いて、日系市民の忠誠心披歴こそ刻下の急務として二世部隊の創立を主張し、四四二部隊の結成に協力、南部、東部、中西部につくられた転住所の永久存続を阻止し、一時も早く西部沿岸が日系人に解放される事を米国当局に要求した」

また、本人も442部隊の一員として欧州戦線に参加し功績を残したという。ロビイストとしても、多くの法案の成立に尽力したとされる。

その例として、「移民帰化法案(ウォルター・マッカラン法、1952年)や難民救済法(1953年)、「軍人花嫁法」(1947年)、「立退損害賠償法案」(1948年)などを紹介している。 


フィラデルフィアを中心に

ペンシルベニア州の日系人については、アメリカ独立運動の発祥の地である州都フィラデルフィアでの足跡をまとめている。百年史では同市を費市と表している。

「古くは一八八〇年すでにぺ州に八名の日本人が住んだと国勢調査が示すが左の統計(国勢調査)が示す如く、戦前の一九四〇年現在、わずか二二四名の日系人であったものが、一九五〇年には一〇二九人に飛躍、さらに一〇年後の一九六〇年は二倍強の二三四八名に急増したのは、工場や事務所などへ就職した二世や日本からの留学生もさることながら、やはり他州と同じく軍人花嫁の急増が主体と見られる」

フィラデルフィア市では、ボストンと同じように、1890年代に日本人が入り、茶商、雑貨商、留学生、家内労働者として居住したとみられる。

その一例として馬場辰威という人物について触れている。彼の墓は今(1960年ごろ)も同市に残っている。1894、5年ごろ勉強のために同市に来たといわれ、苦学してホテルなどの給仕人として働き一時帰郷した。

グラント大統領が訪日の際に「馬場辰威が日本に居る筈だから呼んでくれ」と、名指しの申出があったと伝えられる。

また、1897年に渡米してアトランティックシティー(ニュージャージー)に十数年暮らしてから1912年にフィラデルフィアに移った妹尾森造(岡山県人)は、日本美術店を開き、一方で日本船への食料品積み込みを業とした。

「日米戦争になる前、日支事変で日本軍が揚子江上陸に於いて米軍用病院船パナイ号を爆撃したことから、憤った市民の日本品ボイコットをピケット三か月もやられ、大損をしたこともあった」


日系二世大学生の転校就学を援助

日米戦争がはじまると、太平洋沿岸の日系人二世の大学生で現地で勉学を続けられないもののために、フィラデルフィアでは積極的に学生を受け入れる動きがあった。

1942年夏ごろからはじめて学生が移ってきたが、これに尽力したのが学生転住委員会だった。

「・・・学生転住委員会は、費府スワスモア大学長ジョン・ネーソン博士が、戦争のため有為な青年学徒が転校先が定まらず無為に過ごすことを残念とし、中西部以東の主な大学に働きかけ、転住局と合同会議を開き結成したもので、ネーソン博士自ら委員長として尽力、この委員会の斡旋で、戦時下といえども各地大学に転校入学できて恩恵を受けた日系人学生の数は二千数百名に上った。戦後これらの大学卒業日系人二世が全米のあらゆる方面に活躍していることを思う時、ネーソン博士を中心とする学生転住委員会の仕事は計り知れぬほど大きなものであった」

転住した二世男女が独立博物館の自由の鐘の前で自由に散歩する風景「百年史」より  

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「南部大西洋沿岸諸州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

issei Mike Masaoka Pennsylvania Philadelphia resettlement Washington D.C.

About this series

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。