Select a primary language to get the most out of our Journal pages:
English 日本語 Español Português

We have made a lot of improvements to our Journal section pages. Please send your feedback to editor@DiscoverNikkei.org!

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (1)

プロローグを読む >>

1941年の真珠湾攻撃の後、アメリカの西海岸に住む11万人以上の日系人が強制収容所に送られることになります。彼らの3分の2はアメリカ生まれで、市民であったにもかかわらず、日本人の血をひいているというだけで。個人の自由や平等がうたわれているアメリカ合衆国憲法があるにもかかわらず、どうしてこんな不正義なことが起こったのでしょうか。


1. 時代背景

立ち退き前の住居地(筆者作成)

日本からアメリカへの移民は、1885年ハワイへの移民から始まり、1890年代から1924年が全盛期でした。明治維新後の税制改正で、江戸時代の村単位でおさめる年貢から、個人でしかも現金でおさめることになり、現金のない農家は土地を担保に高利貸しから借りて、税金を払わなくてはならなくなりました。

そこで、貧乏な生活を余儀なくされていた農家の次男や三男が、一攫千金を夢見てアメリカに渡ってきました。それだけではありません。移民の中には明治中期の自由民権運動家や原敬の書生をしていた浅野七之助等、新天地に活躍の場を求めた人も多く含まれていました。

ジーン・オオイシは、後に自伝「引き裂かれたアイデンティティ:ある日系ジャーナリストの半生」(染谷清一郎訳)を書きますが、その中にこんな話があります。

ジーンのお父さんは熊本県有明海に面する長洲の生まれ。おじいさんはそこで魚の卸をしていました。お父さんが子どもの頃には、湾まで鯨が来ていたそうです。でも、魚が減ったせいで、いつしか鯨が来なくなり、それにともないおじいさんの仕事も激減し、店を救うためにと思った投資にも失敗し、多額の借金をかかえこんでしまいます。そこで、次男であるお父さんが、おじいさんの借金を返すために、19歳でアメリカに渡ってきました。1903年、サンフランシスコに到着。数年仕事をし、お金を貯めて日本に帰るのが目的でした。熊本で2年英語を勉強して来たものの、誰も頼れる人はいません。

来た当時は、レストランの下働きや果樹園で働いていましたが、一年後にサンタ・マリア・ヴァレーのグアドループに移ってからは、めきめきと頭角をあらわし、サトウダイコンの農園では、お父さんが日本人で少し英語が話せると分かると、日本人を沢山連れてくるよう頼まれ、監督として雇われます。それまで農園の主な働き手は中国人だったのですが、みな年をとっていくし、中国からの移民禁止令が出されていた頃で、新しい移民は来ないし、困っていたところだったのです。サンフランシスコに着いて7年目には自分の農園をもてるまでになっていました。「とうとうこの借金を返済し終えたことは、父の自慢の種である。祖父がまた頭を上げて長洲の街を歩けるようになった、と何回となく父は話した」と、ジーンは書いています。1

ちょうど、ジーンのお父さんがグアドループに移ったあたりから、日本からの移民反対運動が高まります。日露戦争での日本の勝利が、日本によるアメリカ西海岸侵略の恐怖をかき立てたことと、勤勉で低賃金で働く日本人が増えると、自分たちの仕事の競争相手になると危惧する経済的判断から、または「日本人をカリフォルニアから追い出せ」という人種偏見から、それらの動きを自らの利益につなげようとする政治家の思惑から……2 

西海岸の、特にカリフォルニアの日系人一世は、排日のうねりのなかで過酷な労働に堪える毎日でしたが、みんなが貧しい時代で、日系人同士助け合って暮らしていました。そういう困難な中でも、子どもたちをしっかり育て、子どもたちも勤勉・正直・忍耐という日本的な価値観を親の背中から学びとっていました。

図書館利用の状況

二世の子どもたちは、公立図書館を自由に利用していました。一世の親も、子どもたちが図書館に通うのを勧めていました。教育はとても大切だと思っていましたし、子どもたちには親を越えていってほしいとも思っていました。

