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https://www.discovernikkei.org/en/journal/2013/06/07/terminal-island-1/

第3回(前編) ターミナル・アイランド

ある土曜日の午後、私はサンペドロ方面に車を走らせていた。ハーバー・フリーウェイの終点の少し手前の分岐点で、緑色のヴィンセントトマス橋の方へと進む。昨年の夏に有名な映画監督が飛び降り自殺をしたこの橋は、水面下からかなりの高さがあり、ロサンゼルス港を眼下に見下ろせる。進行方向右手にはターミナル・アイランドが広がっている。ここは戦前、3000人もの日系一世と二世が暮らす漁師村だった。

戦争が始まると、彼らは強制的に収容所に送られた。今では、2002年に海沿いに建てられた記念碑だけが唯一の名残である。記念碑に掲げられた写真が、往時の小学校の様子、神社、街並み、漁師の姿を伝えてくれる。彼らはどこから来て、子孫たちは今どうしているのか…。それを知るために、ターミナル・アイランドの生き証人の一人、ロサンゼルス郊外に住む藤内稔さんに会いに行った。

小学校児童はほぼ全員日系二世

7歳まで暮らしたターミナル・アイランドの光景を今も鮮明に覚えているという藤内さん。手にしているのは和歌山の本家の屋号入りの和皿

藤内さんは1929年、ターミナル・アイランド生まれ、対岸のサンペドロ育ち。父親はパートナーと共に、マーケット内で野菜を扱うビジネスを手広く展開していた。

和歌山県西牟婁郡すさみ町江住出身の父は、地元の網元の21代目。カナダとの国境に近いワシントン州ベリングハムで、レストランを営む義弟(妹の夫)を頼って、1906年にアメリカに渡った。義弟はシチュー、パン、コーヒー、パイの食事を提供する10セントミールで店を成功させ、スポンサーとなって多くの和歌山の漁師をアメリカに呼び寄せていた。

藤内さんの父親は、その後、何度か日本とアメリカを行き来しながら、改めて妻を伴って1921年に海を渡った。その頃、義弟はレストランを売却し、ロサンゼルスの南、ロングビーチ港内のターミナル・アイランドに移っていた。缶詰工場の要請を受け、和歌山時代の本職、漁師に戻ったのだ。その際、多くの漁師がベリングハムを離れ、義弟と行動を共にした。

「ターミナル・アイランドの缶詰工場は腕の確かな日本人の漁師を必要としたのです。そして、漁師たちが捕ってきたマグロ、イワシ、サバ、それに白マグロ(アバコア)を缶詰にしていました。会社が漁師たちに住宅を用意し、安く貸していました。1軒の家に二世帯が入居できるような作りになっていましたが、漁師たちのリーダー的な存在だった叔父(父親の義弟)の家は、夫婦に子供が一人しかいないのに1軒分使っていたことを覚えています。リビングルーム,ダイニング、キッチン、ベッドルームがあって広々していました」(藤内さん)

病気になった祖母の看病のために数カ月日本で過ごした後、藤内さんの一家は帰米後1年ほど、父親の義弟の家に身を寄せた。藤内さんは6歳になっていた。

「ターミナル・アイランドの中の小学校に通いました。ウォリザー・スクールという学校で、先生は白人でしたが、子供たちはほぼ全員が日本人、漁師の子供たちでした。漁師の言葉は荒いでしょう。だから、子供も自然と親の言葉を真似して、荒々しい日本語を使っていました。私はそれをターミナル弁と呼んでいます。そして、当時、クラスメートが全員日本人だから、英語で会話をしない。結果的に英語で読み書き、算術はできるけれど、英語で話すことができないという状況に陥っていました」

小学校の子供たちの写真。ⓒwww.terminalisland.org

島の中ですべての用が足りた

一家は対岸のサンペドロに引っ越した。藤内さんは姉弟の中で一人だけ叔父の家に残り、しばらくウォリザー・スクールに通い続けたが、最終的にサンペドロの小学校に転校した。「そうしたら英語で会話できないという理由で、本当は2年生になるところだったのに、1年生からやり直すことになりました。その後は自然と英語中心の生活になっていきましたね」

家はターミナル・アイランドの外に移ったが、藤内さんは叔父を訪ねて頻繁に島に通った。

「3千人以上の日本人が生活していたわけですから、島の中で何でも揃いました。日用品や食糧はほぼ、ターミナル・アイランド内の店で調達できたし、レストランもありました。倉田という店が島に支店を出したので、冷蔵庫などの家電製品も買うことができました。漁師たちは外に行く用事がないから車を持っていなかったほどです。遠出するのは大抵リトルトーキョー、そこに行くにも対岸のサンペドロまで船で渡って、そこから電車で行っていました。リトルトーキョーに繰り出した漁師たちは漁で稼いだお金を景気良く使っていたそうです。ウメノヤ(あられなどの製菓会社)のオーナーが言うには、ターミナル・アイランドの漁師たちがたくさん(商品を)買ってくれたので大不況を乗り越えることができたそうです」

学校や漁業組合、商店以外に島には神社もバプテストのミッションもあった。さらには柔道や剣道の道場まであり、多くの子弟が汗を流していた。

しかし、日本人漁師やその子供たちの生活拠点だったターミナル・アイランドは、日米開戦後、全員が収容所送りとなり、残った施設のすべてが撤去され、完全にその姿を変えることになる。

後編>>

© 2013 Keiko Fukuda

California Los Angeles Terminal Island United States
About this series

Terminal Island, the Southwest, and Venice. This series visits areas near Los Angeles that were once home to Japanese residents and talks to witnesses about what life was like back then.

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About the Author

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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