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ある初老の一世の物語

派米農業労務者事業(カリフォルニア農業研修生)をとおして加州(カリフォルニア)にやってきた鹿児島県出身のYさんは、州南部はアリゾナ州境に近いインディオ(Indio)にある、アルメニア系が経営するブドウ園において、同郷の数十名の仲間たちとともに炎天下のなか一生懸命働いていました。1

ある日のことでした。Yさんは、近隣の農場に、身寄りのない初老の一世がいることを知り、会いに行くことにしました。話を聞いてみると、この人物は、Yさんと同じ鹿児島県の出身でした。そして、Yさんに、みずからの過酷な移住生活を語ったのです。

物心がついた頃から、彼には何か大きなことをやって身を立てたいという、漠然とした思いがありました。20世紀初頭、すでに鹿児島県からは多くの人が、アメリカに移住していました。移住した人のなかには、ある程度の経済的成功を収めた人々や、同郷の女性との結婚のため、日本に戻ってきた人々がいました。

明治18年頃の外国人居留地周辺、神戸市(ウィキペディアより)

近い将来、自分も外国から戻ってきた人のようになりたいと、この一世はアメリカへの移住を強く願うようになりました。残念なことに、彼はそのような機会に恵まれることがなかったので、運を天に任せ、アメリカ行きの船が出る神戸に行くことにしました。神戸にたどりついた彼は、同じように外国への移住を目論む人と出会い、共に太平洋を横断する船にこっそりと乗りこみました。

何日もの船旅ののち、船は太平洋を横断しました。しかし、たどり着いた先は、アメリカではなくメキシコでした。彼らは、メキシコ行きの船に乗ったのです。船から出た彼らは、北のアメリカを目指し、幾日も歩き、国境のコロラド川を横断し、ついには、アメリカの大地に足を踏み入れることに成功しました。

それから数日後、彼らは、ようやく小さな町にたどり着き、この町にあった農場で働くことになりました。彼らはこのとき、「安住の地」を得たと思ったことでしょう。ところが、この町に着いてからまもなく、彼らはINSの存在を知りました。2

1920年代のINSの役人(ウィキペディアより)

INSは各地の農場に不法就労者がいないか、常に目を光らせていました。抜き打ちで各地の農場にやって来ては、農場で働いている人々の滞在資格を調べることがしばしばありました。不法滞在がばれて、強制送還されてしまうことを恐れた彼らは、この町を去り、新たな「安住の地」を探し求めねばなりませんでした。このときを境に、この一世は一緒にアメリカ入りをした仲間とは、別の路(みち)を歩むようになりました。

「この町にも、もうすぐINSの役人が来るかもしれない」という噂を聞くたびに、町という町を転々としました。加州のみならず、アリゾナやユタ、オレゴンやワシントンなど、彼はどこにでも行きました。

逃亡生活を繰り返していた彼は、十分な貯金をすることが出来ず、故郷の鹿児島に錦を飾ることも出来なければ、生涯の伴侶と出会う余裕もありませんでした。それでも彼は、明るい未来がやってくることを信じて、新天地アメリカで、必死になって一日一日を活きたのです。

そうこうするうちに、日本の真珠湾襲撃を機に日米戦争が勃発しました。多くの日系人が強制収容されましたが、彼は、そのような世の中の流れを知ることなく、ただただアメリカ社会で活きることに精一杯でした。そして、この日、Yさんという同郷の若者と、運命の出会いを果たしたのです。

Yさんは、身寄りのない年老いた彼の話を聞いて、何とかして救ってあげたいと思いました。そこで、ロサンゼルスの総領事館に相談しました。

数ヵ月後、サンフランシスコの総領事館で書記官をつとめていた伴正一さんから、彼のもとに、一通の手紙と、加州の身分証明書が届きました。伴さんは、過去の移民に関する法規を調査し、彼が合法的にアメリカに滞在する資格をもっていることを確認したうえで、読み書きのできない彼に代わって、身分証明書を申請したのです。3

実は、排日移民法が成立する以前に、アメリカに非合法に入国した日本人は、所定の手続きをとることで、合法的にアメリカに滞在することが可能だったのです。戦前の日系人社会においては、非合法にアメリカに入国をした人々への対応をめぐって、色々な意見が交わされました。とりわけ、旅券や査証を持たない立場の弱い人々を私利私欲のために搾取した人々がいたことは大きな社会問題となりましたが、その一方、彼らの救済に奔走した同胞もいました。4

もしも、この一世が、日系人社会とつながりがあったならば、あるいは、読み書きが出来て、アメリカの法制度を知っていたのであれば、INSの魔の手から逃れる人生を送る必要は、まったくなかったと思います。

ようやく身分証明書を手にした彼のその後は、よくわかっていません。きっと、加州のどこかで、「安住の地」を得たことでしょう。

この初老の一世の話を聞いたわたしは、同志社大学の創設者、新島襄先生の存在を、ふと思い出しました。彼も非合法的な手段でアメリカに入国した日本人のひとりでした。20世紀初頭には、密入国をしてでもアメリカへの移住を実現しようとした日本人がいました。彼らの存在は、触法行為をした人々として、簡単に片付けてはいけないものだと思います。旧来の社会制度が残っていた当時の日本社会で、幸せや豊かさを求めた人々の特別な思いが反映されているのだと思います。5

現代の多くの日本人にとって、非合法の海外渡航といえば、近隣諸国からの不法入国者といった、外国人による犯罪行為というイメージが非常に強いと思います。6 しかしながら、日本社会の歴史をひもとくと、密入国という、大きなリスクを背負ってまで、外国に渡った日本人がいたことを、忘れてはならないと思います。そして、密入国を経験した人々のなかには、のちの日本社会に、大きな影響をもたらした人々がいたことも、日本社会の歴史における、ひとつの事実だと思います。

注釈:

1.Yさんによると、この当時の鹿児島出身の若者たちの働きぶりは、地元住民によって高く評価され、この町での反日感情が消えたとのことです。

2. 移民局 “Immigration and Naturalization Service” の略称―2003年に廃止されたのち、市民権・移住局 “United States Citizenship and Immigration Services” に移管されました。

3.伴さんについては、「伴正一さんと戦後の日本政府の移住政策について」を参考にしてください。

4.映画「Lil Tokyo Reporter」にも描かれた藤井整は、密入国した一世の人権擁護に奔走した一人でした。

5.数年前に、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館において、日系人社会の歴史をテーマにした特別展示がおこなわれましたが、その展示のひとつに、愛媛県に住んでいた日本人が密入国に使った船の模型が展示されました。

6.日本国法務省によると、現在の日本国内における非合法滞在者は約6万人で、そのうちの約7割が近隣諸国の出身者です。なかでも「特定アジア」と呼ばれるようになった、中国と韓国からの非合法滞在者が多く、全体の約4割を占めています。

 

© 2015 Go Takamichi

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