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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その2/4

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栄えたウェブスターの日系コミュニティー

西原が入植したウェブスターは、ヒューストンから南東へ車で30分ほど。そのまま南へ進めば、メキシコ湾に突き出たガルベストンの町につく。グレン・キャンベルのヒット曲「ガルベストン」に歌われた町だ。

ヒューストンからは真っ平らな土地をひたすら走ればいい。私が訪れたのは7月の初めで、照りつける陽射しがきつかったが、日本ほどの湿気はない。

ウェブスターには、西原以外にも数多くの日本人がかつて農業を営んでいた。いまもそのうち何家族かが暮らしている。香川米吉氏から始まるカガワファミリーはその1つだ。愛媛県出身の香川氏は、1907年に渡米、西原のように農園経営を始めていた大西理平氏の下で労働者の監督として働いた。

大西農園は、米価の暴落などが原因で1924年に解散となったため、香川氏は独立してウェブスターで野菜耕作を始め、とくにオクラ専門の農家として知られた。

彼は、一度郷里に帰り結婚、妻の喜知さんをテキサスに迎え入れた、2人の間には6男6女の12人の子供ができた。このうち、ウェブスターに住む5女のマーサ・グリフィスさん宅を訪ねた。

家族の写真を掲げるマーサ・グリフィスさん母子

ハイウェイ45号を降りてまもなく、静かな緑濃い住宅地の一角にグリフィスさんが暮らす家がある。刈り込まれた芝と茶色の外壁、そして白い窓枠がテキサスの夏の陽射しを受けてきれいなコントラストを描いている。

マーサさんと彼女の娘のデブラさん、そして香川氏と同じくかつてウェブスターに入植した小林光太郎氏の娘のリリーさんから話を聞き、その後でかつての畑の跡などを案内してもらった。

「当時、このあたりには日本人は4家族がいて、とても固い結びつきだった。アメリカ人のコミュニティーも日本人にとてもよくしてくれた」と、デブラさんは言う。父の米吉氏は、当時ウェブスター在留日本人のための共同墓地の世話役も務めていた。仕事に打ち込み、結婚のため若いころ一度帰国したが、以来日本に帰ったことはなかった。

「農業は成功したけれど、家族を養うために必死で、経済的にはけっして余裕があったわけではなかったんでしょう」と、デブラさんは思う。

一方、女性たちは右も左も分からない異国で孤独と背中合わせだった。

「母は17歳でここに来て、だれも知らず、英語もできずに、夫の帰ってくるのを、赤ちゃんを抱えて待っていました。たいへんだったと思う」と、マーサさんは、英語を話せなかった母親の苦労を偲ぶ。

家業は、米吉氏のなきあと、次男が引き継いだが彼の代で終えた。香川家の農地はその後売却された。小林家でも、農業を引き継ぐものはないが、ウェ ブスターに土地を所有し続け一財をなしている。その一部には当時の農家が形を残している。また、町の発展に伴い所有地が道路として提供され、 「Kobayashi Road」と名付けられている。

世界中を調査してテキサスに落ち着く

岸コロニーにちなんだキシ・ロード

アメリカでは、町を最初に開発した人や地域に貢献した人の名前にちなんで町や道路の名称がつけられることがよくある。テキサス州の東部の田舎町を走る「Kishi Road」は、この地にあった岸コロニー(Kishi Colony)を開発した岸吉松氏にちなんだものだ。

ヒューストンからハイウェイ10号で東へ2時間余、テキサス州東南部の都市ボーモントの近くに岸コロニーは存在した。その規模は日本人コロニーのなかでもっとも大きく、また一時は石油が産出された。

新潟県長岡出身の岸吉松氏は1871(明治4)年生まれ。祖父の代は大地主、父親は石油会社と銀行を経営する実業家。一橋大学に入学するが、その途中で日露戦争が始まり、軍事物資を調達する将校として戦地で活躍した。

終戦後は、満州に留まり農業に従事しようとも考えたが帰国。しかし、海外への事業欲は捨てられなかった。そこで彼は広く世界に目を向けて入植地を探した。

「南米やオーストラリアなども候補に入れて、どこで米作をしたらいいか調査をしていたようです」と、吉松氏の遠縁にあたる、ベッキー・ヒラサキさんは言う。ベッキーさんの夫のヘンリー・ヒラサキさんは、吉松氏の孫にあたる。いまもヒラサキ夫妻は、かつてのコロニーの近くで暮らし、岸ファミリーの一員であることに誇りを持っている。

入植地をアメリカにしぼってからは、吉松氏はカリフォルニアをはじめ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ミシシッピーの各州を回り、最終的にテキサス州東南部に定めた。決め手は比較的平坦な土地であることと、近くに水源があったからだ。

といっても、ほかにほとんど何もない、まさに原野の3500エーカーを当時7200ドルで購入。日本から働き手を募り、労働者としてあるいは借地農としてまず16人を連れてきた。ラバを使って土地をならし灌漑設備を造り、ようやく米作を始めた。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年9月3日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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