日系の子どもたちは読書家でマナーもいいので、図書館員にもかわいがられていました。「この図書館ができて以来の一番いい利用者グループの一つ」と、シアトル図書館員も高く評価しています。サンフランシスコ中央図書館児童室のナタリー・メイヨー司書も「(日系の)子どもたちは図書館のルールを守り、本を借りて家にもってかえるのを素晴らしい特権だと考えている。こういうことを、アメリカの子どもたちも、外国人である日系の子どもたちから大いに学んで欲しい」と手紙に記しています。5

当時は公立図書館のもとに学校図書館が運営されていたため、公立図書館の司書が学校に本を届けていました。そういう状況の中で、一人の司書と子どもたちとの、今の図書館では見られないほどのしあわせな交流が記録に残っています。(「親愛なるブリードさま」ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳)です

多くの日系二世の子供達は、家から歩いて通えるサンディエゴ市立図書館ダウンタウン分室に行くのが大好きでした。本もだけど、「ブリードさん」に会えるから。ブリードはすでに14年もの間、子どもたちの側にいて本を手渡しつづけていました。

ブリードと子どもたちの間には信頼関係があったのでしょう。子どもたちはブリードには何でも話していたようです。ブリードもそれに答えて、一人一人にまっすぐに向き合っていました。ブリードの所に通っていた子どもたちが、「ブリードさんの子どもたち」です。テツゾウとルイーズはこう語ります。

ブリードさんが本という魅惑的な世界にいざなってくれました。…… 皮肉な事に、親にかまわれなかったのがよかったのでしょう。母は僕が5歳の時に亡くなり、父は一日16時間働いていました。面倒を起こさずまっとうに生きろと、それは厳しく言われていましたので、そのせいもあって本の虫になりました。図書館の本棚の端から端まで手当たり次第に夢中で読みました。夏が終わり学校が始まると学校の図書館、夏休みが来るとまた町の図書館、という具合です。その間中、ブリードさんがそっと優しく導いてくれたのです。6         
                          テツゾウ

わたしが本をよみはじめたのは8歳のころだったと思います。ブリードさんが児童図書館で始めた夏の読書クラブのおかげです。彼女はとても優しく親切で、いつもうれしそうな笑顔でわたしたちを迎えてくれました。読書クラブのお陰で、夏休みの間中忙しく充実した日々を過ごすことができました。いろいろなプログラムを用意してくださっていましたが、その一つが読書で世界を旅することでした。彼女は地図を作り、わたしたちのためにさまざまな国の本を用意してくださいました。読書クラブに入ると、それぞれ番号をもらいます。そして一冊読み終わると、わたしたちの番号を書いた星をその国の上につけてくれるのです。こうしてわたしたちに夏を楽しく退屈することなく過ごさせ、読書好きにしてくださったのです。7
                          ルイーズ

バークレーに住むヨシコ・ウチダも図書館に行くが楽しみでした。自伝「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」をまとめる前に書いた本に、子どものときに好きだった本のことを書いています。

図書館の南バークレー分室に行くのが大好きでした。いつも私は子どもの本の所に直行です。最初にするのは背表紙に星の印がついているのを探すこと。わたしの好きなミステリーなんです。オーガスタ・H・シーマンの「古いバイオリンの謎」のような本をよく読みました。ヒュー・ロフティング「ドリトル先生」シリーズとかルイーザ・メイ・オルコットの「若草物語」と「第三若草物語」も好きでした。他にはアナ・シュウエルの「黒馬物語」とかフランシス・ホジソン・バーネットの「秘密の花園」なんかですね。…… 自分では日本語は読めないんですが、母に夜寝る前に「花さかじじい」とか「舌きり雀」とかの話をしてもらったり、わらべうたを歌ってもらったりするのが大好きでした。8

クララ・ブリードの勤めていた当時のサンディエゴ公共図書館(写真提供:サンディエゴ公共図書館)

