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強制収容所の跡地で水彩画ワークショップを始めた二世画家ヘンリー・フクハラ

2003年の「マンザナ・ペイント・アウト」のヘンリー・フクハラ(左端)とフクハラの助手役をしてきたアルバート・セットンさん(右端)。中央はテレビ・プロデューサーのヒュール・ハウザーさん。
(写真提供=アルバート・セットン)

二世の水彩画家ヘンリー・フクハラの名前を初めて聞いたのは、2014年5月に自らの強制収容所の体験を水彩画で表現している三世メリー・ヒグチさんに会ったときだった。

ヒグチさんのアリゾナ州ポストン強制収容所での生活は3歳から6歳のときだったので、ヒグチさんに当時の記憶はない。しかし、フクハラが1998年に始めたマンザナ強制収容所跡地での水彩画ワークショップに毎年参加する中で、日系人の収容所体験を水彩画で描けるようになった。

ヘンリー・フクハラは2010年1月に96歳で亡くなっているので、本人にインタビューすることはできない。ヒグチさんの話しからフクハラの創作活動をよく知っている人物がUCLAに勤めていたアルバート・セットンさんであることがわかった。

2014年8月からEメールでセットンさんに連絡を取り始め、やっと10月になって、セットンさんのサンタモニカのアトリエでインタビューすることができた。セットンさんから聞いた話とシアトルの伝承プロジェクトの記録からヘンリー・フクハラとはどんな人物だったのか探ってみた。

ヘンリー・カズオ・フクハラは、1913年4月25日に、オレゴン州に近い、カリフォルニア州ハンボルド・カウンティーのフルーツランドで、フクハラ・イチスケとウメの10人の子供の長男として生まれている。

フクハラ家は、北カリフォルニアから南カリフォルニアに移住し、サンタモニカに農地を購入する。最初は、大半の日系農場のように農作物を作っていたが、農作物は相場変動が激しいことから、値段の安定している鑑賞用植物の栽培と販売に転換して行く。フクハラは高校生のときから絵の才能が教師によって認めらていた。サンタモニカ高校を卒業して、教師の勧めもあってオーティス美術学校に入る。しかし、フクハラの美術学校での勉強は2カ月で終わっている。

フクハラ家の農場経営が困難になり、農場を続けていくためにはヘンリーの労働力が必要だったからだ。家業の鑑賞用植物の栽培と販売を続けながらもフクハラの創作意欲は衰えなかった。リノリューム板を使った版画は、1936年のオートモービル・クラブの会員雑誌「ウエストウェー」に掲載され、また、同じ年に、ロサンゼルス歴史・科学・美術・博物館(現在のロサンゼルス・カウンティー美術館の前身)で展示された。

1942年、12万人の日系人は強制収容所に入れられる。フクハラ家はカリフォルニア州マンザナに送られる。収容所でも絵画の才能が認めらたフクハラは、収容所内の生活をスケッチで記録する仕事を、収容所を管理する戦時転住局から与えられる。このスケッチの仕事で、フクハラは、トパーズ、ローワー、ジェロームの収容所を訪れている。

マンザナ強制収容所の生活を描いたフクハラのスケッチは、本にまとめらて、1944年に各地の収容所で販売された。

フクハラは1943年には、マンザナを出て、アイダホ州でのサトウキビ収穫の仕事についている。

マンザナ収容所をでたフクハラは、フクハラ家の家業を再建できる場所を探し始める。そして最後にたどり着いたのが、ニューヨーク州ロングアイランドだった。ここのディア・パークという場所でグリーンハウス(温室)を賃貸することができたのだった。フクハラは収容所から家族を呼び、ここに「フクハラ・ホールセール・フローリスト」が始まる。

「フクハラ・ホールセール・フローリスト」は菊の販売で評判を得るようになって行く。グリーンハウスの地主が亡くなったときには、土地を買うことができた。花の卸業は、ロングアイランドの温室で栽培するだけではなく、コロンビアやオランダから花を仕入れ、ニューヨークで販売をする花貿易へと拡大して行く。海外での仕入や、小売り店と交渉はすべてフクハラの仕事だった。しかし、この花のビジネスの成功のため、フクハラのアートに使う時間は、まったくなくなって行く。

しかし、59歳のとき大きな手術をしたフクハラは回復後、アート活動を再開し、絵画指導も受けるようになる。65歳になった1978年には、ビジネスから引退し、父母・イチスケとウメといっしょに、サンタモニカに戻る。戦前、フクハラ家が所有していた住宅は、没収されていなかったので、年老いたイチスケとウメは、余生を温暖なサンタモニカで過ごすことを選んだのだ。

サンタモニカに戻ったフクハラは、すでに、水彩画家として知名度を得ており、やがて、サンタモニカ大学の成人教室やベニス・ジャパニーズ・コミュニティー・センターで水彩画を教え始める。

フクハラが後に「マンザナ・ペイント・アウト」と呼ばれる水彩画ワークショップを始めたのは1998年のことだった。当時、ベニス・ジャパニーズ・コミュニティー・センターでは、毎月第3土曜日に水彩画教室が開かれていた。フクハラは毎回、生徒たちといっしょに近隣のサンタモニカなどに出かけていき、屋外スケッチをさせていた。フクハラはそのスケッチの場所のひとつとして、マンザナ強制収容所の跡地があるオーエンズ・バレーを選んだのだった。第1回は25人が参加したが、その時の参加者には、最初は行き先も知らされなかった。

セットンさんは、1997年にフクハラに出会い、1998年の第1回の「マンザナ・ペイント・アウト」からフクハラの助手役をつとめていたが、フクハラは当時、セットンさんにも自分がマンザナに収容されていたことは語らなかった。

オーエンズ・バレーの壮大な大自然は、毎年、参加する水彩画家たちを魅了して行った。日系人の参加者の中からは、メリー・ヒグチさんのように自らの収容所経験を描く人も出てくるが、フクハラは絵画の描き方についてコメントをするだけで、収容所の体験や戦時強制収容についての自らの意見は語ることはなかった。

視力が衰えていくフクハラは、2005年を最後にマンザナに行くことを止め、2010年1月31日に96歳で亡くなるが、「マンザナ・ペイント・アウト」の参加者募集と絵画指導はセットンさんが引き継ぎ、水彩画家たちの間では、全米的に知られるワークショップになった。

2015年5月に計画されている4泊5日のワークショップには、全米各地から約100人が参加する見込みだ。

 

© 2015 Shigeharu Higashi

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