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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第27回 ニュージャージー州とニューイングランド諸州の日系人

「百年史」のなかの第二十一章「ニュージャージー州」と第二十二章「ニューイングランド諸州」の日系人について合わせて紹介したい。

ニュージャージー州については、日系人の足跡として、二つの点についてまとめている。一つは、初期の日本人についてで、それはカジノで有名なアトランティック・シティにおける日本人の歴史である。


アトランティック・シティーでの賑わい

1892年に神戸で商売をしていたあるアメリカ人が、日本人数人と共に、日本美術品細工実演、即売の隊商を組んで全米を巡回したのちにアトランティック・シティーに来て解散し、そのまま居ついたという。その後日本雑貨店を開いたりした。

また、ニューヨークでも活躍した「博覧会屋」と呼ばれた櫛引弓人がここでも事業を興した。1895年にアトランティック・シティーの海浜に空き地6エーカーを借りて、日本茶業組合の後援で大日本庭園をつくり、日本から丹頂鶴や京都の寺鐘、石灯籠、岐阜提灯二万個などを取り寄せて大々的に開園した。

1899年には、櫛引らが一ブロックを占めるティー・ガーデンをつくり、日本庭園で鶴を飼ったり大きな吊鐘を日本から取り寄せたりして、お茶を振る舞い日本雑貨を売って大繁盛した。

日本人が活躍するこうした盛況ぶりは、1900年から10年間ほどが全盛で、海岸通りのボードウォークには、2、3軒日本人店があってにぎわった。このころ日本人は男が50、60人、女が15人、子供が10人くらいだった。その後は大きな店はニューヨークに移るなどしてさびれていった。

こうした日本人のなかで岡山県人妹尾森造は1902年に米国市民に帰化したが、在米日本人のなかで最も早い方だったという。


シーブルック農場に集まる日系人

ニュージャージー州でもう一つ、日本人、日系人の目立った足跡としてまとめられているのが、戦中から戦後にかけてシーブルック農場という加工場に多くの日本人が集まったことである。

シーブルック農場は、ニューヨークとフィラデルフィアに挟まれたニュージャージー州の南端に位置するブリッジトンの郊外に位置し、各種野菜を冷凍あるいは缶詰にする加工場だった。この会社が、戦時下に労働力不足で悩んでいた時、手先が器用で勤勉な日系人の転住者を労働力として歓迎したため、当時、西部などの収容所にいた多くの日系人がこの農場にやってきた。

「各地転住局事務も積極的に同農場への転住を奨励、一九四六年夏の最盛時は二千三百名もが移住就働し、一時はロッキー以東最大の日本村が出現したのであった。従って、場所は変わっても、矢張りキャンプの延長のような感じを与えたといわれるほど、このシーブルック日本村も『戦争』の申し子の一つであった」

加工場で働く日系人女性(「百年史」より)

日系人が働いていたのは、農場のなかの一部である急速冷凍工場だったが、ここに初めて日系人が入ったのは1944年1月から2月にかけてで、12人の二世の青年がアマチ収容所(コロラド州)から来た。

その後も転住局を通じて労働者が募集され、ジェローム(アーカンソー州)、ローワー(同)、ヒラリバー(アリゾナ州)、マンザナー(カリフォルニア州)、アマチ、トパーズ(ユタ州)、ハートマウンテン(ワイオミング州)から多くの日系人がこの地にやってきた。

戦後の1946年には、ツールレイク(カリフォルニア州)から家族組がきたり、テキサス州のクリスタルシティーに収容されていた日系ペルー人200人が保釈となってシーブルックにきた。

こうして日本人村ができ、公共施設に日本人が雇われたり、日本人によるさまざまな店舗もでき繁盛した。基督教会や仏教会ができ、各種趣味の団体や日本語学校なども登場した。農園の日系人は、労働組合に所属したが、当初は慣れなかったという。しかし徐々に組合活動に参加した。

シーブルック農場では、その後農園の仕事が季節的であることや賃金が比較的低いことなどから、付近の工場に就職場を求めたり、独立して農業を行うものもいて人口は次第に減少した。

ニュージャージー州の日系人の人口は1900年は52人だったが、1930年には439人、1960年には3514人となっている。


目立つボストンの日系人

ニューイングランド諸州のなかでは、ニューヨークに近いコネチカット州とボストン市があるマサチューセッツ州以外では日本人移住は少なかった。人口統計をみると、とくにロードアイランド州では、1940年で6人で、メイン州では同5人、ニューハンプシャー州では同4人、バーモント州では同3人となっている。

ボストンでもっともはやく定住した日本人は、1890年前後のことで、松木という日蓮宗の僧侶だという。白人と結婚し東洋美術店を開いた。ついで、石川春水という日本人画家がいた。大阪に本店がありニューヨークに支店を開いた山中商会が、1898年にボストンにも店を出した。その後は、いくつか日本の商会が営業していた。

また、ボストン郊外のチャルスタオン海軍ヤードには1910年前後から日本人が洋食店を開いた。この海軍ヤードには輸送船などに乗り組む日本人コックや給仕人が多数出入りして、彼らを相手にした下宿屋や料理屋もあった。さらにこの周辺やボストン周辺の家庭で働いていた150人前後の日本人がいたが、その多くは「留学生や船乗りくずれだった」という。

ボストンでは、1915年に日本人共済会という互助会がつくられ、ここでは年に10ドルの会費で病気や死亡した人の世話をした。これが発展してボストン日本人会ができ日米関係の悪化するまで存続した。

ボストンは大学の町でもあり、日本からも多くの留学生が集まり、1905年ごろから日本人学生とアメリカ人によって浪花クラブという親睦団体がつくられた。これがのちにジャパン・ソサエティーとなった。

1935年ごろからは各団体が統一され日本人連合会が発足して、開戦まで日本文化の紹介などがつづけられた。開戦直後は主要人物が拘留されたが、一般に対日感情はよい方だったという。戦後は52年にジャパン・ソサエティーが再開した。 


牡蠣やウナギの養殖も試みられたが

ニューヨークからボストンにいたるまでの海岸線に散在する、ブリッジポート、ニューヘブン、ニューポート、ニューベッドポートなどの港町には、1910年ごろ日本人が船員やコック、給仕としてかなりの数働いていた。

「これらの沿岸で少数ながら漁業に従事したもの或は牡蠣、ウナギの養殖を試みたものもあったが、漁業関係者は日米開戦のため抑留され、間もなく釈放後も同業に復するもの殆どなく、牡蠣、ウナギの養殖は成功の域に達しなかった」

コネチカット州のサンフォードでは、洋食店、植木店などに従事する日本人がいた。ここでは野嶋順三(鹿児島県人)が洋食店で成功、地元の公園に日本桜二百本を寄付して、有名になった。また、隣接するノーウォークでは佐々木直広(愛媛県人)が洋食店を開いて成功、巨費を投じて和洋折衷の庭園などをつくり、庭園には八重桜も咲き、オリエンタル・ガーデンとしてアメリカ人に親しまれた。

佐々木直広一家(「百年史」より)

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「中部大西洋岸諸州とペンシルベニア州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

Atlantic City boston Connecticut Exchange Students Frozen food industry issei Japanese Garden Japan Society Massachusetts new england new jersey

About this series

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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