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カーニバルと日本移民 ~異文化がブラジル民俗に~ その1

そもそも「ジャポネース」(日本人)と「サンバ」ほど似合わないものはない――という認識がブラジル人一般にはある。たとえば、著者はサンパウロ市内の複数のサンバチームで10年ほど打楽器を叩いてきたが、楽曲が乱れた時にサンビスタ(サンバ奏者)が「Japonês entrou no samba」(日本人がサンバに入った)と表現するのを聞き、悔しい思いをした。最初はてっきり自分のことかと思ったが、実際はそうではなく、そのうちに「誰かがリズムを乱したときに使うポルトガル語の慣用句」だと分かった。もちろん辞書には載っていない庶民のスラングだ。

日系選手が非常に少ないサッカー界においても同様の慣用句「日本人の足は木の棒」(Japonês tem perna de pau)がある。ボールタッチが柔軟で自在なのがウリのブラジルサッカー界において、「棒のような足」というのは致命的なほど動きが硬いことを意味する。「真面目で硬い日本人には似合わないもの」と見ているブラジルの庶民感覚が言語化されたものだろう。


初サンバ挑戦者ヤマモト

エスコーラ・デ・サンバ(サンバチームのこと)に初めて本格的に参加した日本移民は、「ジョアン・ジャポネース」こと山本マサヨシさん(故人)だ。

山本トゥーリアさん

娘のトゥーリアさん(42歳、二世)=2003年に取材=にいわせると「本当にボヘミアンな人(自由奔放な暮らしをする人)で、サンバをやりにいくと朝まで帰ってこない人だった」。

どれほどボヘミアンかといえば、実の娘ですら父親の写真1枚なく、その生年月日、日本の出身地、ブラジル渡航年月日はおろか、死亡年月日すらわからないほどだ。娘の記憶によれば「父がサンバを始めたのは戦争中までさかのぼるはずだ」という。

今でこそサンパウロ市リベルダーデ区といえば「日本のカケラ」「東洋街」として知られているが、戦後の話だ。かつては黒人と縁の深い場所だった。リベルダーデ広場は、かつて「ラルゴ・ダ・フォルカ(首つり広場)」と呼ばれた黒人奴隷たちの絞首刑場だった。「あの世で永久に自由(リベルダーデ)になれ」との逆説的な意味合いが込められている。

その広場から坂を500メートルほど下ったバイシャーダ・グリセイリョ地区は、戦前からの古い黒人コミュニティがあった。そこにサンパウロ最古、1937年に創立したエスコーラ・デ・サンバ「ラバペス」が今もある。

山本さんは6歳で両親と共に移住し、戦中の頃から多くの日本移民と同じように東洋街で洗濯屋をしていたようだ。大金がなくても家族だけで始められ、難しい会話も必要ない洗濯業は、ブラジルに限らずアルゼンチンや北米の日本移民にとってありがたい職業だった。

戦後、子どもをサンパウロ市の大学に進学させることを決意した家族の多くは、地方から出てくると友人や先輩を頼ってこの職業についた。多くの日系人が日本語の歌謡曲や民謡を郷愁混じりに愛唱した時代に、山本さんは黒人の音楽にのめり込んでいった。


異文化として排斥された日本文化

トゥーリアさんいわく、「当時の黒人コミュニティは排他的で、地元の白人ですらなかなか仲間に入れない時代だった。まして日本生まれの父は最初大変だったと思います」。

サンパウロ市のサンバチームの歴史を描く『Escolas de Samba de Sao Paulo (Capital)』(Wilson Rodrigues de Moraes著、Conseho Estadual de Artes e Ciencias Humanas、1978年)には、「67年以前、サンパウロのエスコーラは、ほぼ全てが貧困層である黒人やムラート(黒人と伯人の混血)によって占められていた」(77ページ)とある。

