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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第26回 ニューヨーク州の日系人

広告ページのなかから(「百年史」より) 

アメリカの中部、東部、南部の諸州の日系人について、「百年史」が割いているページ数は一部を除いて少ないが、大都市ニューヨーク市を抱えるニューヨーク州は別格で、広告を含めて50ページにわたりその足跡、活動をまとめている。

経済の中心でもあり、銀行、商社、運輸、証券、飲食など日系の企業やお店の広告もふんだんに載せている。少し紹介すると、「味の素」、「伊藤忠アメリカ会社」、「三井商船株式会社」、「日本料理さいとう」、「高島屋」などだ。

ニューヨーク州の日系人の人口は国勢調査だけをみても、1900年に350人、1910年には1247人、さらに1920年には2686人と増えている。その後それほど大きな変化はないが、戦後1950年には3893人だったのが1960年には8702人と急増している。

「百年史」ではまず、「紐育日本人史」として、その歴史をまとめている。以下、その概略を追うと……。

まず日本人の草分けとしてしては、1860年、新見豊前守一行が修好条約批准交渉のため渡米しニューヨークにしばらく滞在した。1866年ごろニューヨークの郊外に小農園を経営していたトーマス・レーキ・ハリスのもとに英国から訪れた長沢鼎などもニューヨークの地を踏んだ日本人中の先輩であろうとみられる。

1872(明治5)年には領事館が開設され初代領事として富田鉄之助がついた。

商業面では1876年3月にボストン工大の佐藤百太郎の案内で、森村豊らがニューヨークに入った。佐藤と森村は生糸商を開業した。その後80年には横浜正金銀行が支店を開設、82年には三井物産が支店を開いた。

貿易商や生糸取引業などが目立ったが、かわったところで1902年に「博覧会王」と言われた櫛引弓人が、マディソンスクエアガーデンにある大建築の屋上全部を借り受けて日本式公園を開業した。

日本人社会も徐々に発展し、1907年に日本人の本格的な団体として日本人共済会ができ、1912年にはニューヨーク州のロングアイランド、マスべス町に紐育日本人墓地を購入した。

日本人墓地(「百年史」より)

1905年には社交機関として日本倶楽部が設置された。創立者は高峰譲吉らで、その後倶楽部建屋には大食堂やゴルフ練習場も設けられた。新聞、雑誌としては1900年に星一、福富正利などによって「日米週報社」が創刊、11年には「紐育新報」が創刊した。 

初期の日本人のなかで「代表的三人物」として、新井領一郎、野口英世、高峰譲吉が紹介されている。新井は、20歳で北米に渡った日本の生糸貿易の開拓者であり、新井の歴史は生糸の歴史であるとまで言われた。

これらのほか、「日米貿易の発展」「日支事変と米国の空気」「紐育万国博覧会」などについてまとめられている。

日米開戦と国民外交 

「百年史」では、日米開戦がもたらしたニューヨークの日系社会への影響と、日系社会の反応については細かく記している。

アメリカに本拠地を置いた永住者は特に厳しい立場に置かれ、そのため有識者の間に国民外交という運動が起った。

「要するに、日系人は従来の日本政府依存方針をやめて、永久滞在者の立場から米国民主主義の一部であるという自覚の上に立って、日系人に対する米国人の疑いをとけというものであった」

そして「東部日本人共護委員会」を組織して、こうした考えをまとめた対米人声明書を発表。日本政府の政策は自分たちとは関係なく、米国政府と民主主義に対する忠誠を示すものだった。これに対して米国の要人からは激励の返書が来た。

しかし、開戦直後となるとFBIによって、12月7日から8日夜にかけて拘引された日本人はニューヨークで100名以上に達した。その後の数週間は不安と混乱がうずまいた。

一方で「寛大であった米官憲の措置」としてその対応や日系人に対する一般人の態度が書かれている。これによると、「米国人の態度は予想に反して冷静なものであった」という。ただし、酒場で口論をして殴られてそれがもとで死亡した例や、自宅で射殺された例などもあった。 

戦時中のニューヨークの日本人の動きとして「東部日本人共護委員会」が組織替えして誕生した日米民主委員会の活動が活発だった。日本軍部を糾弾し米国に忠誠を誓うなかで、戦時寄付金を集めたりして日本人の立場を良くしようとつとめた。

また、二ューヨークを訪れる日系兵士の案内にあたったり慰問をしたりした。日本に民主主義勢力が存在するということと、民主主義を信奉する日系人の団体があるということをアメリカ人に認識してもらおうとしばしば大会を開いた。

これには、パール・バック女史など外国人も多数参加、「民主的日系人の立場を擁護した日白人よりなる聴衆は三百名を突破したが、開戦直後の日系人主催の会合に斯くも多数の参加を見た事は意外とされた」。大会は戦後も行われ、「独立自由の日本」を要求する声を高めた。 

このほか、日米民主委員会の活動としては、ニューヨークへの転住者のための協力や、民主教育のための教育事業を行い出版物を刊行した。

日系人によって主催された団体ではないが、開戦直後から反米の行動をとらなかった日本人を救助し、日系人の福祉のために活動した団体としてニューヨーク教育委員会があった。彼らは日系人の困窮者の救済などを行った。

このほかの団体として、紐育教会、基督教修道会、メソヂスト教会、基督教青年聯盟、紐育仏教会などが活動していた。

日系人の転住については、最初は順調に行かなかったという。その原因の一つは、キャンプ内の人が外界を必要以上に恐れていたためだった。また、いくつかの問題が転住をめぐっておきた。ニューヨークのブルックリンでは、転住者の宿泊所として借りようとしていた家の近隣から反対の声が上がった。日系人が多数住むと地価が下がるなどの理由だった。

しかし、全体としては転住は順調に推移して、日系人を強く擁護する動きや論調も活発だった。

ヒロシマ・メイデンス

1947年8月から限定的に日米間の民間貿易が許可され、徐々に日本の銀行や商社の事務所がニューヨークに設けられ、52年の初頭で40社を超えた。海運事業も復活し、日本人商業会議所や日本倶楽部も復活した。

このほかいくつかの象徴的な出来事があった。第二次大戦中に結成された日系人部隊である442部隊の協会が結成された。また、「ヒロシマ・メイデンス」と呼ばれた原爆犠牲者である日本人女性たちがニューヨーク市を訪れた。

「一九五五年五月、原爆によるいたいたしい傷痕を顔面、手等にとどめた広島のうら若い乙女たち二十五名が、当市のマウント・サイナイ病院で外科手術を受けたるめに来市した。(中略)手術は順調に進行し、そのうち九名は一九五六年五月、来た時とは見違えるほどの姿になって帰国し、爾余も次々に郷里に帰って行った」

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は、「ニュージャージー州とニューイングランド諸州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

issei new york

About this series

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。