図書館と一世

しかし、一世の親にとっては、公立図書館は決して居心地のいい所ではありませんでした。英語の読める人はごくわずかでしたし、日本語の本はほとんどありませんでした。多くの図書館員にとっても一世の存在は見えていませんでした。いや、見ようとしなかったのです。

こんな逸話をアンドリュー・ウエルトハイマーが日系人強制収容所内のコミュニティ図書館を調査した論文で紹介しています。1919年、第一次世界大戦後の不況下、サンフランシスコ市立図書館が、日本語の新聞の予約購読を止めるにあたり、日本総領事館に援助を要請した時の手紙です。「もし日本語の新聞を寄付して頂ければ、仕事や休暇で来る一時滞在の日本の方に喜ばれるでしょう」とありますが、当時市内には5,358人もの一世がいたのに、それには一言も触れていません。9

第一章(2) >>

 

注釈:

1. ジーン・オオイシ著、染矢清一郎訳「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1989

2. 1905年5月には、67にも及ぶ団体の代表がサンフランシスコに集まり、後に排日同盟を立ち上げることになります。1906年には、サンフランシスコ教育委員会は日系の子どもたちを一般の学校からすでにあった東洋人だけの学校に隔離すると発表。この方針を東京からのレポートで知ったルーズベルト大統領は困惑し、事態を打開するために、日本政府と調整を進める意思があることを表明。条件は、カリフォルニアが日系児童隔離を止めて、これ以上日系人を差別する条令を作らないと、いうことでした。その結果、日米の紳士協定が結ばれ、日本政府は以後、労働者のアメリカ行き旅券を発行しないよう自主規制することになります。

ヨーロッパからの移民とアジアからの移民と、大きく違う点がありました。ヨーロッパからの移民は帰化し、市民権をとれましたが、日本人や中国人にはその道は閉ざされていたことです。1913年のカリフォルニア州外国人土地法(第一次排日土地法)で、日系一世が土地を買うことも、三年以上、土地を借りるここともできなくなります。農業をするのに、3年毎に農地を変えて一から始めろというのは、あまりにも酷です。が、窮すれば通ずで、市民権のある二世の名前で土地を買い、一世の親は後見人として登録することできりぬけたケースも多かったようです。しかし、1920年には1913年の条令をもっと厳しくした、カリフォルニア州第二次排日土地法が通過します。今度は、日本国籍を持っている者に土地を売ったり、貸したりすることを全面的に禁止。土地売買のさい一世が未成年の子どもの後見人になることもできなくなりました。

3. 一世はアメリカの市民権がとれなかったので、本来は日本人ですが、日系アメリカ人の二世とともに、本文では日系人として記しています。

4. Becker, Patti Clayton. Up the Hill of Opportunity: American Public Libraries and ALA During World War II. [Doctoral dissertation] Madison: University of Wisconsin-Madison, 2002.

5. Tayler, Zada. War Children on the Pacific: A Symposium Article, Library Journal. Vol. 67, June 15 1942. American Library

Association (ALA) Archives.   「外国人である日系の子どもたちから……」と、メイヨー司書にしても、アメリカ生まれの日系の子どもたちはアメリカ人だという認識がかけていたことは残念です。ただ、顔かたちが違うというだけで。

6. Hirasaki, Tetsuzo. In Memory of Clara Breed, Footprints, news letter of the Japanese American Historical Society of San Diego, 3:4 Sinter 1994. ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳「親愛なるブリードさま」柏書房 2008

7. ジョアンヌ・オッペンハイムによるルイーズ・オガワへのインタビュー

8. Uchida, Yoshiko. The Invisible Thread. New York: Julian Messner, 1991.

9. Wertheimer, Andrew B.  Japanese American Community Libraries in America’s Concentration Camps, 1942 – 1946. [Doctoral dissertation] Madison: University of Wisconsin-Madison, 2004.

<<クリックして拡大>> 
家族構成:ヘンリー・ミヤタケ、ジーン・オオイシ、ヨシコ・ウチダ  
 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号(2013年4月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

camps children Clara Breed librarian library World War II

About this series

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。