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麻が結わえた南米との絆 =エクアドルの古川拓植= その1/3

=戦前ダバオ、奇縁で再興= スザノからの転住者も入植

戦前からの熱い日本移民の志を引き継いだ男たちによるエクアドル移住――。南米の中でも日本人移住者が少なく、国策としての移民がなかったと言われるエクアドルだが、実は戦後、日本海外移住振興株式会社からの融資を受け、古川拓殖株式会社が事業を始めていた。知られざる「古川拓殖」のアバカ事業と、それに関係する日本人農業従事者の今を追った。

標高2800メートルの首都キトから車で3時間、途中、耳抜きを何度もしながら西へ下っていくと、サントドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県に入る。県都サントドミンゴ・デ・ロス・コロラドス=通称「サントドミンゴ」では、キトでは見ない三輪のモトタクシーが走り回り、むわっとした空気が漂い、まるでアジアのどこかの国にやって来たような錯覚をおぼえる。

そこからさらにアバカやパームヤシのプランテーションの脇を40分、未舗装の道を20分奥へ進む。ふと、拓けた空間にすっきりと整えられた芝が広がる。

古川義三の銅像

芝が象る文字は「FPC」(Furukawa Plantacions C.A.)。戦前、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオにおいて、南洋一の日本人社会を作った古川拓殖のことだ。同社は古川義三氏(1888―1985)によって1914年にダバオで設立され、「マニラ麻」とも呼ばれるアバカの栽培を始めた。

当時フィリピンでは同社を筆頭に、日本人のアバカ産業はめざましい発展を見せた。1930年代後半、ダバオには日本人が2万人も住み、アバカも同国の主要輸出農産物となり、輸出総額の1位を占めるまでになった。しかし、敗戦に伴い、フィリピン移住者の全財産は没収され、強制送還となった…。

戦後、ようやく移民政策が再開された。すでに70歳になっていた古川だったが、日本政府の要請で1959年にアマゾンへ視察に向かった。アバカ生育条件が満たされたエクアドルのケベド近くで、古川は米国が植え付けたアバカがある試験農園を視察した。

なんとそれは――1925年に、古川が米国に依頼されてダバオから送っていた苗の“子孫”であった。こうした奇縁からアバカ再興の地としてエクアドルが選ばれた。

あの古川拓殖がエクアドルでアバカ事業を再興すると知られると、ダバオの時代の強者たちが次々に名乗りを挙げた。中にはすでにブラジルに移住していた者もあったが、アバカへの思いに燃えて数家族が転住した。

半沢勝さん(71)もその一人だ。父の故金重さんはダバオ時代の古川拓殖におり、勝さんはダバオ生まれ。引き上げ後は福島に住んでいたが、戦後移住で62年にサントス丸で渡伯。聖州スザノ市へ入植し養鶏や野菜作りをしていた。

しかし、5年後に古川がブラジルまでエクアドルへの希望者を募集にやってきた。邦字紙に出た広告を見て一家はエクアドルへ移住することを決意した。

「エウ・エスケシ・ポルトゥゲース」と言いながら豪快に笑う半沢さんは、まだ現役でアバカの林の中をざくざくと歩く。

=ダバオ時代とほぼ同じ作業= ラバと人の目と手が頼り

「いつも上を見て歩くのが癖になっている」と、切り倒されたアバカで足場の悪いプランテーションを歩く半沢勝さん。上を見るのは咲きそうな花がないか探すためだ。開花直後がいちばんしなやかな繊維が取れるのだそうだ。

茎の太さによって取れる繊維の量が違うため、3本合わせていつも同じくらいになるよう切る茎を選ぶ。

茎を倒す前に余計な葉を切り落とすことを「ソンケ」と言う。柄の長い鎌のようなソンケと呼ばれる道具が使われる。

「トゥンバ」は茎を切り倒すことだ。茎と言っても、高さが3メートル、太さも20センチくらいあるため木が倒れるようだ。

3本揃えると、使わない茎で巧みに台を作り、葉鞘の繊維のある部分だけを見極め根元の方から剥がしていく。

道具は鉈のようなトゥクセイロという刃物だけ。皮を剥く作業「トゥクセ」からきている。

剥がされる葉鞘はまるで長い鞭のようにしなってうなる。華麗な作業は見ていて飽きないが大変な手間だ。

繊維は外側のほうが赤褐色、内側に行くほど白くてしなやかなため、等級は上がる。

次はブレーロと呼ばれラバで麻引き所まで束を運ぶ作業。ここまではすべてプランテーションの中で行われ、倒された茎の残骸はそのまま放置され肥料になる。

アバカはバナナと同じく、残された根から次々と茎が生えてくるので新たに植える必要はない。

ラバが運んできた葉鞘の束「トンギージョ」は、油でまっくろになった麻引き機「ハゴタン」で繊維にする。ダバオで日本人が発明した機械だ。

機械と言ってもヤスリがモーターで回っているような簡単な仕組みで、人が葉鞘をヤスリ部分に巻きつけ、葉肉を落としていく

「アサ(繊維)が強すぎて、手や足に巻かれると、すぱっと持ってかれるよ。へっへっへっ!」。そう豪快に笑い飛ばす様子からは、長いアバカ産業の歴史の一断面が伺われる。

効率化を計りたくとも、地面が平らでなく並んで植えられていないプランテーションから運び出すにはラバが最適だ。

ラバが引きずってゴミが紛れ込んだアサをより分けるのも、人の目と手が頼り。そうしたことから言葉だけでなく作業自体もダバオ時代からほとんど変わっていない。

独立した半沢さんは、43ヘクタールのアバカと22ヘクタールのバナナの生産を行い、それぞれを日系のABAUDESAとTECNOBANに納入している。

「昔は麻雀が楽しかったけど、日本人がいなくなっちゃったからね。今は夜ウィスキーを飲むのが楽しみだね」

半沢さんの後ろで素麺のように干されたアバカが風に揺れていた。

スザノから転住した半沢勝さん

その2 >>

 

* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2013年9月14、17日掲載)からの転載です。

 

© 2013 Nikkey Shimbun

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