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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その3/4

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山本五十六も2度訪れる

当初は米作にしぼり成功したが、のちに野菜作りに転換した。この間、日本人をはじめメキシコ系、アフリカ系、ヨーロッパ系の労働者も雇った。吉松氏はコロニーのために強いリーダーシップを発揮し、一方で地域にはさまざまな面で貢献しアメリカ社会に積極的に溶け込んでいった。

1924年には土地を提供してキリスト教の教会を建て、その運営にも私財を投じた。また、1928年にはコロニーの近くの学校に土地を譲渡している。彼自身は仏教を信仰していたが、子供たちにはアメリカで生活していく以上キリスト教を受け入れ、英語を学ぶべきだと考えていた。

1919(大正8)年、吉松氏が所有していた土地から石油が出ることが分かった。彼は「オレンジ石油会社」を設立した。このことを知って当時アメリカに留学中の山本五十六が、1921年、石油産業の視察のなかで岸コロニーに立ち寄ったことがある。日本の将来を見据えて石油資源に関心を抱いていた山本だが、数年後にも再び岸コロニーを訪れ、石油採掘現場を視察した。

2人の間には石油以外にも共通するものがあった。山本の生家も新潟の長岡で、吉松氏の実家と非常に近い。また山本の兄弟は吉松氏が日露戦争のときの仲間だったという縁があった。

その後石油は先細りとなり吉松氏は会社を売却、その利益でコロニーへの投資者に、投資額を3倍にして返済したという。一方で土地を購入し続けコロニーは拡大、経営も近代的に行われた。

こうして事業は順調に推移してきたがその後悪いことが重なった。キャベツが黄葉病にかかったり、冷害などで作物が大被害を受け、また運悪く全国的な大恐慌が追い打ちをかけた。事業拡大のために借り入れてきた資金を返済できなくなり1931(昭和6)年、吉松氏は所有していた約9000エーカーを手放すことになった。

当時の州法ではそのうち200エーカーは個人の住居として所有できることになっていたが、吉松氏はすべてを返済にあてるとして、これを断った。彼にしてみれば多少の利益より潔くすべて手放すことで名誉を重んじたようだった。このあたりが“明治の男”の気概だろうか。

岸コロニーは解散し、働いていた日本人たちは、州内外へ仕事や入植場所を求めて散り散りになった。

「吉松は、いろいろなことについて知識が豊富で、自宅でもマナーもしっかりしていたし規律のある生活をしていました。農業をやっていなかったら、外交官や立派なビジネスマンになっていたんではないでしょうか」と、ベッキーさんは話す。

何もないところに誕生した岸コロニーはこうして消滅した。その跡はいま、コロニーが存在した証しとして記念碑(Historical Marker)が立ち、近くにはコロニーに関係した人たちが眠る墓地があるという。

緑と水源に当時のコロニーを想像する

ポツンと道沿いに建つ岸コロニーの記念碑

ベッキーさんの息子で、吉松氏の曽孫にあたるロン・ヒラサキさんの案内で、岸コロニーの跡を訪ねてみた。一帯は緑の広がる草原で、まっすぐ伸びる道路沿いに背の高い木々が立ち並ぶ。ほとんどすれ違う車はない。近くをローカル線の鉄路が走り、古い橋脚の間を小さな川が流れる。夏に見る北海道あたりの田舎の光景に似ているかもしれない。

「JAPANESE LN」「Kishi Road」と書かれた道路標識が、日本人の足跡と地域への功績を物語っている。この Kishi Road をさらに行くと、記念碑が建っていた。テキサス州の1つの史跡として、岸コロニーの歴史がプレートに記されていた。

記念碑の向こうは、かつての住居などがあったところで、当時植えられたと思われる木々が育っている。周りは一面の草原だ。墓地はここから少し離れた所の、小さな運河のような穏やかな流れのそばにあった。

関係者だけが入れる場所へとロイさんの4駆でゆっくり分け入った。涼しげな木陰を後ろにして墓地が造られフェンスで囲まれている。風がほどよく吹きセミの声が響く。一面の芝のなかに20ほどの墓石だけが立ち並んでいた。

あるものは英語で、あるものは漢字で文字が刻まれている。古いものは日本の寺にある墓石をまねて作ったのだろう。年月を経て石が削られ一部文字が読みにくくなっている。

頭の部分が丸みを帯び、西洋風ともとられる吉松氏と妻のフジさんの墓石は、波乱と言っていい生涯に比べれば極めて素朴で、ただ「K.KISHI」「FUJI KISHI」と、手彫りで文字が刻まれている。

幼くして、あるいは若くして亡くなったものの墓がいくつかあることが、入植当時の厳しさを想像させる。しかし、この広い草原を見渡せば、厳しさに勝る事業への情熱が生まれてきたのではないかという想像もまたできる。

コロニー跡に造られた岸家の墓地とロイ・ヒラサキさん

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年9月3日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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