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『南米の戦野に孤立して』ブラジルで禁書にされた唯一の日本語書籍 ~ 不屈のジャーナリスト、岸本昂一 その2

その1を読む>>

〝危険な内容〟とは何か

では『戦野』には、戦時中に関するどんな〝危険な内容〟が書かれていたのか――。全体的に抒情的かつ日本礼賛色が強く、「勝ち組」の雰囲気そのもののトーンだ。

『戦野』の第1章1節の見出しのみを羅列すると「日伯国交断絶」「資金凍結下の苦闘」「日本語教育受難」「日本人農家五十家族立退命令」「市内の日本人、立ち退き命令」で13頁。さらに2節「昔懐かしコンデ街」では9頁に渡って説明されている。3節「海岸地帯の同胞四千人の立退命令」ではサントスの強制立ち退きの悲劇が8頁も抒情的に描かれている。

地元紙トリブナ・デ・サントス1943年7月10日付  

サントスの強制立退きが起きたのは1943年7月8日だ。同月初旬に一万トン級のアメリカ汽船2隻と6千トン級のブラジル汽船3隻が、サントス港沖でドイツの潜水艦によって沈没させられた。地元紙トリブナ・デ・サントスをひっくり返すと、日本移民6500人が24時間以内に強制立ち退きさせられ、加えて500人程度のドイツ移民、イタリア移民はなぜか対象から外された…。

《家も商品も家財道具も何も彼も一切を放棄し、羊の大群が追われてでも行くようにほんの着のみ着のままで、小さな手廻り品だけを持つ女達、子供の泣き叫ぶ声、老人のうめき声、兵隊の叱咤の声、延々長蛇のごとき堵列は追われるように鉄道線路へ! と引かれて行き、そこで貨物同様に汽車に積みこまれ、厳重に鍵をかけられて、伴れて行かれた所はサンパウロの移民収容所であつた》(『戦野』27頁)。

ブラジル史をみても、このような特定の民族を標的にした迫害政策は他にほとんどない。この悲惨な運命に押しつぶされた人たちは、政府に対する批難の気持ちを終生忘れなかっただろう。

岸本昂一はこのサントス強制立ち退きを《大南米におけるわれらの「出埃及(エジプト)記」》(同42頁)と譬えた。岸本のようなキリスト者にとって、ユダヤの民がモーゼに導かれてエジプトを脱出する苦難の歴史に匹敵する大事件であった。何千年経っても忘れられない様に、ユダヤ人はその出来事を「旧約聖書」に刻み込んだ。

下層労働者の視線から日本社会を抉った記録文学ジャーナリスト、上野英信(1923―87)も似た発想をした。九州の炭鉱が閉山されて働き口を失い、生き残るためにブラジルなどに渡った炭鉱労働者とその家族を追い掛けたルポに『出ニッポン記』(1977年刊)と名付けた。

岸本は日本移民版「出エジプト記」を本に書き残して「後世に言い伝えなければ」と考えた。だが、現在から見てみると、見事にその歴史的事実は正史から排除されていることが分かる。『移民70年史』でサントス立ち退きはたったの4行――。


政権への恐怖が正史を歪めた

戦後、日系社会を代表する組織が編纂した最初の正史『ブラジル日本移民70年史』(1980年、斉藤広志編纂委員長、同編纂委員会)から最も省かれているのは戦時中の話だ。編纂作業時期は軍事政権中で、政府批判につながる記述はご法度だった。岸本が『戦野』の中で書いたような戦時中に多くの日系社会指導者が収監された事実に触れていない。

戦後の日系社会リーダー層は戦争中の歴史を残すことを避けたが、岸本はそんなタブーに終戦直後から挑んでいた。

サンパウロ新聞創立に関わり、文協事務局長、県連会長も務め、コロニアの裏面をよく知っていたと言われる藤井卓治は、「日本語新聞最大の欠陥は、ブラジルの政治批判が許されないことにある。三浦日伯は日本の出先官憲批判で、時報と対立となりブラジル政治批判のワナにひっかけられて2度も国外追放の憂き目をみた」(県連『笠戸丸から60年』51頁)と書く。