1930年に成立したゼッツリオ・ヴァルガス独裁政権は、欧米とは異なるブラジル独自の文化やスポーツを振興することを通して、ブラジル人意識の発揚、国民アイデンティティの強化、つまりナショナリズム政策を強力に推進した。

ブラジルは1822年独立するまでは「植民地」として出版や新聞発行などの文化的活動を禁じられ、独立後も1888年まで皇帝に支配されていた新しい国だ。独自の文化を自らの国の内部に探し育てる試行錯誤が、この時代に懸命に行われていた。

その中で、ヴァルガス大統領は1937年に「サンバのエスコーラはパレードで歴史的、教訓的、あるいは愛国的なテーマをドラマ化して表現しなければならない」という大統領令を下した。それにより、リオの一地方音楽に過ぎなかったサンバ、黒人奴隷がアフリカ大陸から持ち込んだ民族音楽は、体制の保護を受けて「国民音楽」として成長してきた経緯がある。

同様にヴァルガス大統領はプロ・サッカー選手の職業組合を組織し、労働法規を整備して振興した。

同政権は国民のナショナリズムを目覚めさせることの裏返しで、外国人移民、特に枢軸国側移民に強制的な同化政策を行った。例えば、日本移民に対しては戦前から戦中にかけて、邦字紙廃刊、公の場での日本語禁止、日本語学校の廃校、日本移民が町を出て移動する場合には警察の許可が必要などの処置を次々に繰り出した。

つまり、日本文化はブラジルとは相いれない〝異文化〟だと明確に線引きされていた。そんな厳しい時代に、トゥーリアさんの父は夜な夜なエスコーラに出入りして、ボヘミアンな生活を楽しんでいた。

日本移民や日系人にとって「真面目」「勤勉」「正直」が自己認識であり、サンバは「裸踊り」「クロンボのばか騒ぎ」という印象が強く、ほとんど参加してこなかった。ブラジル料理やポルトガル語は必要にかられて生活の一部に取り入れてきた日本移民だが、サンバは最もエギゾチックなブラジル文化として距離が置かれてきた。


ボヘミアンすぎて母に見放された父

「レージ・ナショナル・デ・サンバ」というラジオ番組を27年間も続けて、サンバ界の生き字引的な存在であるエヴァリスト・デ・カルヴァーリョさん(77歳)=2003年に取材=に尋ねると、やはり「ジョアン・ジャポネースが日本人で最初のサンビスタだ。間違いないよ。あの当時、ほかにエスコーラに入ってくる日本人はいなかった」と太鼓判を捺した。「特にクイッカやタンボリンが上手かった」という。

トゥーリアさんの母は北東部のピアウイ州出身で黒人系の血が入っており、当時、日本移民が黒人系と結婚することはごく珍しかったし、今でも多くはない。当時の同胞社会には「黒人と結婚した人は日本人コロニアには入れない」という暗黙の了解があった。まして、戦中戦後の時期であればなおさらだっただろう。

娘は「父が母と結婚した時は、父方の親類から総反対されたと聞いてます。当時のエスコーラは黒人ばかりが集まるところと、日本人は敬遠していました」と振りかえる。山本さんは日本移民ばかりだったリベルダーデ区に住みながら、同胞との付き合いをほとんどしてこなかった変わり者だったようだ。

娘いわく「父があまりにボヘミアンだったので、母が愛想を尽かして離婚してしまいました」という。娘が14歳のとき、1975年頃に父は海岸部のグアルジャ市に引っ越し、別の黒人系女性と同棲を始めて以来疎遠になり、「99年ごろに亡くなったと噂に聞いた」という。

日本人初のサンビスタの人生は、型破りすぎていまだに注目されることはほとんどない。

トゥーリアさん自身もリベルダーデ区の隣り、ベラ・ヴィスタ区にあるサンパウロ最古のエスコーラの一つ「バイバイ」に子どものころから参加してきた珍しい日系人だ。

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© 2015 Masayuki Fukasawa

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