「三浦日伯」とは、戦前に3回もヴァルガス大統領から国外追放令を出された日伯新聞社主の三浦鑿のことで、〝筆禍事件〟と呼ばれる。

戦前の三浦鑿の国外追放はもちろん、ヴァルガス新国家体制による外国語メディアへの規制強化と強制廃刊の苦い経験は忘れられるものではなかった。戦後も軍事政権によって外国語ラジオ放送は禁止になった。ブラジル政府批判が御法度であったことは、邦字メディア界全体に暗い影を落としている。

パウリスタ新聞編集長や『70年史』編纂委員長を務めた斉藤広志も1968年時点で、「この国の政局や政策を論じることは、いちめんデリケートな問題があるから、邦字紙の立場は『傍観者』という域から脱することはむずかしい。筆禍事件の前例もあることである」(ラジオ・サントアマーロ年報『放送』31頁)と邦字紙の態度を説明した。

日本で〝表現の自由〟と言った場合は内容の問題だが、連合国側の日本移民社会においては「日本語」という言語自体が問題にされた。邦字紙には二つの国の強力なナショナリズムの狭間を、漂いつづける宿命があった。


刑事裁判で10年闘争し勝訴

1950年3月にサンパウロ州中央裁判所で無罪判決、1953年10月には連邦中央裁判所の第二審でも無罪判決、その後、1957年から最高裁でも無罪を勝ち取り、都合10年の間も苦しんだ。

裁判書類によれば、岸本の帰化ブラジル人としての真摯な生活態度、6人の伯国籍子弟の父親として、キリスト者としての潔癖な人格が認められ、《国家の治安を乱すとの訴えとは異なり、この本はサンパウロの日本移民位関する体験記述型の歴史書》と最終的に認識され、「警察による翻訳には重大な欠陥が認められる」と指摘し、「無罪判決を下す」と書かれている。

つまり、警察による意図的な誤訳によって〃国家の脅威〃として仕立て上げられたことを、連邦裁判所が認めた。


人権侵害の代表的事例として認定された本

日本移民百周年を祝った2008年、サンパウロ市のレジスタンス記念館で行われた「勝ち負け抗争展」の中には、DOPSによって押収された『戦野』が展示された。軍事政権による人権侵害を繰り返さないよう市民に啓蒙する同施設に展示されたことは、ブラジル史の一部として認定されたことに他ならない。

かつて恐怖の象徴だったDOPSの建物は現在、レジスタンス記念館になっている  

勝ち負け抗争について書かれたものは一般的に、「勝ち組」を「日本が戦争に負けたことを認めない狂信者」「頭がおかしい人々」的なトーンで描くことが多い。その代表例が『狂信』(高木俊朗、1970年、朝日新聞刊)だろう。

「勝った」「負けた」という図式の矮小化自体が認識派的な歴史観であり、本来は「ブラジル政府への恐怖」が強いか、「祖国への忠誠」が強いか―というナショナリズム対立の図式だった。

だから負け組の中には過剰に日本や皇室を貶めるものがいたし、勝ち組の中には過剰にブラジル人をけなすものが出た。

勝ち組の主張には「戦前戦中に不当な弾圧を日本移民に対して行ったブラジル政府は、いずれ日本軍が上陸した暁には懲らしめられる」という想定を含んでおり、『戦野』に代表されるようにその言葉は政府批判の視点が常にあった。

戦前からの日系社会指導者層は戦中に、資産凍結や拷問、監禁によって心を挫かれていた。戦争中に政府から迫害された経験をうけ、戦前の日系社会リーダーはそのトラウマから勝ち組を鎮圧する側に回り、「勝ち組」を狂信集団として歴史に残すことで政権批判を押し込めようとした。

ブラジルの大手一般メディアですら政権批判がご法度だった時代に、岸本は正面からそれを日本語で書いた。バカ正直に戦時中の出来事を批判も含めて描いたから、コロニアでベストセラーになったが、政権からにらまれた代償は途方もなく高かった。

戦後70周年の今からすれば、岸本は戦争中に迫害されたにも関わらず心理的に挫けず、むしろそれをバネにして戦う姿勢を貫いた不屈のジャーナリストであったといえる。

 

© 2015 Masayuki Fukasawa

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